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第31話 製粉

 六月上旬。

 抜けるような青空の下、絵神原えじんばら町の郊外に広がる畑は、見渡す限りの黄金色に染まっていた。

 サワサワと風に揺れる黄金雪おうごんゆきの波に、四つの人影が飛び込んでいく。


「いい、根元から少し上のところで刈り取るわよ! 穂を落とさないように気をつけて!」

 特注の作業用エプロンを身に纏った千蔵屋ちくらや穂波ほなみが、プロとしての厳しい眼差しを向けながら、自らも鎌を片手に声を張り上げる。


「おう! 任せとけ!」

 伊乃草いのくさがいが黒いTシャツの袖をまくり、持ち前の圧倒的なパワーで次々と麦を刈り取っていく。彼の通った後は、まるで重機が入ったかのように綺麗に整地されていく。


「力任せじゃだめだよ、凱。麦の束は優しく扱わないと」

 結城ゆうきみなとが、藍色の作務衣を汗で濡らしながら、丁寧かつ一定のリズムで麦を刈り、腕の中に大事に抱え込んでいる。


「君たちこそ効率が悪い。私の計算通りに動けば、体力の消耗を二割抑え、作業スピードを三割向上させられる」

 うら涼真りょうまは、泥汚れを嫌う彼にしては珍しくワークパンツ姿でありながら、無駄のない洗練された動きで的確に鎌を入れていた。


 真夏のような日差しが照りつける中、四人は泥だらけになりながら、ただひたすらに広大な畑を手刈りしていく。

 数時間の後。最後の一束を刈り終えた穂波は、「終わった……!」と叫び、そのままあぜ道にドサリと座り込んだ。


「お疲れ、穂波。よく頑張ったな」

 凱が冷たい水の入ったペットボトルを差し出す。

「少し休みなよ。あとは僕たちが束ねてトラックに積んでおくから」

 湊が首にかけたタオルで、穂波の額の汗を優しく拭った。

「君の絶対的な判断のおかげで、最高の状態で収穫できた。ゆっくり休むといい」

 涼真が眼鏡を押し上げ、誇らしげに微笑む。


「みんな……本当にありがとう……」

 穂波は水を受け取ると、疲労と安堵からふうっと目を閉じ、深い息を吐いた。

 彼女が心地よい微睡みに落ちかけたその隙に、三人の男たちは顔を見合わせた。

 凱が顎で畑の隅を指し、湊が頷き、涼真が静かに歩き出す。彼らは穂を落とした後に残る大量の『麦わら』の茎の部分を、手際よくかき集め始めた。

「このくらいでいいか……」

 凱が誰に聞こえるでもなく小さく呟き、三人は穂波に気づかれないよう、こっそりとその大量の麦わらを束ねて車のトランクに押し込んだのだった。


 +++


 それから数日後。

 刈り取られた黄金雪は、完璧な温度管理のもとで乾燥などの工程を終え、ついに千蔵屋製粉所の蔵へと運び込まれた。

 この日、蔵の中に幼馴染三人の姿はなかった。それぞれが自分の店で、昼のピークタイムに向けて仕込みに追われている時間だったからだ。

 巨大なローラー式製粉機の前に立っているのは、穂波と、現当主である祖父の弦蔵げんぞう、そして穂波の父の三人だけだった。


「お父さん、おじいちゃん……準備、いい?」

 穂波が振り返ると、二人は硬い表情のまま深く頷いた。特に父の顔には、隠しきれない緊張が走っている。

 かつて、幼い穂波がこの蔵で黄金雪の粉を吸い込み、重度の小麦アレルギーを発症して呼吸困難に陥った事件。それは父にとって、娘を失いかけた癒えることのないトラウマだった。


「大丈夫だよ、お父さん。私はもう完全に治ったし……なにより、今の私ならこの粉を絶対に最高の状態にできるから」

 穂波は力強く告げると、製粉機のスイッチを入れた。


 ゴォォォォッという重低音が蔵の中に響き渡る。

 ホッパーに投入された赤茶色の硬い麦粒が、ローラーの間へと吸い込まれていく。

 そして、排出口からサラサラと音を立てて、初めて粉に挽かれた黄金雪がこぼれ落ちてきた。


 その瞬間だった。

 空気中に舞い上がった微細な粉から、圧倒的に深く、そして野性的な甘い香りが立ち込めたのだ。それは、普段扱っているどの小麦とも違う、力強い大地の生命力そのもののような魔法の香りだった。


「あぁ……」

 穂波は震える両手で、こぼれ落ちてくる粉を下からそっとすくい上げた。

 手のひらの上で、極めて細かな粒子がキラキラと光を乱反射している。祖父の日記に記されていた通り、まさに『黄金の光を帯びた雪』だった。


 舞い上がる粉を深く吸い込んだ穂波の脳裏に、幼い日の恐怖の記憶が蘇る。息ができなくなり、視界が暗く狭まっていったあの日のこと。

 しかし、その恐怖は今、手のひらにある美しい粉と、あの時からずっと支え続けてくれた三人の幼馴染たちの笑顔によって、完全に塗り替えられていった。

 恐怖は消え去り、そこにあるのはただ、純粋な小麦への愛と歓喜だけだった。


「おじいちゃん、お父さん……見て」

 振り返った穂波の瞳からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。

「私……黄金雪の粉を、挽けたよ」


 その声に弾かれたように、父が歩み寄り、穂波の持つ粉をじっと見つめた。そして、恐る恐るその香りを嗅ぎ、顔をくしゃくしゃに歪めて泣き崩れた。

「……ああ。お前は、本当にすごい調合師になったな……!」

 娘の成長と、長年の呪縛から解き放たれた安堵で、父は何度も何度も頷いた。


 弦蔵もまた、杖をつきながらゆっくりと近づき、シワだらけの指で粉をつまんだ。

「ふぉっふぉっふぉ……まさに、わしがかつて見たあの粉じゃ。いや、それ以上に力強く、美しいかもしれん。お前たち若い力が、この粉に新しい命を吹き込んだんじゃな」

 食えない好々爺の目にも、うっすらと感動の涙が光っていた。


 穂波は手のひらの黄金雪をギュッと握りしめ、心の中で三人の騎士たちに呼びかけた。

(できたよ、みんな。私、絶対にこれをみんなのところに届けるからね)

 早くこの粉で、彼らの打つ麺が見たい。その想いが、歓喜の涙とともに彼女の胸を熱く焦がしていた。


 +++


 翌日。穂波は挽き立ての「黄金雪」を丁寧に袋に小分けし、台車に乗せて絵神原通りへ飛び出した。足取りは羽が生えたように軽い。

 最初に訪れたのは、手打ちうどん「みなと亭」だ。


「湊!できたよ、黄金雪の初物!」

 厨房から出てきた湊は、袋を開けた瞬間に目を見開いた。

「……すごい香りだ。この粉なら、今まで誰も食べたことのないうどんが打てる」

 湊は粉を愛おしそうに見つめた後、限界まで優しく細めたタレ目で穂波を見つめた。


「ありがとう、穂波ん。……来年の今頃は、夫婦水入らずで新しいブレンドを考えたいね」


 何気ない会話の中に、当たり前のように『夫婦』という未来予想図を組み込んでくる。しかし、穂波の脳内翻訳機能は今日も絶好調にバグを起こしていた。


「うん!おじいちゃんになっても、ずっと一緒に粉の相談に乗ってくれるんだね。湊って本当に最高の幼馴染だよ!」


 満面の笑みで親友宣言を突きつけられ、湊は「……うん、そうだね」と乾いた笑いを浮かべて静かに崩れ落ちた。


 次に向かった麺処「獣王」でも、凱は粉を指先で舐め、ニヤリと野性的な笑みを浮かべた。

「完璧だ。この風味なら、俺の極濃スープと合わせても絶対に負けねえ」

「凱のラーメン、すっごく楽しみにしてるからね!」


「おう。俺の店の女将の席はずっと空けてあるから、早く来いよ。お前が隣にいれば、俺は毎日世界一のラーメンを作れるぜ」


 真っ直ぐな独占欲と熱烈なプロポーズ。だが、穂波の目は純粋に輝いた。

「わかった!仕込みが落ち着いたら、また看板娘としてバイトに入るね!幼馴染の店だもん、いくらでも手伝うよ!」

「……ちげえよ。バイトじゃなくて……はぁ、まあいい」

 凱はガクッと肩を落とし、顔を覆って天を仰いだ。


 最後に訪れたトラットリア「ルーチェ」では、涼真が粉の粒子をルーペで確認し、満足げに頷いていた。

「素晴らしい。私の計算式を軽々と超える完璧な仕上がりだ。これなら至高のパスタが打てる」

「よかった!涼真の乳化技術なら、絶対に粉の旨味を引き出せるって信じてたよ」


「もちろんだ。……安心して私についてき給え。二人の新居には、君専用の完璧な製粉室を設計するよ。一生、君の粉を愛し続けると誓おう」


 冷徹なエリート料理人からの、財力と愛を兼ね備えた重すぎる求婚。だが、穂波はパァッと顔を輝かせた。

「ええっ、幼馴染のために専用の部屋まで考えてくれてるの!?涼真ってば、どんだけ友達思いなの!ありがとう!」

「……私の完璧な愛の論理が、またしても『友達』というフィルターで弾き返された……」

 涼真は眼鏡をずり落とし、厨房の壁に手をついて項垂れた。


 穂波は三人の男たちが放った甘い愛の言葉をすべて「幼馴染としての強固な友情と仕事への情熱」として見事に受け流し、「みんなの試作、楽しみだなあ!」とルンルン気分で千蔵屋へと帰っていった。

 残された三人の男たちは、それぞれの店で「どうしてあいつには通じないんだ……」と、深いため息をついていたのだった。

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