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第37話 職人魂

 穂波が去った後、残された三人の間には、針の落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂が落ちていた。

 普通であれば、自信作をあそこまで酷評されれば、自尊心を傷つけられて怒ってもおかしくない。しかし、テーブルを囲む三人の顔に、怒りや落胆の色は微塵もなかった。


「……はっ」

 沈黙を破ったのは凱だった。彼は短く笑うと、乱暴に髪を掻き上げた。

「やっぱ、あいつ最高だな。マジで仕事に関しては一切の妥協がねえ」

「ああ。俺たちの腕を少しも疑ってないからこその、あの厳しさだ。生半可な麺じゃ、あの粉は受け止めきれないと、言葉でハッキリ教えてくれたんだ」

 湊がタレ目を鋭く引き締め、自身の大きな拳を膝の上で強く握りしめた。

「その通りだ。彼女の絶対的な感覚が求めているのは、妥協の産物などではない。あの高い要求に完璧に応えてみせてこそ、彼女の隣に立つ資格があるというものだ」

 涼真が冷徹に、しかし心底楽しそうに眼鏡を押し上げる。


 三人の間にあった甘い空気は一瞬にして完全に消え去り、そこには「本気の職人」としての業火のような闘志だけが燃え上がっていた。


 +++


 その夜。

 絵神原通りの多くの店がシャッターを下ろす中、三店舗の厨房だけは、深夜になっても煌々と明かりが灯っていた。


 麺処「獣王」では、凱が巨大な寸胴鍋の前に立ち、豚骨の配分と火加減を根本から見直していた。

「黄金雪の香りを殺さず、俺のスープと極限で調和させる……負けねえ、絶対にお前を唸らせてやる!」

 荒々しくタオルを巻き直し、徹夜でスープの改良に没頭する。


 トラットリア「ルーチェ」では、涼真が何十枚もの紙に数式を書き殴りながら、ソースの温度と乳化のタイミングをコンマ単位で計算し直していた。

「油分で香りを閉じ込めるのではなく、香りを揮発させるための最適解……私の数式をアップデートする。君の舌を完全に支配するために」

 知的なエリート料理人が、プライドを投げ打って粉との対話に汗を流す。


 手打ちうどん「みなと亭」では、湊が塩水の濃度と捏ねる回数を変えながら、ひたすらに生地を打ち続けていた。

「黄金雪の強すぎるグルテンを、ただ抑え込むんじゃない。優しく、でも力強くまとめ上げるんだ。穂波んの粉の力を、僕のうどんで一番輝かせてみせる」

 分厚い胸板から汗を滴らせ、己の優しさの奥にある芯の強さを麺に叩き込む。


 穂波はただ守られ、甘やかされるだけのお姫様ではない。仕事においては三人の天才職人と対等に渡り合い、むしろ彼らをさらに高みへと牽引する絶対的なプロフェッショナルなのだ。その強固な「リスペクト関係」が、三人の職人魂を極限まで引き出していた。


 +++


 静まり返った絵神原通りの暗がり。

 三店舗の厨房から漏れる光と、微かに響く麺を打つ音、スープを煮込む音を、千蔵屋の現当主・弦蔵げんぞうが少し離れた場所からこっそりと眺めていた。

 それぞれが孤軍奮闘し、愛する孫娘が挽いた一つの粉と、文字通り命懸けで向き合っている。

 その光景を見つめる弦蔵の脳裏には、かつて自分が黄金雪の復活に挑み、その扱いにくさと周囲の無理解に絶望して粉を封印した若き日のことが蘇っていた。


『この傲慢で気難しい粉を完璧な麺にできる「受け手」が、今の時代にはおらんのじゃ』


 そう嘆いて、すべてを諦めた過去。

 しかし今、目の前には、あの狂暴なまでに美しい粉の可能性を信じ、決して逃げ出さず、己のすべてを懸けて受け止めようとする三人の若き天才たちがいる。


「……穂波」

 弦蔵は杖を突く手にギュッと力を込め、皺だらけの目元からポロリと涙をこぼした。

「お前には、あんなにも本気で粉に向き合ってくれる『最高の受け手』が、三人もおるんじゃな……。まったく、幸せ者め」


 深夜の商店街に響く職人たちの息遣いは、幻の小麦が真の完成へと向かうための、世界で一番美しい産声のようだった。弦蔵は目元の涙を拭うと、若き職人たちの崇高な戦いの邪魔をせぬよう、静かに背を向けて千蔵屋へと戻っていった。

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