第21話 酔客
二月上旬。厳しい寒さが続く絵神原町だが、麺処「獣王」の店内だけは真夏のような熱気に包まれていた。
先日、地元で有名なグルメ雑誌に大きく取り上げられたことをきっかけに、店は連日大繁盛していた。外には長蛇の列ができ、店内は常に満席状態だ。
千蔵屋穂波は、休日の時間を割いて配膳の手伝いに来ていた。使い込まれた丈夫なエプロンをきゅっと締め、次々と運ばれてくる空いた丼を片付けていく。
ふと視線を厨房に向けると、そこには普段のヤンチャな幼馴染とは全く違う、圧倒的なオーラを放つ職人の姿があった。
黒を基調としたTシャツ姿で、タオルを荒々しく頭に巻いた伊乃草凱は、巨大な寸胴鍋の前に立ち、鋭い目つきでスープの火加減をコンマ一ミリ単位で調整している。それと同時に、数十杯もの麺の茹で具合を完璧なタイミングで見極めていた。
「湯切り、いくぜっ!」
凱の力強い声とともに、平ざるが宙を舞う。鍛え抜かれたたくましい腕の筋肉が躍動し、一滴の無駄もなく華麗に湯を切っていく。力強さと繊細さが同居するその所作は、まるで洗練された演舞のようだった。
千蔵屋の小麦粉が持つ力強い風味を、極濃の豚骨スープで見事にまとめ上げる。求道者のように一杯のラーメンに魂を込める凱の姿に、穂波は思わず息を呑んで見惚れてしまった。
忙しさがピークに達した昼下がり。ホールで配膳をしていた穂波の元に、ガラの悪い三人組の客が座るテーブルから声が掛かった。
「おい姉ちゃん、ビールのおかわり。ついでに、連絡先も教えてくれない?」
酔いが回っているのか、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべた男の一人が、ビール瓶を受け取ろうとした穂波の華奢な腕をガシッと掴んだ。
「えっ……あの、困ります。手を離して……」
穂波が驚いて腕を引き抜こうとしたが、男の力は強く、ビクともしない。店内の空気が一瞬で凍りつき、周囲の客たちが不安そうに視線を向けた。
その瞬間だった。
「俺の女に気安く触るな」
厨房から地を這うような低い声が響いたかと思うと、凱がカウンターを飛び越えて現れた。
凱は穂波の腕を掴んでいた男の胸ぐらを片手で軽々と掴み上げると、凄まじい気迫で睨みつけた。
「ここは俺の城だ。てめぇらみたいな客は金輪際出入り禁止だ。二度と敷居を跨ぐんじゃねぇぞ!」
圧倒的な野性味と殺気を前に、男たちは震え上がり、「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて逃げるように店から飛び出していった。
騒ぎが収まり、穂波が呆然としていると、凱は彼女の腕を優しく確認した。
「怪我、ねぇか?」
「う、うん。大丈夫。でも、凱、ラーメンが……!」
穂波が厨房を指差したその時、ピピピッ! と茹で上がりを知らせるタイマーが鳴り響いた。
凱が客をつまみ出し、騒動を片付けるまでに要した時間は、わずか十秒。彼は何事もなかったかのように厨房へ戻ると、完璧なタイミングで平ざるを振り抜き、極上の一杯を完成させた。
プロとしての技術と、愛する者を守る腕っぷしの強さ。その両方を兼ね備えた凱の背中は、穂波の目に誰よりも大きく、頼もしく映っていた。
+++
数日後。絵神原町の郊外にある休耕地を訪れた穂波は、畑の真ん中で青ざめていた。
冬の厳しい寒さを乗り越え、順調に育っていたはずの『黄金雪』の葉に、異変が起きていたのだ。青々とした葉の一部に、不気味な白い斑点が広がっている。
「どうしよう……うどんこ病? それとも別の病気……?」
穂波は震える手で葉に触れた。絶滅の危機に瀕した幻の小麦は、やはり一筋縄ではいかない。このままでは畑全体に病気が蔓延し、全滅してしまうかもしれない。
絶望的な不安に押しつぶされそうになった時、背後から車のエンジン音が近づいてきた。
「穂波ん!」
「穂波さん、状況は!」
駆けつけてきたのは、結城湊と浦涼真。二人は穂波の悲痛な声色に危険を察知し、仕込みの時間を割いて飛んできてくれたのだ。
「湊、涼真……! 麦の葉っぱに、白い斑点が……」
泣きそうになっている穂波の肩を、湊が大きな手で優しく抱いた。
「大丈夫だ、落ち着いて。涼真、見てやってくれ」
純白のコックコート姿の涼真は、泥で靴が汚れるのも厭わず畝に入り、眼鏡の奥の鋭い瞳で葉の斑点を観察した。
「……なるほど。初期のうどんこ病と、気温の寒暖差による生理障害の併発だな」
涼真はタブレットを取り出し、過去の農業データと現在の気象条件を瞬時に照らし合わせた。
「心配ない。病原菌の特定は完了した。最適な農薬の配合と散布スケジュールは私の頭の中にある。湊、メモしてくれ。隣県の農業専門店にしか置いていない特効薬だ」
「分かった。僕が一番速いから、すぐに車を飛ばして買ってくる!」
湊は涼真の指示を受け取ると、大柄な体を翻して弾かれたように車へと向かった。
その夜。
店を閉めた凱が、バイクのエンジン音を響かせて畑に合流した。
「遅ぇぞ凱! もう薬の散布は始まってるぞ!」
すでに作業着に着替え、噴霧器を背負った涼真が声を飛ばす。
「悪ぃ! 一番客が入る時間だったからな。今すぐ手伝うぜ!」
凱もライダースジャケットを脱ぎ捨て、隣県から特効薬を持ち帰った湊から噴霧器を受け取った。
投光器の明かりに照らされた夜の畑で、三人の男たちが泥だらけになりながら、穂波の指示に合わせて丁寧に薬を散布していく。
「凱、そっちはもう少し葉の裏にもかけて!」
「おう、任せとけ!」
「涼真、濃度はこれで大丈夫?」
「ああ、私の計算通りだ。完璧な処方だよ」
「穂波ん、冷えるから温かいほうじ茶でも飲んでて。僕らが全部やるから」
三方向から飛んでくる優しさと頼もしさに、穂波の目から安堵の涙がこぼれ落ちた。
一人では絶対に乗り越えられない危機も、彼らがいれば恐れることはない。
和洋中の最強職人たちは、料理の腕だけでなく、愛する幼馴染の夢を守るためなら、どんな労力も惜しまなかった。
白い息を吐きながら夜の畑で笑い合う四人の絆は、黄金雪の根のように、どんな病や試練にも負けないほど強く、深く結びついていた。




