第33話 悪意の契約
六月中旬。梅雨の晴れ間、絵神原町に夏の気配が漂い始めた頃。
千蔵屋製粉所の広い土間には、かつてないほどの熱気とざわめきが満ちていた。
「黄金雪」の真価を問うため、穂波が地元の小麦農家や製麺業者、懇意にしている料理人たちを招き、大々的な試食会を開いたのだ。
集まった約二十名の食のプロたちの前に、三人の男たちが腕によりをかけた試作品が運ばれてきた。
手打ちうどん「みなと亭」の結城湊は、ざるうどんを提供した。冷水でキリッと締められた麺は、黄金の光を帯びて艶やかに輝いている。一口すすった農家のひとりが、目を見開いた。
「なんというコシだ……! それに、噛めば噛むほど小麦の甘みが爆発する!」
湊の優しい出汁が、黄金雪特有の深い甘みを極限まで引き出していた。
続いて、麺処「獣王」の伊乃草凱が供したのは、黄金雪の麺を合わせた特製豚骨ラーメンだ。
「この強烈な豚骨スープに、麺の香りが全く負けていない。むしろ、スープの熱で小麦の野性的な香りが何倍にも膨らんでいるぞ……」
同業のラーメン店主が、額に汗を滲ませながら唸り声を上げる。
最後は、トラットリア「ルーチェ」の浦涼真によるペペロンチーノ。
「オリーブオイルと茹で汁の乳化が完璧だ……。微細な粉の粒子がソースをがっちりと抱き込み、アルデンテの芯の旨味と完璧なマリアージュを果たしている」
気難しい顔をしたイタリアンのシェフが、感嘆の吐息を漏らした。
和洋中の最強職人たちが黄金雪で打ち立てた、圧倒的な三つの一杯。
試食した全員が麺を絶賛し、土間は興奮の渦に包まれた。
「穂波ちゃん、これは歴史を変える粉だ! もっと生産数を増やして、世間へ流通させよう!」
「うちの畑でも栽培させてくれ! この粉なら、どんな苦労も惜しまない!」
次々と上がる熱狂的な声に、穂波も目を輝かせて頷いた。
「はい! 来年はもっと畑を広げて、皆さんにも種麦を提供したいと思います。絵神原から、世界一の粉を――」
「お待ちください、千蔵屋のお方」
熱気を切り裂くように、通りの良い声が響いた。
声の主は、小田切商事の専務と名乗る男、小田切四郎だった。仕立ての良いスーツを着こなし、いかにもやり手のビジネスマンといった風貌の彼は、穏やかな笑みを浮かべて前に出た。
「これほど素晴らしい小麦を、安易に市場に流すのはもったいない。千蔵屋だけの独占ブランドとして価値を高め、少数の選ばれた店にだけ卸すのが最善の道です。我々に、そのお手伝いをさせていただけませんか」
小田切の提案は一見すると親身で、理にかなっているように聞こえた。場の空気が少し冷静さを取り戻し、穂波もその言葉に耳を傾けてしまう。
「ブランド化……」
「ええ。詳しいお話は、また後日ゆっくりと」
小田切は人当たりの良い笑みを残し、その場は一旦お開きとなった。
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数日後。千蔵屋製粉所の奥にある居間で、穂波は一人、深く頭を抱えていた。
机の上には、黄金雪の栽培データと、これからの設備投資の試算表が広げられている。
黄金雪の栽培は、本当にシビアだった。天候が少し崩れただけで、全滅するリスクが常にある。
試食会での三人の麺は、確かに圧倒的だった。だからこそ、穂波は痛感していた。あの天才的な職人たちに、農作業で泥まみれになるような負担をいつまでも強いることはできない。彼らが料理に専念し、常に最高の黄金雪を使い続けられるようにするには、温度管理ができる巨大なビニールハウスや、最新の製粉設備がどうしても必要だった。
しかし、千蔵屋の現在の資金力では、到底賄いきれない。三人の才能を絶やさないための「盾」が、今の彼女には無かった。
「穂波さん、いらっしゃいますか」
表から声がして、引き戸が開いた。現れたのは、小田切だった。
彼は居間に通されると、分厚い契約書を机の上に滑らせた。
「千蔵屋さんが儲かるため、そして何より、あなたの大切な職人たちを守るため……うちが独占窓口になりましょう。資金の援助も、流通の管理も、すべて我々が引き受けます」
小田切の言葉は、穂波が今一番欲しかったものを的確に突いていた。
「黄金雪のことは、お前が全部決めなさい」と、祖父と父さんは穂波に一任してくれている。だからこそ、自分がしっかりしなきゃいけない。
「私がサインすれば、三人に安定して粉を届けられる……」
「その通りです。彼らの才能を絶やさないための、これは必要な投資ですよ」
小田切の優しい声に背中を押され、穂波は震える手でペンを握った。
彼女の目は、三人の未来を守るという自己犠牲の決意で曇っており、契約書の隅に極小文字で書かれた悪質な条項に気づいていなかった。
『天候不順などで規定の納品量を一度でも下回った場合、数千万円の違約金が発生し、支払えない場合は製粉所の土地・建物を譲渡する』という、幻の小麦の利権と千蔵屋の土地を奪うための、冷酷な罠に。
あせって契約書の全てを読まずに、穂波がペン先を契約書に落とそうとした、まさにその時。
絵神原通りの裏通りを、一台の黒いバイクが猛スピードで駆け抜けていた。
「……ったく、涼真の野郎、とんでもねえ情報を引き当てやがった!」
ヘルメットの中で、凱がギリッと歯を鳴らす。
その少し前。トラットリア「ルーチェ」の厨房で、涼真は独自のルートから小田切商事の黒い噂を掴んでいた。彼らは言葉巧みに農家や小さな工場を騙し、多額の違約金をふっかけて土地を奪う悪徳企業だったのだ。
涼真は即座に凱と湊に連絡を飛ばした。「穂波さんの危機だ」という涼真の一言で、三人は満席の営業を放り投げ、エプロンも作務衣もそのままに、千蔵屋へと全力で急行していた。
「開けろ、穂波!」
地響きのような怒声と共に、千蔵屋の重い引き戸が蹴り破られるような勢いで開け放たれるのだった。




