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第40話 至高の麺

 原点の味である「ちぎれ雲麺」で心と身体を癒やした夜から数日後。千蔵屋ちくらや製粉所の離れは、これまでにない異様な熱気と、そして張り詰めた静寂に包まれていた。

 「黄金雪おうごんゆき開発合宿」の最終日。三人の天才職人たちが、ついに己の持てる技術のすべてを注ぎ込み、粉のポテンシャルを極限まで引き出した「至高の麺」を完成させたのだ。


 テーブルの上に並べられた三つの丼と皿。

 結城ゆうきみなとの手打ちうどんは、黄金雪の強靭なグルテンを完璧に手懐け、透き通るような艶と、真珠のような滑らかさを放っていた。

 伊乃草いのくさがいのラーメンは、極濃の豚骨スープの中で黄金雪が力強い香気を放ち、スープに負けないどころか、麺そのものが圧倒的な主役として存在感を主張している。

 うら涼真りょうまのパスタは、微細な粉の粒子がソースと完璧に乳化し、アルデンテの芯にすべての旨味が凝縮された、まさに黄金の芸術品だった。


 特注のエプロンを身につけた穂波は、静かに息を吸い込み、箸を手に取った。

 三人の男たちは、固唾を呑んでその様子を見守る。己の料理人としての人生と、愛する幼馴染への想いのすべてを懸けた一杯。額にはじわりと汗が滲んでいた。


 穂波は、うどん、ラーメン、パスタを順番に口へと運ぶ。

 目を閉じ、ゆっくりと咀嚼し、粉の風味と麺の食感、スープやソースとの相性を、絶対的な感覚で脳内のデータと照らし合わせていく。

 離れの中に、時計の秒針の音だけが異様に大きく響いていた。


 やがて、穂波は静かに目を開けた。

 その澄んだ瞳からは、ボロボロと大粒の涙が溢れ出していた。


「……完っ璧よ!」


 震える声が、静寂の空間に落ちる。


「完璧だよ、みんな……。これが、私たちの黄金雪の最高の味よ……っ!」


 その言葉が発せられた瞬間、長かった苦悩と重圧から解放された三人の男たちは、「よっしゃあああっ!」と地響きのような歓声を上げた。

 凱が天を仰いでガッツポーズを突き上げ、湊が顔を覆って安堵の涙をこぼし、涼真が眼鏡を外して深く、深く息を吐き出す。


「穂波っ!」

「穂波ん!」

「穂波さん!」


 感極まった三人は、誰からともなく穂波へと駆け寄り、そして四人は言葉を交わすよりも先に、もつれ合うようにして力強く抱き合った。

 男女の枠も、恋の駆け引きも関係ない。そこにあるのは、不可能と言われた幻の小麦の復活を共に成し遂げた、最強の同志としての強固な絆だけだった。


「お前たち、本当に最高だ……っ!」

 凱が泣き笑いの声を上げ、三人の背中を力強く叩く。


「僕たちの夢が、やっと形になったね……!」

 湊が大きな腕で三人ごと抱きしめる。


「ああ。私たちの未知なる数式は、ついに完璧な真理へと到達した」

 涼真が涙声で微笑む。


 粉まみれで、汗と涙でぐしゃぐしゃになった四人の歓喜のハグは、これまでのどんなスキンシップよりも熱く、絵神原えじんばらの空にいつまでも温かく響き渡っていた。


 +++


 その日の深夜。

 極度の緊張から解放され、離れの奥の和室で熊の冬眠のように眠りに落ちた穂波を見届けた後。三人の男たちは、縁側で夜風に吹かれていた。


「……ふぉっふぉっふぉ。どうやら、無事に成し遂げたようじゃな」


 背後から響いたしわがれ声に振り返ると、そこには千蔵屋の現当主、弦蔵げんぞうが立っていた。彼の手には、年代物の立派な日本酒の瓶と、四つの猪口ちょこが握られている。

「弦蔵さん……」

 三人が姿勢を正すと、弦蔵はゆっくりと縁側に腰を下ろし、三つの猪口になみなみと酒を注いだ。


「わしがかつて絶望し、蔵の奥に封じ込めたあの気難しい粉を……お前たちは、見事に至高の麺へと昇華させてみせた。これは、わしからの労いじゃ。飲め」

 差し出された酒を、凱、涼真、湊は両手で受け取り、静かに、そして深く味わいながら喉の奥へと流し込んだ。五臓六腑に染み渡る酒の熱さと共に、職人としての達成感が静かに込み上げてくる。


 杯を干した三人の横顔を見つめながら、弦蔵はふと、食えない好々爺の顔を消し去り、一人の祖父としての真剣な眼差しを向けた。


「……あの粉を完成させたお前たちになら、穂波の将来を、安心して任せられる」


 その言葉の重みに、三人の男たちはピクリと肩を揺らした。

 それは、絵神原通りを束ねる老職人からの最大級の賛辞であり、同時に、愛する孫娘の未来を託すという「実質的な公認」の証だった。


「……もちろんです。あいつのことは、俺が一生守り抜きますから」

 凱が、空になった猪口を強く握りしめて誓う。


「ええ。彼女の才能も心も、すべて私の技術で幸せにしてみせます」

 涼真が、眼鏡の奥で揺るぎない決意を光らせる。


「穂波んを悲しませるようなことは、絶対にしません。僕の職人魂に代えても」

 湊が、温厚なタレ目を真っ直ぐに向けて頭を下げる。


 弦蔵は三人の力強い返答に満足そうに頷くと、「誰が穂波を射止めるか、せいぜい頑張るんじゃな」と悪戯っぽく笑い、残りの酒をあおった。

 男同士の静かな誓いの夜は、ふけっていった。


 +++


 そして数日後。

 夏の太陽が照りつける絵神原通りの商店街は、かつてないほどの熱狂と大歓声に包まれていた。


 手打ちうどん「みなと亭」、麺処「獣王」、トラットリア「ルーチェ」。

 三店舗で同時に、「黄金雪」を使った特別メニューの提供が開始されたのだ。

 店の外には、地元の人々はもちろん、噂を聞きつけて県外からやってきた美食家や観光客が長蛇の列を作っていた。アーケードの下は、人の熱気と、三店舗から漂う極上の香りで満たされている。


「うまっ……! なんだこれ、こんなうどん食べたことないぞ!」

「この豚骨スープに負けない小麦の香り、凄すぎる……!」

「パスタの概念が変わったわ。ソースと麺の旨味が完全に一体化してる……!」


 三つの店から飛び出してくる客たちの感動の声が、絵神原通りの空気をさらに熱く震わせる。誰もがその圧倒的な味に打ちのめされ、至福の笑顔を浮かべていた。


 三店舗のちょうど中心に位置する、千蔵屋製粉所。

 その店先で、特注のエプロンを身につけた穂波は、忙しく立ち働く三人の幼馴染たちの姿と、笑顔で溢れる商店街の景色を、誇らしげに見つめていた。


「みんな、すごいよ……本当に、黄金雪を世界一の麺にしてくれたんだね」


 幼い頃のトラウマを完全に乗り越え、大好きな小麦と、それ以上に大好きな三人の男たちと共に創り上げた奇跡。

 厨房から、忙しい合間を縫って凱がウインクを飛ばし、涼真が優雅に手を挙げ、湊が極上のオカンスマイルを向けてくる。

 熱気と活気に包まれた商店街の中心で、穂波は溢れんばかりの幸福感に包まれながら、最高に幸せそうな、太陽のような満面の笑みを咲かせるのだった。

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