第38話 同居生活
七月上旬。梅雨明けが近づき、絵神原町には夏の気配が色濃く漂い始めていた。
小田切商事という悪徳業者を三人の幼馴染たちが見事に撃退した一件は、商店街の平和を守る結果となった。しかし、その騒動を通じて、千蔵屋製粉所が昭和で絶滅したはずの幻の小麦「黄金雪」を復活させたという噂は、瞬く間に町中から県外へと広まってしまった。
「最近、夜になると千蔵屋の周りをうろつく怪しい車が増えた気がする」
ある日の夕方、麺処「獣王」の伊乃草凱が、腕を組みながら低い声で言った。
「ああ。黄金雪の価値を知った別の業者が、粉や種もみを狙って夜間に蔵へ侵入するリスクは十分に考えられる。私の予測データでも、防犯レベルを最大に引き上げるべきだという結果が出ている」
トラットリア「ルーチェ」の浦涼真が、銀縁の眼鏡を押し上げながら冷静に同意する。
「穂波んや弦蔵さんたちに万が一のことがあったら大変だ。……僕たちが、千蔵屋に泊まり込んで警備をしよう」
手打ちうどん「みなと亭」の結城湊が、温厚なタレ目の奥に強い決意を宿して提案した。
こうして、三人の男たちは「穂波の護衛と製粉所の警備」という大義名分を手に入れた。しかし、彼らの目的はそれだけではなかった。
「それに、黄金雪は極端にデリケートな粉だ。挽きたての数分で香りが飛んでしまう」
涼真がもっともらしい顔で言葉を継ぐ。
「そうだな。それぞれの店の厨房に粉を運んでる時間すら惜しい。俺たちの機材を、千蔵屋の離れに持ち込んで、そこで究極の麺を打つ開発をするのが手っ取り早い!」
凱が力強く宣言した。
その日から、千蔵屋製粉所の敷地内にある穂波が寝泊まりしている離れに、製麺機や寸胴鍋、パスタボイラーなど、三人の職人たちの予備の仕事道具が次々と運び込まれた。さらに、着替えや洗面用具などの私物までが持ち込まれ、離れはあっという間に「男たちの城」へと変貌を遂げた。
「あの……みんな。いくら防犯と新メニューの開発のためとはいえ、三人がうちに泊まり込むなんて……」
穂波が戸惑いながら言うと、三人は「お前を守るためだ」「究極の麺を完成させるための最短ルートだ」と口を揃え、一切の反論を許さなかった。
こうして、「黄金雪麺開発合宿」という名目のもと、和洋中の最強職人たちと穂波の、実質的な『一つ屋根の下での同居生活』が幕を開けたのである。
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その日から千蔵屋の離れの中では、穂波にとって息をつく暇もないほどの『極甘生活』が展開されていた。
先の同時プロポーズの際、穂波が「一人なんて選べない」と泣きながら本音を漏らしたことで、三人の男たちは「ならば、自分だけを選ばせるまでの無期限延長戦だ」という結論に達し、互いを牽制し合う奇妙で甘すぎる同居生活が成立していた。
その結果、同居生活という密室空間で、彼らの溺愛のリミッターは完全に、そして恐ろしいほどに外れきっていた。
朝。
「……ん……」
穂波が離れの二階の自室で目を覚ますと、ふわりと上質なコーヒーの香りが漂ってきた。
「おはよう、私のプリンセス。よく眠れたかい?」
ベッドのすぐ横のサイドテーブルにコーヒーを置き、涼真が艶のある声で囁く。まだ寝ぼけ眼の穂波が身を起こそうとした瞬間、涼真の長い指が彼女のあごをそっと持ち上げた。
「えっ、りょ、涼真……」
チュッ、と小さな音を立てて、穂波の額に涼真の唇が優しく落とされる。
「朝の挨拶だよ。君の寝起きの顔も、方程式が狂うほど美しい」
朝一番からの強烈なモーニングキスと甘い言葉に、穂波の頭は完全にフリーズし、パジャマ姿のまま布団を被って丸くなるしかなかった。
昼。
製粉所で粉の調整作業に追われ、疲労困憊で離れに戻ってきた穂波を待っていたのは、湊だった。
「お疲れ様、穂波ん。無理しすぎちゃ駄目だよ。はい、特製の野菜たっぷり焼きうどん弁当」
藍色の作務衣姿の湊が、彩り豊かで消化にも良い完璧なお弁当を用意してくれていた。
「ありがとう、湊……すごくお腹すいてたの」
穂波が箸を進めている間、湊は彼女のすぐ隣にぴったりと座り、大きな手で彼女の栗色の髪をずっと優しく撫で続けていた。
「うんうん、たくさん食べて午後も頑張ろうね。君の胃袋を満たして健康を守るのが、僕の一番の幸せだから」
オカンのような圧倒的な包容力と、逃げ場のない過保護な甘やかし。穂波はご飯を食べながらも、顔を真っ赤にしてうつむくことしかできない。
夜。
一日中続いた粉と麺のバチバチの試作を終え、限界まで疲れた穂波が風呂上りに頭を乾かそうとした時のこと。
「おい、こっちへ来い」
ドライヤーを手にした凱が、強引に穂波の肩を引き寄せた。
「きゃっ! が、凱!?」
気がつけば、穂波は鏡台の前に座らされ、凱に髪を乾かしてもらい始めた。
「今日も一日よく頑張ったな。それにこの髪の艶、美しいな」
凱は黒いTシャツ越しに伝わる高い体温で穂波をすっぽりと包み込み、耳元で低く野性的な声で囁く。男らしい香りとしなやかな指先の感触に、穂波の心臓は破裂しそうなほど早鐘を打っていた。
誰が一番穂波を喜ばせ、ときめかせるか。
三人の男たちは、毎日子供のように競い合いながら、息をつく暇も与えずに過剰な愛情を注ぎ込み続けていた。
しかし、そんな彼らにも一つだけ、男同士の「抜け駆け禁止の謎の協定」が存在した。
夜の就寝時である。
彼らは、それぞれ別の部屋で寝るという選択肢をハナから放棄していた。離れの一番大きな和室に、大きな布団を並べて敷き、その真ん中に穂波を寝かせる。そして、右に凱、左に湊、足元側に少しずらして涼真という布陣で、彼女を完全に包囲して寝るのだ。
「いいか、寝首を掻くような真似をした奴は、明日から厨房立ち入り禁止だぞ」
凱が暗闇の中で鋭く釘を刺す。
「僕がそんな野蛮な真似をするわけないだろう。ただ、彼女が寝相で布団を蹴飛ばした時に直してあげるのは僕の役目だ」
湊が牽制し返す。
「私が君たちの動向を、コンマ一秒の狂いもなく監視しているからね」
涼真が眼鏡を光らせる。
「……あの、みんな。私、すっごく寝苦しいんだけど……」
三人の男たちの熱気と重すぎる愛に挟まれ、身動き一つ取れない穂波が小さな声で抗議する。しかし、三人は「「「おやすみ、穂波(ん/さん)」」」と声を揃え、彼女の抗議を優しく、そして完全に黙殺するのだった。
プロの職人としての厳しさと、過剰なまでの甘やかし。
幻の小麦「黄金雪」を完璧な麺に仕上げるための開発合宿は、穂波にとって、心臓がいくつあっても足りない極甘な同居生活として続いていくのだった。




