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第18話 泥水と騎士

 同じ頃、絵神原えじんばら町の郊外に広がる休耕地では、二人の男が自然の猛威を相手に死闘を繰り広げていた。


 横殴りの雨が容赦なく視界を奪い、鼓膜を破るような強風が吹き荒れている。防寒着など意味をなさないほどの暴風雨の中、伊乃草いのくさがいうら涼真りょうまはずぶ濡れになりながら、広大な畑に防風ネットを張る作業に奔走していた。


「くそっ、風が強すぎる! ネットが持っていかれそうだ!」

 凱が泥だらけになりながら、太い杭を地面に打ち込もうと必死に体重をかける。普段はライダースジャケットを着こなす男の顔は、雨水と泥にまみれ、ヤンチャな面影は消え去って鬼気迫る表情になっていた。


「風速はすでに三十メートルを超えているはずだ。だが、私の計算した角度で固定すれば、必ず耐え切れる! 凱、あと三十センチ右だ!」

 涼真が叫び返す。彼もまた、純白のコックコートを脱ぎ捨てた姿で泥の中に膝をつき、必死にロープを引いていた。普段の彼なら絶対に避けるであろう泥まみれの作業だが、今はそんなことを気にしている余裕は一ミリもない。銀縁の眼鏡は雨粒で視界が歪んでいたが、彼の頭脳は常に最適なネットの張り方を弾き出し続けていた。


 ふと、突風が向きを変え、畑の真ん中に植えられた『黄金雪おうごんゆき』の苗へと容赦なく吹き付けた。絶滅の危機に瀕した幻の小麦は、茎が非常に細く、このままでは一瞬で折れてしまう。


「危ねぇっ!」

 凱が咄嗟に飛び出した。自らの大きな体を盾にするようにして、苗を覆い隠すように風上に立ちはだかる。強烈な風圧が彼の背中に叩きつけられ、思わず呻き声が漏れる。

「涼真! 今のうちだ!」

「分かっている!」

 凱が自らの肉体で暴風を凌いでいるわずかな隙に、涼真がロープを手に駆け寄り、風の抵抗を完璧に逃がす角度で素早くネットを固定していく。


「よし……これで、大丈夫だ」

 最後の杭を打ち終え、涼真が荒い息を吐いた。

 二人は泥だらけの畑の真ん中で、膝をついたまま肩で息をした。激しい雨に打たれながら、凱が乱暴に濡れた髪を掻き上げる。


「……湊の野郎、今頃ぬくぬく穂波の側にいやがるんだろうな。うらやましいぜ」

 悪態をつきながらも、凱の口元にはどこか安堵の笑みが浮かんでいた。

 涼真もまた、泥に汚れた手で眼鏡を押し上げ、フッと短く笑い声を漏らす。

「ふっ、あいつなら穂波さんを絶対に守り抜くだろう。たとえ雷に打たれようが、喜んで彼女の身代わりになるだろう。私たちはこの黄金の種を死守するだけだ」


 自分たちは泥水に這いつくばってでも、彼女の大切な夢を守り抜く。湊は、彼女の心と命を守り抜く。物理的な距離は離れていても、三人の職人の心は『穂波のために』というただ一つの想いで、これまで以上に強固に結びついていた。

 暴風雨の中で、泥にまみれた二人の騎士は、互いの顔を見合わせて静かに拳を突き合わせた。


 +++


 翌朝。

 昨夜の嵐が嘘のように、絵神原町の空には台風一過の眩しい日差しが降り注いでいた。


 千蔵屋ちくらや製粉所の前に、二つの影がよろよろと歩いてくる。

 徹夜で畑を守り抜いた凱と涼真だった。全身泥だらけでボロボロになり、疲労の極致に達しているが、その目には確かな達成感が宿っていた。


「黄金雪の苗、一本も折れてなかったな」

「ああ、私の完璧な計算と、君の野蛮な体力のおかげだ」


 軽口を叩き合いながら、二人は製粉所の奥にある蔵へと向かった。重い引き戸をゆっくりと開けると、そこには静かな空間が広がっていた。


「……おい」

 凱が目を丸くし、涼真が呆れたようにため息をついた。

 蔵の片隅で、結城ゆうきみなとが大柄な体を壁に預け、その腕の中にすっぽりと穂波を抱え込んだまま眠っていたのだ。湊が着ていたコートが毛布代わりに穂波の体を包み込み、彼女は湊の胸元に顔を埋めるようにして、子供のように安心しきった寝息を立てている。


 彼女の無事な姿を見て、凱と涼真は深く安堵の息を吐いた。

 しかし、次の瞬間には、三人の間にいつもの男の嫉妬が顔を出す。


「ずるいぞ湊、どんだけ密着してんだ!」

 凱がズカズカと歩み寄り、大声を上げた。

「全く同感だ。非常事態とはいえ、彼女を独占しすぎじゃないか」

 涼真も腕を組みながら、冷ややかな視線を湊に向ける。


 その騒がしい声に、湊がパチリと目を覚ました。

「ん……お前ら、無事だったか」

 寝ぼけ眼をこすりながら微笑む湊の腕の中で、穂波も「んん……」と身じろぎをして目を覚ました。


「あれ、私……朝に?」

 状況を飲み込めずに瞬きをする穂波の視界に、とんでもない姿の二人が映り込んだ。


「凱……? 涼真……? その格好、どうしたの!?」

 全身泥まみれで、髪には枯れ草が絡まり、精根尽き果てた様子の二人。いつもは完璧なコックコートを着こなす涼真の無惨な姿に、穂波は思わず息を呑んだ。


「お前が大事に育ててる黄金雪が、風で飛んでっちまわないようにな」

 凱がニッとヤンチャに笑って親指を立てる。

「私の計算通り、苗は一本の被害もなく守り抜いたよ。安心し給え」

 涼真が泥だらけの手で、誇らしげに眼鏡を押し上げた。


 その言葉の意味を理解した瞬間、穂波の瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。

 一晩中、雷の恐怖から自分を抱きしめて守り抜いてくれた湊。

 そして、暴風雨の中で泥まみれになりながら、自分の夢である黄金雪の苗を死守してくれた凱と涼真。

 三人は、それぞれの戦場で、自分のために命懸けで戦ってくれていたのだ。


「みんな……本当に、本当にありがとう……っ!」

 穂波は湊の腕の中から飛び出すと、泥だらけの凱と涼真に深く感謝を伝えた。

「ちょっ、穂波、お前まで泥だらけになるぞ!」

「私は構わない! 本当に、ありがとう……!」

 彼女の栗色の髪に泥がつくのもお構いなしに、穂波は泣きじゃくりながら二人の背中に腕を回した。


 その無防備で純粋な感謝の涙を前に、男たちはすっかり毒気を抜かれてしまった。

「ったく……お前が笑ってるなら、爆弾低気圧に立ち向かうくらい大したことないぜ」

 凱が照れくさそうに頭を掻く。

「同感だ。君のその笑顔が見られるなら、嵐に飛ばされる価値はある」

 涼真も優しく微笑み、穂波の頭をポンと撫でた。

「ほら、風邪ひくから早く着替えよう。温かいうどんを作ってやるからさ」

 湊がタレ目を細め、三人の輪に加わるようにして優しく肩を叩く。


 嵐が過ぎ去った眩しい朝の光の中、泥だらけの騎士たちと、彼らに守られたプリンセスは、照れくさそうに笑い合った。

 幼い頃からの親愛、料理人としての同志、そして一人の女性を愛する熱い想い。様々な感情が入り混じった彼らの絆は、この激しい嵐の夜を乗り越え、さらに一段階深く、強固なものへと結びついていったのだった。

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