第39話 ちぎれ雲麺
離れでの実質的な同居状態がスタートした、ある日の深夜。
千蔵屋製粉所の離れに設けられた共有スペースで、穂波は分厚い配合ノートに突っ伏したまま、静かな寝息を立てていた。「プロとしての妥協なき駄目出しと作り直し」というバチバチの展開が連日続き、小柄で華奢な彼女の体力と精神力は、すでに限界に近づいていたのだ。どんなに三人が過保護に甘やかそうとも、粉のこととなれば一切の妥協を許さない職人気質の彼女は、微調整のために睡眠時間を削り続けていた。
厨房スペースから、三人の男たちが静かにその様子を見つめていた。
「……おい。あいつ、相当無理してんな」
伊乃草凱が、腕を組みながら低く呟く。その鋭い目には、職人としての闘志ではなく、大切な幼馴染を案じる不器用な優しさが浮かんでいた。
「僕らがどんなに完璧な麺を打とうと、穂波んはそれ以上の粉を挽こうとするからね。……少し、胃と心を休ませてあげないと」
結城湊が、温厚なタレ目を伏せて深く息を吐く。
「ああ。プロとしての戦いは明日以降も続く。ならば今夜は、彼女の脳の緊張を解きほぐすための、特別なアプローチが必要だ」
浦涼真が知的な銀縁の眼鏡を押し上げ、静かに頷いた。
三人は阿吽の呼吸で立ち上がり、深夜の厨房へと向かった。
彼らが手に取ったのは、穂波が身を粉にして挽き上げた最高級の幻の小麦「黄金雪」だ。しかし、彼らは製麺機を使わず、そして普段の洗練された技術もあえて封印した。大きなボウルに粉を入れ、三人がかりで不器用に生地を捏ね始める。
「おい凱、力入れすぎだ!生地がちぎれるぞ!」
「うるせぇ、涼真!お前の水回しが少ねえからまとまらねぇんだろ!」
「君たちこそ不器用すぎる。もっと優しく……あっ、僕の肘に生地がくっついた」
深夜の厨房で、和洋中の最強職人たちが子供のように小競り合いをしながら、一つの生地を不格好に引きちぎって茹でていく。その光景は、彼らが料理人としての道を歩み始めるきっかけとなった、あの幼い日の記憶そのものだった。
「……ん……」
ふわりと鼻腔をくすぐる極上の香りに、穂波はゆっくりと目を覚ました。
「穂波ん、起きて。夜食ができたよ」
湊の優しい声に顔を上げると、目の前のテーブルに、湯気を立てる一杯の丼が置かれていた。
「これ……」
丼の中には、現在の一流の技術で作られた、黄金色に澄み切った極上のスープが張られている。湊の引いた優しい和風出汁、凱の鶏のコク、涼真の香味野菜の旨味が見事に調和した、まさにプロの味だ。
しかし、穂波はそのスープの中に沈んでいる「麺」を見て、思わず目を丸くした。
それは、太さも長さもバラバラで、途中で無惨にちぎれた、「あの日の不格好なちぎれ雲麺」だったのだ。
「どうして、この麺……」
驚く穂波に、三人の男たちが照れくさそうに笑いかけた。
「お前、最近眉間にシワ寄せっぱなしだったからな。たまには力抜けよ」
凱が、鼻の頭を擦りながらヤンチャに笑う。
「私の計算では、この不規則な形状が最もスープと絡み、君の心にダイレクトに作用するはずだ」
涼真が、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「さあ、食べてみて。冷めないうちに」
湊が、極上のオカンスマイルで箸を手渡す。
穂波は震える手で箸を持ち、その不格好な「ちぎれ雲麺」をすくって口に運んだ。
太さが違うため、茹で加減もバラバラだ。しかし、噛みしめるたびに、最高級の「黄金雪」が持つ圧倒的な甘みと風味が口いっぱいに弾ける。そして何より、三人が本気で作ってくれた一流の技術のスープが、その不格好な麺を優しく、完璧に包み込んでいた。
「……美味しいっ」
自然と、穂波の瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
その言葉を聞いた瞬間、穂波の目の前に立つ三人は、プロの職人としての険しい顔から、一気に「泥だらけの少年たち」に戻っていた。
「仕事ではお前を唸らせる最高の麺を打つ。でも、俺たちの原点はお前を笑顔にすることだからな。それだけは忘れるな」
凱、涼真、湊の三人が、優しく、そして誇らしげに笑いかける。
かつて、小麦アレルギーで絶望していた自分を救うため、顔を真っ白にして不格好なちぎれ雲麺を作ってくれたあの日。彼らは大人になり、最強の職人になっても、その根本にある想いは何一つ変わっていなかった。
「みんな……本当に、ありがとう……っ。私、すごく幸せだよ……!」
深夜の離れに、穂波の泣き笑いの声が響く。長年の幼馴染である彼らにしか出せない特別な空気感が、空間を優しく、そして深く満たしていく。連日のプレッシャーから解放され、互いの絆の原点を再確認した四人は、この温かい味を胸に、明日から再び「至高の麺」を完成させるための最終局面に挑むのだった。




