第30話 黄金の海
五月下旬の絵神原町郊外。
三人がかりで着せられた特注のエプロンを身に纏い、千蔵屋穂波は休耕地を利用した広大な畑へと足を運んでいた。その後ろには、当然のように結城湊、伊乃草凱、浦涼真の三人が付き従っている。
畑に続く細いあぜ道を抜け、視界が開けた瞬間、穂波は思わず息を呑んで立ち尽くした。
「……すごい」
太陽の下、目の前に広がっていたのは、眩しいほどの黄金色に染まった広大な眩い海だった。
青々としていた茎や葉はすっかり色が抜け、見事な琥珀色へと変化している。初夏の風が吹き抜けるたびに、重そうに頭を垂れた無数の麦の穂が一斉に揺れ、サワサワと心地よい音を立てる。太陽の光を乱反射してキラキラと輝くその波は、まさに「黄金雪」という名前に相応しい、息を呑むような美しさだった。
「おじいちゃんの日記に書いてあった通りだわ。熟すと穂が深い金色になって、黄金の光を帯びるって……」
穂波は震える手で、一番近くにあった麦の穂にそっと触れた。硬く、引き締まった粒がぎっしりと詰まっているのが指先から伝わってくる。
「本当に、お前が復活させちまったんだな……絶滅したはずの幻の小麦を」
凱が目を細め、目の前に広がる黄金色の景色と、そこに立つ穂波の背中を交互に見つめた。
「私の計算したスケジュールと土壌管理が完璧だった証拠だ。だが、何より君の情熱が、この奇跡を呼び起こしたんだよ」
涼真が知的な銀縁の眼鏡を押し上げ、誇らしげに微笑む。
「穂波ん、おめでとう。君の夢が、ついに形になったね」
湊が温厚なタレ目を優しく細め、大きな手で穂波の肩をそっと包み込んだ。
三人の騎士たちからの温かい祝福の言葉に、穂波は胸がいっぱいになった。彼らが泥だらけになって土を耕し、嵐の夜には身を呈して苗を守り、病気の危機を共に乗り越えてくれたからこそ、今、この景色を見ることができているのだ。
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だが、感動に浸っている時間はない。ここからが本当の戦いであることを、穂波は誰よりも理解していた。
「……みんな、ありがとう。でも、喜ぶのはまだ早いよ」
穂波の表情から、先ほどまでの「守られる幼馴染」の顔がスッと消え去った。代わりに現れたのは、小麦のすべてを支配する「天才調合師」としての、冷徹なまでに研ぎ澄まされたプロの顔だった。
空気が一変したのを感じ取り、三人の男たちも息を呑んで彼女の次の言葉を待った。
「黄金雪は、収穫のタイミングが極端にシビアなの。完熟してから穂発芽……つまり、穂についたまま芽が出てしまうまでの期間が極端に短い。数時間でも見極めを誤れば、この黄金色の麦は一瞬でただの雑草になって、売り物にならなくなる」
穂波の言葉に、三人の間にピンと張り詰めた緊張感が走った。
数時間。たったそれだけの猶予しかないというのか。一年の苦労が水の泡になるかもしれないというプレッシャーの中で、穂波はたった一人でその重大な決断を下さなければならないのだ。
穂波は真新しい特注エプロンのポケットから、小さな水分計を取り出した。しかし、彼女が頼りにするのは機械の数値だけではない。
彼女は畑の中央へと静かに歩みを進め、目を閉じた。
頬を撫でる風の温度と湿度。土の乾き具合。そして何より、麦そのものが発している微かな匂いの変化。彼女が持つ「絶対的な感覚」を極限まで研ぎ澄ませ、大地の声に耳を澄ませていく。
(昨日の夜は湿度が低かった。今日の最高気温は二十五度まで上がる。明日の夕方からは雨雲が近づいてくる……)
頭の中で、膨大なデータと農家からの教え、自身の感覚が猛スピードで照合されていく。
穂波は一つの穂から麦粒を数粒だけ摘み取ると、親指と人差し指の腹で強く擦り合わせ、最後に前歯でカリッと噛み砕いた。
口の中に広がる水分量、デンプンの質感、そして特有の赤茶色の殻の硬さ。すべてを味わい尽くし、彼女は静かに目を開けた。
その澄んだ瞳には、一切の迷いがなかった。
「……水分量、澱粉の凝縮、完璧。風向き良し」
穂波は振り返り、三人の男たちを真っ直ぐに見据えた。
「今よ。今日のこの数時間が、黄金雪のポテンシャルが最高点に達する唯一の瞬間。……みんな、一斉に刈り取るよ!」
その凛とした声が黄金の畑に響き渡った瞬間、三人の男たちの背筋にゾクッとするような電流が走った。
普段は自分たちが過保護に守り、甘やかしている華奢な少女。しかし、粉の領域に足を踏み入れた彼女は、自分たち和洋中の最強職人たちを束ね、導く絶対的な「女王」なのだ。
彼女がただ守られるだけのお姫様ではなく、仕事においては自分たちと対等、いや、それを牽引するほどのプロフェッショナルであるという事実。その圧倒的な才能と覚悟に触れ、男たちは身震いするほどの惚れ直しを経験していた。
「……へっ、了解だ。お前の指示なら、地獄の果てまで刈り取ってやるよ」
凱がニヤリと好戦的な笑みを浮かべ、事前に用意していた真新しい鎌を手に取った。
「君のその完璧な決断、痺れるほど美しいよ。さあ、私の緻密な計算通りの無駄のない刈り取りを見せてあげよう」
涼真がコックコートの袖をまくり上げ、銀縁眼鏡の奥で知的な光を瞬かせる。
「穂波んの命令とあらば、僕らは手足となって動くまでさ。重いものは全部僕に任せて」
湊が頼もしいオカンスマイルを浮かべ、太く逞しい腕を鳴らした。
穂波は三人の反応に満足そうに微笑むと、彼らが縫ってくれた特注のエプロンの革ポケットをギュッと握りしめ、気合を入れ直した。
彼女が一人で戦っているのではなく、常に「三人の愛と技術」を身にまとってプロの仕事に挑んでいる。これほど心強いことはなかった。
「よし、行くよ! 千蔵屋の最高傑作を、私たちの手で収穫するんだ!」
五月の青空の下、眩しいほどの黄金色に輝く雪原に、四人の職人たちが鎌を手にして一斉に飛び込んでいった。
幻の小麦「黄金雪」の復活という奇跡が、ついにその実りを結ぼうとする、最高の収穫祭の幕開けだった。




