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第41話 秘密のキス

 八月下旬。厳しい日差しが絵神原えじんばら町を照りつける中、千蔵屋ちくらや製粉所の母屋では、現当主の弦蔵げんぞう穂波ほなみの父が縁側で冷たい麦茶をすすっていた。


「……なあ親父。あいつらの『黄金雪おうごんゆき・研究合宿』とやらは、いつまで続くんだ?」

 父が頭を抱えながら、敷地の奥にある離れを忌々しそうに睨む。

 すでに三人の男たちが打った黄金雪の麺は完成し、各店舗で大々的に提供が始まっているというのに、結城ゆうきみなと伊乃草いのくさがいうら涼真りょうまの三人は一向に自分の家に帰る気配がない。それどころか、季節が変わっても私物をさらに持ち込み、完全に離れに居座り続けていた。


「ふぉっふぉっふぉ。まあ良いではないか。あの優秀で凶暴な三匹の番犬が常に目を光らせておれば、二度とあの悪徳業者のような変な虫は寄り付かんじゃろ」

 弦蔵は食えない笑みを浮かべて喉を鳴らす。

「それに、あいつらが毎日極上の麺を作ってくれるおかげで、わしらの昼飯は豪華なもんじゃ」

「それはそうだが……一人娘が、血の気の多い男三人と同じ屋根の下でずっと暮らしているなんて、父親としては胃に穴が開きそうだよ……」

 両親の呆れと心配をよそに、祖父の公認を得た(というより黙認させた)離れの中では、今日も穂波に対する常軌を逸した溺愛生活が繰り広げられていた。


 「一人を選べない」という穂波の我儘を受け入れた三人は、「俺が選ばれるまでの終わらない勝負」としてこの状況を楽しんですらいた。

 抜け駆けは日常茶飯事。「いかに他の二人の目を盗んで自分だけを意識させるか」という、男としての重すぎる独占欲を満たすための秘密の戦いが、そこかしこで繰り広げられていた。


 その日の朝。

 穂波が離れの洗面所で顔を洗っていると、背後からスッと黒い影が近づいてきた。

「きゃっ……! 凱!?」

 荒々しく腕を引かれ、洗面所の狭い隙間へと強引に引きずり込まれる。黒いTシャツ姿の凱は、片手で穂波の背中を壁に押し当て、もう片方の手で彼女の後頭部をホールドした。

「しっ……大声出すなよ。湊と涼真が起きてくるだろ」

 凱は低く野性的な声で囁くと、逃げ場を失った穂波の唇を自らの唇で塞いだ。

「んっ……ぁ……」

 熱っぽく、少し強引なキス。舌先が絡み合い、凱の体温の高さがダイレクトに伝わってくる。すぐ向こうの部屋には他の二人がいるという状況が、隠れながらのドキドキ感をさらに煽った。

「……お前、朝からすげぇ可愛い顔してんな。俺のラーメン食わせた時より、ずっと良い顔だ」

 唇を離した凱が、ニヤリとヤンチャに笑う。

「も、もう……凱のばか……好き、だよ」

 穂波は照れ隠しに凱の胸板を軽く叩いたが、その顔は熱を帯び、嬉しさに染まっていた。


 昼下がり。

 製粉所での仕事を終えた穂波が離れの廊下を歩いていると、突然、開いた扉の陰から伸びてきたしなやかな腕に引き寄せられた。

「涼真……っ」

 純白のシャツを着崩した涼真が、開いた扉を死角にするようにして穂波を壁際に追い詰めていた。知的な銀縁の眼鏡の奥の瞳が、計算し尽くされた甘い熱を帯びて穂波を見下ろす。

「お疲れ様、私のプリンセス。凱たちが仕込みで店に出ている、この数分間……私の完璧な数式が導き出した、君を独占できる唯一のタイミングだ」

 涼真は艶のある声で囁き、穂波の顎を指先で優しく持ち上げた。

「ん……っ」

 触れるだけの優しい口付けから始まり、次第に深く、甘く溶かすようなスマートなキスへと変わっていく。涼真の香水の匂いと、大人の男の余裕に包まれ、穂波の足から力が抜けていく。

「ふっ……君の味覚も心も、すべて私のキスで支配してしまいたいよ」

 涼真が眼鏡を押し上げながら妖しく微笑むと、穂波は「涼真はずるいよ……好きだけど」と真っ赤になって俯いた。


 そして、夜。

 離れの共有スペースで、四人でその日の黄金雪の売れ行きについて話し合っていた時のこと。

 凱が風呂へ行き、涼真が明日の買い出しリストを作りに自室へ戻ったわずかな隙。

 ソファーでうとうとしていた穂波の体が、ふわりと抱き上げられたかと思うと、そのままソファーに押し倒された。

「湊……?」

「寝るのは早いよ。我慢できなくて」

 藍色の作務衣姿の湊が、大柄な体で穂波をすっぽりと覆い隠すように被い被さっていた。いつもの温厚なタレ目は、今ははっきりと「雄」の色を宿している。

「だ、だめだよ、湊……二人がすぐに戻ってきちゃう……」

「大丈夫。僕が時間を止めるから」

 湊の大きくて分厚い手が穂波の頬を包み込み、深く、慈しむようなキスが落とされる。優しさと、決して逃がさないという絶対的な包容力に満ちたキス。息が詰まるほどの愛の重さに、穂波は思わず湊の作務衣の胸元をきゅっと握りしめた。

「はぁ……穂波ん、好きだよ。ずっとこうしていたい」

 唇を離した湊が、甘えたように穂波の首筋に顔を埋める。その過保護で重い愛情に、「本当に時間、止めてる? ……好きだよ、湊」と穂波の心臓は破裂しそうだった。



「一人を選ばない」という我儘わがままは、結果として、和洋中の最強職人たちによる「三者三様の秘密のキス」という、心臓がいくつあっても足りない日々を招いていた。

 他の二人にバレないかというスリルと、三人がそれぞれに向けてくれる本気の愛情。

(みんな、大好き……でも、毎日こんなんじゃ、身が持たないよ……っ)

 穂波はソファーの上で赤面しながらも、これ以上ないほどの幸せを噛み締めていた。終わらない同居生活は、黄金雪の輝き以上に、甘く熱い日々を更新し続けているのだった。

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