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第27話 過保護な看病

 五月上旬。絵神原えじんばら町の郊外に広がる畑では、幻の小麦である黄金雪おうごんゆきが豊かな穂を実らせ始めていた。しかし、順調な成長は新たな問題を引き起こしていた。その極上の香りに引き寄せられるように、麦を狙う野鳥の数が日に日に増え始めていたのである。


「こらっ、あっちに行って!せっかくここまで育ったのに、食べさせないわよ!」


 千蔵屋ちくらや穂波ほなみは、使い込まれた丈夫なエプロンと泥だらけの長靴を身につけ、一人で広い畑を走り回っていた。防鳥ネットの補修や、隙間から入り込もうとする鳥を追い払うため、彼女は連日連夜、畑の見張りを続けていたのだ。


 結城ゆうきみなと伊乃草いのくさがいうら涼真りょうまの三人の幼馴染たちは、それぞれの店が繁盛しており、仕込みや営業で最も忙しい時期を迎えていた。彼らにこれ以上の負担をかけまいと、穂波は三人に内緒で睡眠時間を削り、無理を重ねていた。


 しかし、小柄で華奢な彼女の体力には、限界があった。春特有の激しい寒暖差も相まって、穂波の身体には確実に過労と風邪のダメージが蓄積していったのである。


 +++


 数日後の夕方。千蔵屋の奥にある薄暗い蔵の中で、粉の配合を確認していた穂波の視界が、ぐらりと大きく揺れた。


「あれ……おかしいな。息が、苦しい……」


 膝から崩れ落ちた穂波は、ひんやりとした土間にうずくまった。全身が熱く、鉛のように重い。それ以上に彼女を恐怖させたのは、ヒュー、ヒューと喉の奥で鳴る荒い呼吸音だった。


 その瞬間、穂波の脳裏に幼い頃の記憶がフラッシュバックした。小麦アレルギーを発症し、呼吸困難に陥って死にかけたあの日の強烈なトラウマだ。


(いやだ……あの時の悪夢だけは。また、息ができなくなるの……?)


 アレルギーは完全に克服したはずなのに、熱による息苦しさがかつての恐怖を鮮明に呼び覚ます。パニックに陥った穂波の目から、ポロポロと恐怖の涙がこぼれ落ちた。


「穂波っ!!」


 蔵の重い引き戸が勢いよく開き、三つの大きな影が飛び込んできた。製品の受け取りに来て異変に気づいた凱、湊、涼真だった。


「何があった! 何かに怯えているのか? 僕がいる」

 湊が床に這いつくばり、震える穂波の小さな手を両手で力強く握りしめた。その太く逞しい腕から伝わる体温が、穂波の恐怖を少しずつ溶かしていく。


「ゆっくり息を吐け。俺がついてる。何も怖くねぇよ」

 凱が背後に回り込み、大きな手で彼女の華奢な背中を一定のリズムで優しく、何度もさする。


「……ひどい熱だ。だが、気道は確保されている。アレルギーじゃない、ただの過労と風邪だ。安心し給え」

 涼真が冷静な声をかけながら、穂波の熱を測るという口実のもと、自らの額を彼女の額にピタリと押し当てた。


 三方向から伝わってくる、幼馴染たちの力強い体温と絶対的な安心感。その温もりに包まれ、穂波の荒い呼吸は次第に落ち着きを取り戻し、やがて安堵とともに深く重い眠りへと落ちていった。


 +++


 穂波を自室のベッドに寝かせた後、三人の男たちは腕を組み、深刻な顔で車座になっていた。


「店の休憩時間と仕込みの時間を縫って、俺たちが交代で看病するぞ。一秒たりともあいつを一人にするな」


 凱の言葉に、湊と涼真も深く頷く。こうして、和洋中の最強職人たちによる、分刻みで連携した異常なまでに過保護な看病リレーが幕を開けたのである。


 深夜の穂波の寝室。


 静かな寝息を立てる穂波の枕元で、三人の男たちは声を出さずに激しい火花を散らしていた。


 湊が水で濡らしたタオルを固く絞り、穂波の額の汗を優しく拭おうと手を伸ばす。しかし、その手首を凱が横からガシッと無言で掴んで阻止した。凱のヤンチャな目は「俺がやる」と雄弁に語っている。


 湊は温厚なタレ目を限界まで細めて「君の手は無骨すぎて彼女の柔肌を傷つける」と視線で返し、無言のまま腕力を込めて凱を押し返そうとする。


 そこへ、氷枕を手にした涼真が音もなく忍び寄り、二人の隙を突いて穂波の頭の下へ滑り込ませようとした。


「……っ!」


 凱と湊が同時に涼真の肩を掴み、猛烈な睨み合いが始まる。


「風邪には発汗することが大切だ。私が添い寝をして体温調節をするのが一番論理的だ」と涼真が眼鏡の奥の目で冷徹に主張すれば、凱は「んなわけあるか、俺の強い腕枕が一番安心するに決まってんだろ」と鼻息を荒くする。


 ベッドの上で眠る穂波を起こさないよう、三人は一言も発することなく、しかし凄まじい形相で「誰が彼女の手を握るか」「誰が看病の主導権を握るか」という静かなる死闘を繰り広げていた。


 結果として、右手を湊が大きな両手で包み込み、左手を凱が自分の頬に当て、涼真が枕元で加湿器の湿度をミリ単位で調整しながら彼女の栗色の髪を撫でるという、三方向からの過剰な愛情包囲網が完成した。


「……ん……みんな、あったかい……ありがとう」


 熱にうなされながら、現実か夢かを判断できていない穂波が安心したようにふわりと微笑む。


 その無防備な寝顔を見た瞬間、三人の男たちはピタリと牽制し合うのをやめた。自分たちのすべての行動原理は、この幼馴染の笑顔を守るためにある。どんなに競い合おうとも、その根本の想いだけは完全に一致しているのだ。


 窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。男たちは愛する少女の寝顔を見守りながら、彼女が元気になるまで徹夜で看病を続ける覚悟を固めるのだった。

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