第24話 穂ばらみ期
湊の広い背中に隠された穂波は、三人のただならぬ剣幕に目を白黒させていた。
「ちょっとみんな、落ち着いて!天城さんはただ私の粉を褒めてくれただけで……」
「落ち着いていられるか!どこの馬の骨とも知れねえ男が、お前をパリに連れ去ろうとしてんだぞ!」
凱が天城の胸ぐらを掴みかからんばかりの勢いで吠える。涼真も冷たい視線を崩さない。
「パンの技術がどれほど優れていようと、彼女の味覚を異国の地で孤立させるなど言語道断だ」
三人の凄まじい威圧感と殺気を前にしても、都会の若き天才パン職人である天城慶太は、ひるむどころか余裕の笑みを深めた。
「麺が至高、ですか。面白いことを言う。世界的に見れば小麦の食べ方はパンこそがスタンダードだ。君たちのような田舎で細々と営むような麺職人(?)に、彼女の繊細な粉のポテンシャルを完全に引き出せるとは思えないね」
「なんだとコラ!」
「聞き捨てならないな。私の技術を愚弄する気か」
「争いはやめて!」
穂波はたまらず湊の背中から飛び出し、三人の前に両手を広げて立ち塞がった。そして、天城に向き直り、真っ直ぐな瞳で告げた。
「天城さん。私の粉を評価してくれて、パリに誘っていただいたことは本当に光栄です。でも、私は行きません」
「どうして? 君の才能なら、世界で通用するのに」
天城が不思議そうに首を傾げると、穂波は背後に立つ三人の幼馴染たちを振り返り、優しく微笑んだ。
「私には、この絵神原町で叶えたい夢があるんです。絶滅したと言われている幻の小麦、黄金雪を復活させるという夢が」
「黄金雪……あの気難しいと言われる伝説の硬質小麦ですか?」
「はい。私一人の力では、到底不可能な夢でした。でも、湊が土を耕し、凱が嵐から苗を守り、涼真が完璧な計算で病気を防いでくれた。この三人が一緒に泥だらけになって育ててくれているから、私は今、ここで粉を挽くことができるんです」
穂波の言葉に、三人の男たちはピタリと動きを止めた。彼らの胸の奥に、言葉にならない熱いものが込み上げてくる。
穂波は再び天城に向き直り、深く頭を下げた。
「だから、私は彼らと一緒に、この絵神原で世界一の小麦を作ります。パリへは行けません」
天城はしばらくの間、呆然と穂波を見つめていた。そして、視線をずらして三人の男たちを順番に見回す。怒りに燃えていた彼らの目には、今や穂波を守り抜くという強固な覚悟と、彼女の夢を共に背負う職人としての揺るぎない誇りが宿っていた。
「……なるほど。完全な敗北ですね」
天城は小さく息を吐き出すと、憑き物が落ちたように爽やかに笑った。
「幻の小麦の復活。同じ小麦を扱う職人として、これほど胸が躍る挑戦はありません。君たちは、本当に素晴らしい同志だ。君たち四人の絆と情熱に、心からの敬意を表します」
天城は右手を胸に当て、西洋の騎士のように優雅にお辞儀をした。その真摯な態度に、凱たちもわずかに毒気を抜かれたように顔を見合わせる。
しかし、天城は顔を上げると、挑戦的な光を瞳に宿して三人の男たちを指差した。
「ですが、僕は諦めませんよ。これからパリへ渡り、必ず世界一のパン職人になってビッグになって帰ってきます。その時こそ、君たちの麺を凌駕する最高のパンで、彼女を迎えに来る。覚悟しておいてください」
「へっ、言ってくれるじゃねぇか!その頃には俺のラーメンが世界一になってるぜ」
「望むところだ。だが、彼女の隣は僕が譲らないよ」
「私の数式に君の入る隙間はない。いつでも挑んで来たまえ」
男たちの熱い火花が交錯する中、天城は「また会いましょう、穂波さん」とウインクを残し、嵐のように千蔵屋を去っていった。
「……ったく、油断も隙もねぇな」
凱が大きく背伸びをしながらぼやくと、穂波が「ふふっ」と笑い声を漏らした。
「でも、天城さんもすごく真剣で、かっこよかったね!」
無邪気な穂波の一言に、三人の男たちは再びギリッと歯を食いしばり、「絶対にパンには負けねえ……!」と、麺職人としての謎の対抗心を静かに燃え上がらせたのだった。
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午後。春の嵐が完全に過ぎ去り、透き通るような青空が広がった頃。
四人は連れ立って、絵神原町の郊外にある休耕地を訪れていた。
「わあ……!」
水たまりを避けて畑に入った穂波は、目の前に広がる光景に感嘆の声を上げた。
つい先日まで青々とした葉を茂らせていただけの黄金雪が、雨の恵みと春の暖かさを受けて、劇的な変化を遂げていたのだ。
「見て、みんな!茎がプックリと膨らんでる……『穂ばらみ期』だよ!」
穂ばらみ期とは、茎の中で穂が育ち、外に出る直前の最も重要な成長段階のことだ。膨らんだ茎の先からは、いまにも美しい黄金色の穂が顔を出しそうに力強く天を突いている。雨露を弾いてキラキラと輝くその姿は、これまで彼らが乗り越えてきた数々の苦労が報われた証だった。
「……すごいな。あの石だらけだった荒れ地が、こんな立派な麦畑になるなんてな」
凱が目を細め、感慨深げに土を踏みしめる。
「私の計算した肥料の配合と、徹底した病害対策が完璧に機能した結果だ。美しい生命の数式だよ」
涼真が泥だらけの長靴を気にすることもなく、誇らしげに眼鏡を押し上げる。
「みんなが頑張ってくれたおかげさ。あとは無事に穂が出て、黄金色に染まるのを待つだけだね」
湊が優しい手つきで、麦の葉についた水滴をそっと払う。
穂波は麦の力強い成長に感動し、胸がいっぱいになっていた。
幼い頃、アレルギーで絶望していた自分。あの時、不格好なちぎれ雲麺を作って笑わせてくれた三人の少年たちは、大人になった今でも、こうして自分の夢のために泥まみれになってくれている。
「……凱、涼真、湊」
穂波が振り返ると、三人の男たちは一斉に彼女を見つめた。春の陽射しを浴びて立つ穂波の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
「本当に、本当にありがとう。みんながいてくれなかったら、この黄金雪は絶対にここまで育たなかった。私をいつも守ってくれて、一緒に夢を追いかけてくれて……私は、世界一幸せなブレンダーだよ」
涙で声を詰まらせながら、それでも太陽のような満面の笑みで感謝を伝える穂波。
その純粋で真っ直ぐな笑顔を向けられ、三人の男たちはドクリと大きく心臓を跳ねさせた。
パン職人という予期せぬライバルの出現でかき乱された心も、この笑顔一つで完全に浄化されていく。同時に、彼らの胸の奥には「何があっても、絶対にこいつを守り抜く」という男としての強固な誓いが、さらに深く刻み込まれていた。
「泣くなよ、バカ。お前の笑顔を見るためにやってんだからよ」
凱が照れ隠しに乱暴な手つきで穂波の頭を撫でる。
「その通りだ。君の夢を叶えるのは、他の誰でもない私たちだからね」
涼真が艶のある声で囁き、そっとハンカチを差し出す。
「さあ、帰ろうか穂波ん。冷えないうちに、温かいうどんを作ってあげるから」
湊がタレ目を優しく細め、大きな手で彼女の背中を包み込むように促した。
風に揺れる青々とした麦畑の真ん中で、四人の笑い声が心地よく響き渡る。
嵐を乗り越え、外部からの愛の脅威も退けた彼らの絆は、これからいよいよ黄金色に染まろうとする麦の穂のように、力強く、そして確かな実りを結ぼうとしていた。




