第20話 年越し
大晦日の夜。絵神原町にある千蔵屋製粉所の居間には、カツオと昆布が織りなす極上の出汁の香りがふわりと漂っていた。
「はい、お待たせ! 私の特製・年越し蕎麦だよ」
穂波がキッチンからお盆に乗せて運んできたのは、湯気を立てる三つの丼だった。こたつを囲んで座る結城湊、伊乃草凱、浦涼真の前に、それぞれ丁寧などんぶりが置かれていく。
「今年の締めくくりに、どうしてもみんなをもてなしたくて。厳選したそば粉を八割、そしてうちの千蔵屋の小麦粉をつなぎに二割使った、渾身の『二八蕎麦』よ」
誇らしげに胸を張る穂波を見て、和洋中の最強職人である三人の男たちは、箸を手に取り静かに麺と向き合った。ズズッ、と小気味よい音を立てて蕎麦をすする音が居間に響く。
喉越し、香り、そして出汁との絡み具合。どれをとっても、専門店のそれに引けを取らない見事な出来栄えだった。幼い頃から泥だらけになって遊んできた大好きな彼女の手作りというスパイスも加わり、三人にとっては涙が出るほど美味い一杯だった。
しかし、彼らには各々の店を背負う麺職人としての海よりも深いプライドと、素直になれない不器用さがあった。
「……おう、悪くねえな。だが、俺のガツンとくる極濃ラーメンの次に美味いぜ」
凱が少し顔を赤くしてそっぽを向きながら、ズルズルと豪快に二口目をすする。
「ふっ……私の計算し尽くされた完璧なパスタには遠く及ばないが、まあ、世界で二番目の称号は与えてもいいだろう」
涼真が知的な銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、わざとらしく余裕の笑みを浮かべる。
「優しい味だね。でも、穂波んの胃袋を一番癒やせるのは僕のうどんだから、これは二番目だよ」
湊もまた、温厚なタレ目を細めながら、ちゃっかりと自分のうどんを一番に位置づけた。
「えっ、本当!?」
三人の「自分の麺の次に美味い」という遠回しで不器用な褒め言葉を、恋愛に極めて鈍感な穂波は言葉通りに受け取った。
「みんなの美味しい麺の次だなんて……それ、最高の褒め言葉だよ! ありがとう!」
素直に、そして満面の笑みで喜ぶ穂波を見て、三人は「(本当はこれが世界一美味いなんて、絶対に言えない……っ)」と、どんぶりの中に顔を隠すようにして、真っ赤になった耳まで蕎麦と一緒に飲み込んだのだった。
年が明け、元日の朝。
凛とした冷たい空気が包む絵神原神社の鳥居前で、三人の男たちは待ち合わせをしていた。湊は清潔感のある上質なウールのコート、凱はワイルドな黒のライダースジャケット、涼真は体にフィットした洗練されたチェスターコートと、それぞれが休日の気合の入った私服に身を包んでいる。
「遅いな、穂波のやつ」
凱が白い息を吐きながら足踏みをしたその時、参道の向こうからカラン、コロンと軽やかな下駄の音が響いてきた。
「お待たせ! みんな、あけましておめでとう!」
その声に振り返った三人は、次の瞬間、完全に呼吸を忘れて硬直した。
そこに立っていたのは、いつもの機能性重視のシンプルな作業着や、粉まみれの使い込まれたエプロン姿の彼女ではなかった。祖母のお下がりだという、淡い桃色に鮮やかな牡丹の花が描かれた可憐な晴れ着(着物)姿の穂波だった。
普段は無造作に一つ結びにされていた栗色の髪は綺麗に結い上げられ、ほんのりと薄化粧を施した顔は、息を呑むほど美しかった。
「えっと……おばあちゃんのお下がりだから、ちょっと古いデザインなんだけど。変、かな?」
沈黙する三人に不安を覚えた穂波が、小首を傾げて袖を少し持ち上げる。
「へっ……!? いや、その……っ!」
凱は顔を爆発しそうなほど真っ赤に染め、口をパクパクとさせたまま視線をあらぬ方向へと彷徨わせた。
「……私の脳内コンピューターに、致命的なエラーが発生したようだ。美しすぎる……」
涼真はよろめきながら額を押さえ、ずり落ちそうになった眼鏡を直すことすら忘れて呆然と呟いた。
「穂波ん……すごく、綺麗だよ。本当に……」
湊はどうにか声を絞り出したが、その温厚な顔は限界まで朱に染まっており、大きな手で口元を覆って必死に動悸を抑えていた。
普段の泥臭い職人の顔しか知らない彼らにとって、着物姿のプリンセスの破壊力は計り知れないものだった。三人はこの元日の朝、ものの見事に穂波に惚れ直してしまったのだ。
「ふふっ、みんな顔が赤いよ? 寒いもんね、早くお参りに行こう!」
無邪気に笑う穂波に促され、三人は「(寒さのせいじゃねえよ……っ)」と内心で突っ込みながらも、周囲の参拝客からの視線を遮るように、阿吽の呼吸で穂波を三角形に囲い込んで鉄壁のガードを敷きながら境内へと進んだ。
拝殿の前に並んだ四人は、太く重い鈴緒に同時に手を伸ばした。
四人の手が重なり合い、少しの照れくささと温かさが指先から伝わってくる。ガラガラと小気味よい鈴の音が、冬の高い空へと響き渡った。
(今年も、最高の粉が挽けますように。幻の小麦『黄金雪』が、無事に実りますように)
目を閉じ、真剣な顔で祈る穂波の横顔を、三人の男たちはそっと見つめた。
(この変わらぬ関係がずっと続きますように。……いや、今年こそは、あいつの隣を俺が奪う)
純粋に夢の成功を祈る彼女と、変わらぬ絆を誓いつつも、密かに愛する幼馴染の隣を独占することを誓う男たち。四人の想いを乗せた祈りは、冷たくも清々しい元日の空へと真っ直ぐに昇っていった。




