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第23話 パンの刺客

 三月下旬。春の天気は変わりやすく、つい先ほどまで晴れ渡っていた絵神原えじんばら町の空は、突如として灰色の雨雲に覆われた。

 ザーッという激しい音と共に、急な土砂降りの雨が商店街のアーケードの切れ間を容赦なく打ち据える。


「冷たっ……! 急に降ってくるなんて!」


 配達の帰り道だった千蔵屋ちくらや穂波ほなみは、小走りで一番近くにあった雨宿りできそうな場所へ飛び込んだ。カラン、と上品なベルの音が鳴る。そこは、うら涼真りょうまが営むトラットリア「ルーチェ」だった。


「いらっしゃ……おや、穂波さん」


 ランチタイムの営業を終え、仕込みの準備をしていた涼真が、厨房から顔を出す。純白のコックコートを完璧に着こなした彼は、ずぶ濡れになって震える穂波を見るなり、知的な銀縁眼鏡の奥の目をスッと細めた。


「ごめん、涼真。急に降ってきて……少しだけ雨宿りさせてくれないかな?」

「雨宿りどころの話じゃない。そんなに濡れては風邪を引いてしまう。さあ早く奥へ」


 涼真は真剣に彼女が風邪をひかないか心配し、迷うことなく穂波の華奢な手首を掴むと、客席の奥にあるスタッフルームへと導いた。


「とりあえず、これで髪を拭き給え。それと……これを着替えるといい」


 手渡されたのは、ふかふかの清潔なバスタオルと、涼真の大きめの白シャツだった。


「えっ、でもこれ、涼真のシャツだよね? 悪いよ……」

「君の健康と、私のシャツ。どちらが優先されるべきかは考えるまでもないだろう。私が後ろを向いている間に、早くその濡れた作業着を脱ぐんだ」


 反論を許さない冷徹でいて優しい響きに、穂波は恥ずかしがりながらも濡れた服を脱ぎ、涼真のシャツに袖を通した。


「……着替えたよ。でも、やっぱりすごく大きい」


 振り返った涼真は、一瞬だけ呼吸を止めた。

 身長の高い涼真のシャツは、小柄な穂波が着ると完全に「着られている」状態だった。袖は指先まですっぽりと隠れ、裾は太ももの半分までを覆っている。胸元の開いた襟からは、白く細い首筋が覗いていた。


(高すぎる萌え度に……私の脳内コンピューターが、再び深刻なエラーを起こしそうだ)


 涼真は内心でどろりとした重い独占欲と熱情を持て余していたが、顔には一切出さず、完璧なエリートの仮面を被り続けた。


「ふっ、君には少し大きすぎたね。だが、風邪を引かれるよりはマシだ。温かいカモミールティーを淹れたから、飲んで体を温め給え」

「ありがとう、涼真。なんだか申し訳ないな……」


 大きすぎる白シャツの袖を捲り上げながら、頬を赤くしてティーカップを両手で包み込む穂波。その無防備すぎる姿を前に、涼真はただただ紳士として振る舞うための忍耐力という、己の人生で最も過酷な試練と戦い続けていたのだった。


 +++


 それから数日後。すっかり春らしい穏やかな陽気を取り戻した日の午後。

 千蔵屋製粉所の居間には、なぜか自分の店を放り出して入り浸っている三人の男たちの姿があった。


 手打ちうどん「みなと亭」の結城ゆうきみなと、麺処「獣王」の伊乃草いのくさがい、そしてトラットリア「ルーチェ」の涼真である。彼らは休憩時間を利用して、穂波が淹れたお茶を飲みながら、いつものように他愛のない言い争いを繰り広げていた。


 その時、製粉所の引き戸がガラリと開いた。


「ごめんください。突然押しかけてすみません。こちらが、素晴らしい粉を挽く千蔵屋製粉所でしょうか?」


 現れたのは、洗練された都会的なファッションに身を包んだ、見知らぬ見目麗しい青年だった。


「素晴らしい? ええ、まぁそうですが……どちら様ですか?」


 穂波が不思議そうに首を傾げると、青年は人懐っこく、しかし自信に満ちた笑顔を浮かべた。


「初めまして。僕は天城あまぎ慶太けいた。東京でパン職人をしています。お宅の粉を仕入れている友人から千蔵屋の天才的なブレンダーの粉を借りてパンを焼いて食してみたところ、どうしても会いたくて来てしまいました」

「パン職人さん……!」


 粉を愛する穂波の目が、途端にキラキラと輝き出す。


「挨拶代わりに、僕が焼いたクロワッサンを持ってきたんです。ぜひ、味を見てくれませんか?」


 天城が差し出した美しい箱の中には、幾重にも重なる見事な層を持った、黄金色のクロワッサンが並んでいた。箱を開けた瞬間、芳醇なバターと香ばしい小麦の香りが居間いっぱいに広がる。


「すごい……なんて綺麗な層なの。いただきます!」


 穂波は迷うことなくクロワッサンを手に取り、一口かじった。サクッ、という軽やかな音の直後、彼女の瞳が驚きに大きく見開かれる。


「美味しい……! 私が挽いた小麦の甘みが完璧に引き出されてる! バターの風味に全然負けていないのに、グルテンの層が信じられないくらい繊細で……っ」


 ブレンダーとしての才能を持つ彼女は、パンの出来栄えに心底感動し、頬を紅潮させて熱弁を振るう。

 その姿を見た瞬間、背後に座っていた和洋中の麺職人たちの顔色が一斉に青ざめた。


(やばい……っ! 穂波んの純粋な味覚が、パンに侵略されている!?)

 湊が温厚なタレ目を限界まで見開いて戦慄する。


(クソが! 俺の極濃ラーメンよりも美味そうな顔して食ってんじゃねぇ!)

 凱がギリッと歯を鳴らし、拳を強く握りしめる。


(私の完璧なパスタの計算式に、『パン』という未知のバグが混入しただと……!)

 涼真が眼鏡の奥で冷ややかな汗を流す。


 三人が並々ならぬ危機感を募らせていることなど露知らず、天才パン職人である天城は穂波の反応を見て満足げに微笑んだ。そして、彼女の才能に純粋に惚れ込んだ様子で、スマートに口を開いた。


「君の粉を最高に活かせるのは僕だ。一緒にパリに行こう」


 突然のプロポーズにも似た口説き文句に、穂波はポカンと口を開けた。


 ドガンッ!!


 次の瞬間、居間のちゃぶ台がひっくり返らんばかりの勢いで、三人の男たちが同時に立ち上がった。


「おいコラ、フニャパン野郎! 突然湧いて出てきて、俺たちの穂波をパリに連れて行くだと!?」

 凱が凄まじい気迫で天城の前に立ち塞がる。


「彼女の胃袋と健康を守るのは僕だ。バターたっぷりのパンばかり食べさせるわけにはいかない!」

 湊が穂波を自分の広い背中の後ろにサッと隠す。


「論外だね。彼女の粉を最も美しく昇華できるのは私の魔術的な技術だ。だいたい、小麦の食べ方は麺が至高に決まってんだろ!」

 涼真が冷酷な目で天城を睨み下ろす。


 外部からの「本気の愛の脅威」が現れたことで、三人の「奪い合うオス」の顔がより際立ち、彼らは阿吽あうんの呼吸で完全結託した。

「麺vsパン」という謎の構図のもと、三人の最強職人たちは一丸となって天城に牙を剥いたのだった。

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