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第1話 開店の日

 朝靄あさもやがうっすらと残る、冷たい空気が心地よい時間。


 ここ絵神原えじんばら町には、古き良き昭和の面影を残す建物と、洗練された新しい店舗が混在する商店街、通称「絵神原通り」がある。今日、この商店街はかつてないほどの熱気に包まれていた。なぜなら、一気に三つの店舗が同時オープンを迎えるからだ。


 その三店舗とは、手打ちうどん「みなと亭」、トラットリア「ルーチェ」、そして麺処「獣王」。和洋中の最強とも言える職人たちが構えた真新しい店のちょうど中心に鎮座するのが、穂波ほなみの実家である老舗「千蔵屋ちくらや製粉所」だった。


 巨大なローラー式製粉機が轟音を立てて稼働している。穂波は使い込まれた丈夫なエプロンを身につけ、作業の邪魔にならないように鎖骨ほどの長さの栗色の髪を無造作に後ろで一つに結んでいた。腕まくりをした彼女の前腕には、日々の力仕事でついたうっすらとした筋肉がある。

 宙を舞い散る白い粉の中心に立ち、穂波は機械から絶え間なく落ちてくる粉を指先で軽く摘み取った。親指と人差し指の腹で粉を擦り合わせ、スッと目を閉じて深く香りを嗅ぎ込む。上質な地下水と長年培われたこだわりの製粉技術で挽かれた千蔵屋の小麦粉は、地元だけでなく全国の一流料理人から隠れた支持を得ている。その絶対的な品質を守るのが、跡取り娘であり調合師でもある彼女の役目だった。自分の天職だと公言するほど、穂波は誰よりも小麦を愛していた。


「よし、完璧」


 彼女がそう呟いた直後、製粉所の引き戸が勢いよく開け放たれた。


「おはよう、穂波ん。……ほら、またエプロンの紐が緩んでるよ」

 呆れたように笑いながら、大柄な結城ゆうきみなとが穂波の背後に回り込み、解けかけていた紐をきゅっと結び直す。


「穂波!頼んでた粉、できてるか!」

 製粉機の轟音に負けない大声で飛び込んできたのは、伊乃草いのくさがいだ。彼は勢いそのままに穂波の顔を至近距離から覗き込み、ニッと人懐っこく笑う。


「凱、君は少し落ち着きたまえ。埃が舞う。……穂波さん、昨日のコンマ単位での粉配分は最高だったよ」

 そう言って切れ長の目でほほ笑み、銀縁眼鏡の奥で知的な光を瞬かせるうら涼真りょうまだ。


 今日、自分の店をオープンさせる三人の幼馴染たち。彼らは千蔵屋の最高級小麦粉を仕入れてくれている、気鋭の料理人でもあった。


「みんな! ちょっと待ってて」


 穂波は駆け込んできた三人を手で制し、鋭い感覚を研ぎ澄ませた。今日の微細な気温、湿度の違い。それらをすべて肌と鼻で読み取り、三人の店に卸す粉の最終調整を瞬時に行う。


「湊、午後から雨が降るから、うどん用の粉は水分量を0.2パーセント落としてあるわ」

「ああ、助かる。さすがだな」


「凱のところは少しスープの豚骨を強めるって言ってたから、それに負けないように灰分を少し残して風味を強くした」

「おう! これなら俺の極濃スープにもバッチリだぜ!」


「涼真のパスタ用セモリナは、指定通りの完璧な粗さに挽き上がってるよ」

「素晴らしい。君の粉はいつも正確無比で助かるよ」


 それぞれの粉が入った重い袋を彼らに渡し終えると、穂波はふうっと息を吐き出した。極限まで高めていたプロの顔から、ただの幼馴染の顔へと緩む。


「みんな開店おめでとう。わざわざ来てくれなくても、今日くらい私が配達するのに」


 彼女が無防備に笑いかけ、重い粉袋を渡した反動で一歩後ろへ下がろうとした瞬間だった。


 ツルッ。


 足元の床にわずかに散らばっていた粉に滑り、体勢が大きく崩れた。


「あっ……!」


 無様に転ぶ。そう覚悟して、穂波はぎゅっと目を瞑った。しかし、硬い床に打ち付けられるはずの衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。


「危ねぇっ!」

「っと、気をつけて」

「穂波さん、大丈夫か!?」


 突然、視界が塞がれた。彼女の体は宙に浮いたまま、三つの大きな力によって完全に支えられていた。両腕両足を凱と涼真に強く掴まれ、背後からは湊の大きな体にすっぽりと包み込まれる密着状態になっていた。三人の大柄な男性陣に囲まれると、小柄で華奢な穂波の体は完全に隠れてしまう。


 至近距離から、三者三様の男の人特有の香りが彼女の鼻をくすぐった。


「あ、ありがとう……ごめん、足がすべっちゃって」


 穂波は顔にカッと熱が集まるのを感じた。いくら昔から泥だらけになって遊んできた幼馴染とはいえ、こんなに密着されるのはさすがに照れくさかった。


「怪我はないか?ったく、お前は昔から危なっかしいんだよ」

 凱の低く熱を帯びた声が耳元を掠める。


「私たちがいてよかったね。君に万が一のことがあったら、僕の店は今日で閉店するところだった」

 涼真の艶のある声が上から降ってくる。


「ほら、立たせるぞ。変なとこ触ったって言わないでよ」

 湊の太く逞しい腕が、彼女を逃がさないように優しく、けれど力強くホールドしたままだ。


 彼女が震えているのは転びそうになったからではなく、大人になった三人があまりにも近すぎるからだった。穂波は真っ赤になった顔を誤魔化すように俯きながら、彼らの異常なまでの密着を受け入れていた。


 今日は三人の念願の店がオープンする記念すべき日だ。そんな日に、自分が怪我をしなくてホッとしてくれた幼馴染の親愛に、彼女はうれしさを感じた。三人の温もりの中で、穂波は「何だか私が祝われちゃってるみたいだね。本当に、おめでとう」ともう一度小さく呟いた。

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