第36話 ブレンダーの顔
ドンッ!
「逃がすかよ。お前が欲張ったんだから、責任取れよな」
右側の壁に凱の太い腕が突き立てられ、退路が塞がれる。
ドンッ!
「もう『幼馴染』というフィルターで誤魔化すことは許さない。私の愛の計算式で、君のすべてを支配しよう」
左側の壁に、涼真のしなやかな腕が突き立てられる。
ドンッ!
「穂波ん。これからは三倍の愛情で、君の心も身体も全部、僕たちが満たしてあげるからね」
正面から、湊の大きな身体が覆い被さるようにして壁に手をついた。
逃げようとしても、穂波は3方向から壁ドンされて、そのたくましい腕の檻の中へ完全に閉じ込められてしまった。
至近距離から迫る、三者三様の魅力的な男の香りと、逃げ場のない熱気。
「ち、近すぎるってば……! みんな、顔が……っ!」
真っ赤になって抗議する穂波だったが、三人の男たちは全く引く気配を見せない。それどころか、これから始まる一生分の甘やかしを予告するように、彼女の髪や頬に愛おしそうに触れ始めた。
選べないという究極の我儘は、和洋中の最強職人たちによる、逃げ場のない極甘な包囲網を完成させる引き金となってしまったのだった。
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三方向からの逃げ場のない壁ドンと、三者三様の熱すぎる愛の言葉。
完全に限界を突破した甘い空気に、穂波の脳はショート寸前だった。
「ちょ、本当に一旦待って! 今はそんなこと言ってる場合じゃないの! 黄金雪のブレンドの、最終調整をしなきゃいけないからっ!」
穂波は真っ赤な顔のまま、三人の腕の隙間をすり抜けるようにして身を屈め、兎にも角にも居間から逃げ出した。
「あ、逃げた」「全く、照れ屋なんだから」「ふっ……可愛いな」と、後ろから余裕たっぷりの笑い声が聞こえてくるのがさらに恥ずかしく、彼女は一目散に製粉所の蔵へと駆け込んだ。
ひんやりとした蔵の空気に触れ、穂波はパタパタと手で顔を扇いで熱を冷ました。
「もう、急に三人揃ってあんな……」
胸の動悸はまだ治まらないが、蔵の中を見渡すと、自然と視線はある一点に引き寄せられた。
壁に掛けられた、特注の作業用エプロン。
湊が生地を選び、凱が革ポケットを縫い付け、涼真がデザインした、三人の愛と技術の結晶だ。
穂波はそのエプロンを手に取り、首にかけて、背中で紐をきゅっと強く結んだ。
その瞬間、彼女が纏う空気が一変した。三人の前で見せていた「恋に戸惑う幼馴染」の顔は消え去り、一切の妥協を許さない天才調合師の冷徹で美しい顔へと切り替わる。
「……よし。やるよ」
彼女は一人で戦っているのではない。このエプロンを身につけている限り、常に「三人の愛と技術」を身に纏い、共に戦っているのだ。その事実が、彼女の感覚を極限まで研ぎ澄ませた。
穂波は、製粉されたばかりの黄金雪の粉と向き合った。
中心部に強い弾力を生む性質、外層に滑らかな喉越しを生む性質を持つ二層構造のタンパク質と、圧倒的な質の灰分。このポテンシャルを、三人の麺に完全にフィットさせなければならない。
「湊のうどんには、特有のモチモチ感と甘みを引き出すため、加水率に合わせた粒度に」
「凱のラーメンには、極濃スープに負けない香気と発色を残すための灰分の調整を」
「涼真のパスタには、乳化を促進させる極めて細かい粒子への粉砕を」
粉が宙を舞う中、穂波はコンマ一ミリの粒度と数パーセントの配合率を導き出すため、たった一人で粉との深い対話に没頭していった。
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その日の夕方。
手打ちうどん「みなと亭」の裏手にある休憩スペースに、三人の男たちが集まっていた。
彼らはそれぞれの厨房から、穂波が微調整を終えた黄金雪の粉を使って打ったばかりの「試作の麺」を持ち寄っていた。
「さあ、穂波ん。僕らの渾身の一杯だ。食べてみて」
普段は穂波に激甘な三人も、料理のこととなれば真剣そのもの。しかし、穂波の前に麺を差し出すその顔には、「俺の麺で、さらに惚れ直させてやる」という自信とデレが入り交じっていた。
しかし、特注のエプロンを身につけたままの穂波の顔には、一切の感情の揺らぎがなかった。彼女は三人の熱視線を受け流し、純粋なプロのブレンダーとして静かに箸を手に取った。
まずは、涼真のパスタから。
一口食べ、スッと目を閉じる。そして、静かにフォークを皿に置いた。
「……涼真のパスタ、アルデンテの食感と乳化の技術は完璧だけど、香りが負けてる。黄金雪の風味がソースの油分に閉じ込められすぎているから、もっと粉の持つポテンシャルを引き出すことが出来るはずよ」
涼真の顔から、余裕の笑みがスッと消え去った。
次に、凱のラーメン。
スープと麺をすすり、穂波は微かに眉をひそめた。
「凱のスープ、この粉には強すぎるわ。黄金雪の野性的な香りが豚骨のパンチとぶつかり合って、お互いの良さを打ち消してる。喧嘩してるだけよ」
凱が「……っ」と息を呑み、悔しそうに舌打ちをした。
最後に、湊のうどん。
一本すすり、穂波は小さくため息をついた。
「湊のうどん。優しい出汁は粉の甘みを引き出してるけど、コシが足りない。黄金雪のグルテンの強さを無理に抑え込もうとして、逆に麺の個性が死んでる」
湊がハッとして、温厚なタレ目を大きく見開いた。
前回の試食会で、すでに好評を得ていたが、それ以上を望む穂波は三人を真っ直ぐに見据え、バシバシと容赦のない駄目出しを浴びせた。
「今のままじゃ、この粉は誰の麺でも完成しない。……私達の黄金雪は、もっと凄いはずだよ」
一切の妥協を許さないその鋭い言葉を残し、穂波は「粉の再調整をする」と言い置いて、足早に千蔵屋へと戻っていった。




