第25話 お花見弁当
四月中旬。絵神原町の郊外にある休耕地だった畑は、柔らかな春の陽光に包まれていた。
かつては石が転がる荒れ地だったその場所には、今や見渡す限りの青々とした麦畑が、山桜が咲き乱れる中央で広がっている。そして、風に揺れる麦の穂には、白く可憐な花が一斉に咲き誇っていた。
「わあ……綺麗。本当に、真っ白な雪が降ったみたい」
千蔵屋穂波は、麦畑の前に広げたレジャーシートの上に座り、感嘆の声を漏らした。
満開の麦の花を祝して、今日は穂波と三人の幼馴染たちによる、ささやかなお花見が開かれていたのだ。
「ああ、俺たちが泥だらけになって世話した甲斐があったぜ」
黒いライダースジャケットを脱ぎ、Tシャツ姿になった伊乃草凱が、満足げに腕を組む。
「私の完璧な土壌管理と病害対策が、この美しい結果を導き出した。計算通りの見事な開花だ」
純白のコックコートではなく、休日の洗練されたシャツ姿の浦涼真が、知的な銀縁の眼鏡を押し上げた。
「本当に、立派に育ってくれてよかったね、穂波ん」
ゆったりとしたカーディガンを羽織った結城湊が、温厚なタレ目を優しく細めて微笑んだ。
三人の男たちは、美しい麦の花よりも、その花を見て無邪気に喜ぶ穂波の笑顔に目を奪われていた。
「さあ、花より団子だ。穂波ん、朝早くから仕込んできた特製のお花見弁当だよ」
湊が大きな重箱を広げた。中には、出汁の染み込んだ黄金色の出汁巻き卵や、丁寧に面取りされた野菜の煮物が美しく並んでいる。
「穂波んの胃袋を優しく温める、消化に良いメニューばかりを集めたんだ。ほら、あーんして」
「おい湊、抜け駆けすんな! 花見つったらスタミナだろ!」
凱が負けじと、ズシリと重い曲げわっぱの弁当箱を突き出した。
「俺の店で継ぎ足してる特製ダレで炙った、極上チャーシュー丼だ! これを食えば、どんな力仕事も余裕でこなせるぜ!」
「君たちの料理は相変わらず野蛮で芸がないね。彼女の繊細な味覚には、これくらい洗練された品が必要だ」
涼真が優雅な手つきでクーラーボックスから取り出したのは、計算し尽くされた高級イタリアン前菜のオードブルだった。
「キャビアと帆立のマリネ、それに鴨肉のローストだ。千蔵屋の小麦に負けない、最高のマリアージュを約束しよう」
「みんな、ありがとう! どれもすごく美味しそう!」
穂波は三方向から突き出された過剰な愛情弁当を前に、困ったように笑いながらも、嬉しそうに目を細めた。相変わらず「俺の飯が一番だ」とバチバチに火花を散らす三人のマウント合戦は、絵神原通りの日常風景だ。
美味しいお弁当に舌鼓を打ちながら、穂波は再び風に揺れる麦畑へと視線を向けた。
春の穏やかな風が吹き抜けるたび、無数の麦の穂が一斉に同じ方向へとなびき、まるで緑色の海がさわさわと波打っているような幻想的な光景が広がっていた。
「……麦の穂が風で波打つ様子って、ずっと見ていられるくらい優しい景色だね」
穂波がぽつりと呟くと、男たちも食事の手を止めて麦畑を見つめた。
「実はね、私の『穂波』っていう名前、両親がこの景色から付けてくれたんだって」
「名前の由来、か?」
凱が聞き返す。
「うん。小麦が大好きだったおじいちゃんの影響もあって、お父さんとお母さんが、麦の穂が波打つみたいな、優しくて、でも根をしっかり張って力強く生きる子になってほしいって、そう願いを込めて名付けてくれたの」
穂波の言葉に、三人の男たちの胸の奥で、甘く、そして熱い感情がふわりと膨らんだ。
誰に対しても分け隔てなく接し、大好きな小麦のためにどんな困難にも立ち向かう真っ直ぐな彼女。その姿はまさに、太陽に向かって力強く伸び、風に優しく揺れるこの麦の穂そのものだった。彼女の優しさと、波打つ麦の姿が見事にリンクしていることに、三人は深く納得した。
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食事が落ち着き、ぽかぽかとした春の陽気に包まれる中、四人の間にはゆったりとした時間が流れていた。
風が吹くたびに、麦の花からふわりと甘く青い香りが漂ってくる。
「……穂波の親父さんたちが付けた名前、ぴったりだな」
沈黙を破ったのは、凱だった。彼は手をついて後ろに体重をかけながら、真っ直ぐな瞳で穂波を見つめた。
「風が吹くたびに、お前の匂いがして胸がざわつくんだ。この麦が太陽を目指して背を伸ばすように、俺も最高の一杯でお前を一番高い場所へ連れていく。誰にも邪魔させねえ。お前が笑うための光は、全部俺が掴み取ってやるからな」
熱を帯びた、独占欲むき出しの低く野性的な声。それはただの幼馴染に向ける親愛の枠を完全に超えた、男としての宣戦布告だった。
「ちょ、ちょっと凱、急にどうしたの?」
穂波が驚いて目を丸くしたのも束の間、今度は涼真が静かに立ち上がり、穂波の前に膝をついた。知的な眼鏡の奥の瞳が、獲物を狙うように細められる。
「麦の花が白く可憐なのは、その奥に秘めた黄金の命を純粋に守るためだ。君の絶対的な感覚を、誰よりも美しく、残酷なほど完璧な一皿に変えられるのは私しかいない。君の心という数式に、私以外の解など存在させない。一生、私の妙技で君を支配し続けよう」
エリート料理人の冷徹さと、逃げ場を与えないほどの重い執着が込められた言葉。涼真の艶のある声が、穂波の耳元を甘くくすぐる。
「りょ、涼真まで……! なんだか二人とも、劇の台詞みたいだよ」
顔を真っ赤にして後ずさりしようとした穂波の背中を、ふわりと大きな手が包み込んだ。
振り返ると、そこには温厚なタレ目を限界まで優しく細めた湊がいた。
「見て、穂波ん。麦の穂が寄り添って波打つみたいに、僕の打つ麺も君の挽く粉と一つになって生きてきた。君が嵐に震える夜も、僕のうどんが君の芯を温める一番の場所でありたい。この根が土を離さないように、僕も君の隣を絶対に離さないよ」
逃げ出そうとした背中を塞ぐように、優しく、しかし絶対的な包容力でホールドするオカン系男子の言葉。
美しい麦畑の情景と春の陽気に当てられた男たちは、無意識のうちに「誰が一番穂波をときめかせられるか」という、ロマンチックな事を言う大会へと自然に発展させてしまっていたのだ。




