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第2話 幻の小麦

 絵神原通りの朝の空気は、開店を控えた三つの厨房から漂う極上の香りに包まれ始めていた。


 手打ちうどん「みなと亭」の厨房。

 藍色の作務衣に真っ白な前掛けを締めた結城(みなと)は、普段の温厚でタレ目がちな目元を鋭く引き締め、真剣な眼差しで粉に向き合っていた。


「今日の絵神原町は湿度が六十五パーセントだから、塩水は十八度に設定する」


 長年の経験と感覚だけで、完璧な生地を打ち上げていく。太くたくましい腕がリズミカルに生地を鍛えるたび、千蔵屋の粉が持つ特有の甘い香りが立ち上る。彼が目指すのは、老若男女問わず、この町の人々が毎日でも食べたくなる「究極の日常食」だ。奇をてらわず、ただひたすらに優しく、力強い弾力を持つ一杯。それは同時に、連日の重労働で疲れを見せている穂波の胃袋と心を癒やせる、彼なりの最大の武器でもあった。


 そこから少し離れた麺処「獣王」の厨房。

 黒を基調としたTシャツ姿で、荒々しくタオルを頭に巻いた伊乃草(がい)は、まくった袖から引き締まった筋肉質の腕を覗かせていた。

 巨大な寸胴鍋から立ち上る猛烈な湯気の中で、彼は鋭くヤンチャな目つきで火加減を睨んでいる。


「穂波が製粉してくれた粉の風味に負けねぇ、最強のスープに仕上げてやる……!」


 昨日の自分を、そしてあらゆる常識を力でねじ伏せる。凱が求めるのは、一口食べただけで脳髄を痺れさせるような圧倒的なパンチ力だ。求道者のように限界を超えた極濃スープと麺を叩きつけ、誰よりも頑固なあの粉屋の娘に「俺のラーメンが一番ヤバい」と屈服させることだけを考えていた。


 そして、トラットリア「ルーチェ」の厨房。

 パリッとした糊の効いた純白のコックコートを完璧に着こなした浦涼真(りょうま)は、知的な銀縁の眼鏡の奥で冷徹な光を瞬かせていた。

 イタリア仕込みの洗練された手つきで、ソースの油分と茹で汁を結びつける「乳化」の作業を進める。


「千蔵屋の小麦が持つグルテンの性質を最大限に引き出すため、ソースの温度は常に六十五度を保つ」


 彼の料理は、計算し尽くされた建築物に近い。食材のポテンシャルを科学的に解析し、一切の妥協なく100%引き出す。その完璧主義なエゴイスティックさが、彼の料理を芸術の域へと押し上げていた。この完璧な一皿という名の数式をもってすれば、あの穂波の味覚すらも完全に支配できると確信しているのだ。


 三者三様のベクトルで異常なまでの愛情と執念を料理に注ぎ込む男たち。

 その様子を、商店街の片隅から面白そうに観察している人物がいた。


「ふぉっふぉっふぉ。あいつら、朝から血気盛んなことじゃ」


 穂波の祖父であり、千蔵屋製粉所の現当主である千蔵屋弦蔵(げんぞう)、六十八歳。

 食えない好々爺である彼は、三人の青年が孫娘にベタ惚れしていることに昔から気づいていた。

 穂波から極上の粉を受け取り、嬉々として厨房で腕を振るう三人の姿を遠目に見ながら、弦蔵は目を細める。


「和洋中の最強職人たちが、一人の娘のために競い合うか。……こりゃあ、絵神原通りはこれからますます騒がしくなりそうじゃて」


 弦蔵の予言通り、この日を境に、三人の騎士たちによる過剰なまでの溺愛包囲網と、極上の粉を巡る日々が本格的に幕を開けようとしていた。


 +++


 昼下がりの千蔵屋ちくらや製粉所。

 朝の嵐のような喧騒が嘘のように、静かな時間が流れていた。

 穂波は作業着の袖をまくり直し、敷地の奥にある古いくらの掃除に取り掛かっていた。土壁に囲まれた蔵の中は、外の気温に左右されず、常にひんやりとした一定の温度と湿度が保たれている。

 積もった埃を払いながら、木箱を整理していると、ふと一番奥の棚の裏に隠れるように置かれた古い木箱に気がついた。


「なんだろう、これ……」


 そっと蓋を開けると、中にはカビの生えた祖父の古い日記帳と、小さなガラス瓶が一つ入っていた。

 ガラス瓶には、色褪せた和紙のラベルが貼られている。そこには達筆な墨文字で『黄金雪おうごんゆき』と記されていた。


「おうごん、ゆき……?」


 瓶の中には、乾燥剤と古びた小麦の種もみが目いっぱい詰まっている。穂波は無意識のうちに瓶を手に取り、きつく閉まっていたコルク栓をゆっくりと引き抜いた。

 ポンッ、という小さな音とともに、封じ込められていた空気が外へ逃げる。

 その瞬間だった。


「……っ!」


 穂波は目を丸くし、思わず瓶の口に鼻を近づけて深く息を吸い込んだ。

 数十年は経っているはずなのに、微かに、けれどはっきりと残る『ふすま』、つまり小麦の外皮の匂い。それも、彼女が普段嗅いでいるどの小麦とも違う、野性的でいてどこか甘く、とてつもなく深い香りだ。

 穂波は瓶の中から種もみを一粒だけ指先に取り出し、窓から差し込む光に透かしてみた。


「この香り……ただの小麦じゃない。それに、この極端に小さな粒の形と、特有の赤茶色の殻……」


 彼女の脳内で、これまで読み漁ってきた世界中の小麦に関する膨大な文献とデータが高速で照合されていく。そして、一つの信じられない結論に達した。


「まさか、栽培が難しすぎて昭和で絶滅したって言われてる幻の硬質小麦!?」


 心臓が早鐘のように鳴り始めた。

 茎が細く倒伏しやすい上に、収穫の見極めが数時間ずれただけで売り物にならなくなるという、悪魔のようにシビアな品種。戦後の効率化の波に飲まれ、昭和の終わりに姿を消したはずの伝説の小麦が、なぜうちの蔵に?

 いや、理由なんて今はどうでもいい。

 一定の温度と湿度が保たれたこの土壁の蔵で、コルク栓で密閉されていたことにより、この種もみは奇跡的に命を保っているかもしれない。


「すごい……信じられない。この粉をもし挽くことができたら……」


 穂波は時間を忘れ、ただただその小さな赤茶色の粒をうっとりと見つめ続けた。

 頭の中はもう、この幻の小麦をどうやって発芽させ、どんな粉に仕上げるかという妄想でいっぱいだった。今日、幼馴染たちが念願の店をオープンさせたことすら、この時の彼女の頭からは完全に抜け落ちていた。

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