第17話 爆弾低気圧
十二月上旬。絵神原通りに、芯まで凍えるような冷たい風が吹き荒れていた。
手打ちうどん「みなと亭」の裏手にある休憩スペースには、張り詰めた空気が漂っていた。純白のコックコートの上に厚手のコートを羽織った浦涼真が、手元のタブレット端末を険しい顔で見つめている。
「……状況は最悪だ。私の計算をはるかに超える規模の爆弾低気圧が、今夜この町を直撃する」
涼真が知的な銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、重々しい声で告げた。
「今回の爆弾低気圧は想定以上だ。郊外の畑に植えた黄金雪の苗はもちろん……あの古びた千蔵屋製粉所の建物も、危ないかもしれない」
その言葉に、藍色の作務衣姿の結城湊と、黒いライダースジャケットを着た伊乃草凱の顔色が変わった。
「千蔵屋が危ねえって……穂波は今、製粉所で粉の配合テストをしてるはずだぞ!」
凱が立ち上がり、苛立ちに任せて舌打ちをした。
普段は穂波の隣を奪い合う三人だが、命と心に関わる絶対的な危機を前にして、彼らの間に抜け駆けという概念は存在しなかった。
凱が鋭利な瞳で、二人の男を真っ直ぐに見据えて指示を出す。
「俺と涼真で畑の防風ネットを張る。湊、お前は穂波のところへ行け。あいつ、雷と暗闇が苦手だろ」
その言葉に、湊と涼真は一切の迷いなく頷いた。あの気難しい幻の小麦は、細い茎が強風で簡単に折れてしまう。しかし、それ以上に守るべきなのは、幼い頃から共に歩んできた大切な幼馴染の心だった。
「抜け駆けは許さないが、今はあいつの命と心が最優先だ」
三人の男たちは、男同士で熱いアイコンタクトを交わした。言葉以上に互いの覚悟を伝え合い、背中を預け合う同志としての強固な絆がそこにはあった。彼らは一瞬の遅れもなく、それぞれの戦場へと駆け出していった。
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夜の帳が下りると同時に、絵神原町は猛烈な暴風雨に飲み込まれた。昼間の涼真の予言通り、凄まじい威力の爆弾低気圧の襲来である。
千蔵屋製粉所の古い建物は、風が吹き付けるたびにミシミシと悲鳴のような音を立てていた。そして、空を真っ二つに裂くような強烈な閃光と地響きのような雷鳴が轟いた直後、パツンという音と共に製粉所が完全に停電した。
「きゃあっ……!」
真っ暗闇に包まれた土壁の蔵の中で、穂波は短い悲鳴を上げ、一人で怯えてしゃがみ込んだ。
「どうしよう……雷、怖いよ……」
穂波はエプロンをきつく握りしめ、ガタガタと震えていた。調合師としての立派な顔は消え去り、そこにあるのは雷と暗闇にすくむ一人の少女の姿だった。
ピカッと外が光り、数秒後に腹の底から揺さぶられるような轟音が響く。両手で耳を塞ぎ、冷たい床にうずくまって目をきつく瞑った、その時だった。
バンッ!
蔵の重い引き戸が、強風を押し退けるようにして力強く開け放たれた。
「穂波んっ!!」
激しい雨音を切り裂いて、聞き慣れた優しく太い声が響いた。
「み、湊……っ?」
暗闇の中、雨ガッパを着た大柄な男のシルエットが飛び込んでくる。カッパを脱ぎ、作務衣姿になった湊は、暗闇の中で一人怯える穂波の姿を見つけるなり、弾かれたように駆け寄った。
「湊っ、怖かった、一人で……っ!」
「俺がいるから大丈夫だ」
湊は、震える穂波の小柄な体を、その太く逞しい腕で力強く抱きしめた。
彼の体は冷たい雨に濡れていたが、大柄で分厚い胸板から伝わってくる体温はひどく温かかった。鼻腔をかすめる彼の優しい香りが、パニックになりかけていた穂波の理性を少しずつ引き戻していく。
ゴロゴロ、ドカーン!
再び強烈な雷鳴が轟いた。ビクッと肩を跳ねさせた穂波の頭を、湊は大きな手で優しく撫で続けた。
「大丈夫、大丈夫だよ。雷なんて、僕の背中が全部弾き返してやるから」
普段のオカン系男子としての過保護さは、この暗闇の中で、絶対的な安心感と男としての深い包容力に変わっていた。彼に抱きしめられている限り、どんな暴風雨も自分を傷つけることはできない。そう思わせるだけの揺るぎない力強さが、湊の腕には確かにあった。
「湊……ありがとう。湊が来てくれて、本当によかった」
穂波は湊の濡れた作務衣の胸元に顔を埋め、彼の力強い心音を聞きながら、次第に震えを収めていった。
彼が製粉所で愛する幼馴染をその胸に抱きしめ続けている頃、郊外の休耕地では、二人の男が泥にまみれて戦っているはずだ。
湊は心の中で二人の同志にエールを送りながら、腕の中の温かい命を、嵐が過ぎ去るまでただひたすらに守り抜くのだった。




