第15話 お見合い話
十一月下旬、絵神原通りに冷たい木枯らしが吹き抜け、冬の足音がはっきりと聞こえ始めた頃のことである。
商店街の寄り合い所として使われている古い公民館の和室には、ストーブの赤い火が点っていた。月に一度開かれる絵神原商工会の定例会議だ。
長机が並べられた部屋には、各店舗の店主たちが集まり、年末の売り出しについての話し合いが行われていた。
千蔵屋製粉所の代表として出席している穂波は、資料に丁寧に目を通しながらメモを取っていた。その斜め向かいの席には、手打ちうどん「みなと亭」の結城湊、麺処「獣王」の伊乃草凱、そしてトラットリア「ルーチェ」の浦涼真が並んで座っている。彼らもまた、それぞれの店を背負う若き主として会議に参加していた。
予定されていた議題が終了し、場が和やかな雑談の空気に包まれた時のことだった。
「いやあ、年末に向けて忙しくなるが、おめでたい話もあってな」
上座に座っていた商店街の会長が、ほうじ茶をすすりながら嬉しそうに口を開いた。年齢六十歳、八百屋を営むこの会長は、昔から大変なおせっかい焼きであり、町内の情報を握っている情報通でもあった。
「おめでたい話ですか?」
穂波が小首を傾げると、会長は満面の笑みを浮かべて彼女の方を指差した。
「他でもない、穂波ちゃんのことだよ! 実はな、地元の名士の息子さんとの、いい見合い話があるんだ」
その言葉が和室に響き渡った瞬間。
部屋の温度が、急激に数度下がったかのような錯覚が起きた。
ストーブの火は赤々と燃えているというのに、凍てつくような冷気と、肌を刺すような重い殺気が、長机の一部から放たれていたのだ。
「……お見合い、ですか」
湊が、いつもの温厚なタレ目を限界まで細め、口元だけで笑みを形作っている。しかし、その声は地の底から響くように低く、一切の感情が欠落していた。
「おいジジイ……今、なんつった?」
凱は腕組みをしたまま、眉間に深い皺を刻み、鋭くヤンチャな瞳で会長をギロリと睨みつけている。彼の手のひらの中で、握られていたプラスチック製のボールペンがミシリと嫌な音を立てた。
「地元の名士の息子、ね。……ふっ、どこの馬の骨とも知れない男が、彼女に相応しいとでも?」
涼真は知的な銀縁の眼鏡を中指で冷ややかに押し上げ、氷のような視線を会長に突き刺した。
三人の若き職人たちから放たれる異常なプレッシャーに、他の店主たちは思わず息を呑み、気まずそうに視線を泳がせた。
しかし、唯一の例外である情報通の会長だけは、その殺気に全く気づいていなかった。
「そうなんだよ! 相手は立派な家柄でな、穂波ちゃんみたいなしっかりしたお嬢さんを奥さんに迎えたいって言っててね。ほら、これが写真だ」
会長は意気揚々とスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出し、机の上を滑らせて穂波の前に突き出した。
「あ、あの……会長さん。私、今はその……」
突然のことに戸惑う穂波をよそに、会長は「まあまあ、一度会ってみるだけでもいいから!」と強引に話をまとめ、機嫌良く会議を締めくくってしまった。
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会議が終わった後の、千蔵屋製粉所の奥にある居間。
やかんがちんちんと音を立てる中、穂波はこたつに入り、テーブルの上に置かれた一枚のお見合い写真を前にして、深いため息をついていた。
写真には、仕立ての良いスーツを着た、いかにも育ちが良さそうな青年が少し気取った笑顔で写っている。
「どうしよう……。今は、あの黄金雪の復活に向けて、やることが山積みなのに」
十一月に入り、先月蒔いた幻の小麦の種は順調に育ち始めている。これから冬を越すための繊細な土壌管理や、来年の製粉に向けた設備の調整など、穂波の頭の中は小麦のことでいっぱいだった。仕事に全身全霊を注ぎたい彼女にとって、見知らぬ男性との結婚など考える余裕はない。
「きっちりとお断りしなきゃ。でも、どうやって断れば角が立たないかな」
真面目で職人気質な穂波は、小麦粉の配合の計算よりも難しい人間関係の悩みに頭を抱えていた。
「穂波ん、入るよ」
ガラリと引き戸が開く音と共に、湊が顔を出した。その後ろからは、凱と涼真も巨体を屈めるようにして居間へと入ってくる。三人はそれぞれの店で仕込みの準備があるはずの時間帯だが、居ても立ってもいられずに結託して押しかけてきたのだ。
「みんな……どうしたの?」
「どうしたじゃないよ。さっきの話、本当にあんなお見合い受けるつもりじゃないだろうね?」
湊が長机の前に座り、心配そうにタレ目を伏せる。大柄な彼がこたつに入ると、それだけで居間が窮屈に感じられた。
「おい穂波。んなすかした野郎の写真なんて、今すぐ捨てちまえ。お前にはこんな奴、必要ねぇだろ」
凱が写真を見るなり忌々しそうに舌打ちをし、黒いTシャツから覗くたくましい腕を組んで凄んだ。
「凱の言う通りだ。君のような絶対的な感覚を持つブレンダーが、こんな凡庸な男に時間を割くなど料理界の損失だよ」
涼真が冷徹な声で同調し、壁際に寄りかかって腕を組む。
三人の剣幕に、穂波は慌てて手を振った。
「もちろん、受けるつもりなんてないわ! 今は仕事を一番に頑張りたいし、黄金雪を最高の粉にするのが私の夢だもの」
穂波が力強く宣言すると、三人の男たちはあからさまにホッと胸を撫で下ろした。
「そうか、よかった……」
湊が安堵の息を漏らす。
しかし、穂波は再び眉を下げて写真を見つめた。
「でも、会長さん、すごく乗り気だったから、私が直接断ったら気分を害されちゃうかもしれないし……角が立たない言い訳を考えなきゃ」
その言葉を聞いた瞬間、三人の男たちの間で、目に見えない強烈な火花が散り、そして即座に強固な一つの意志へと結合した。
彼らは幼馴染として、外部からの「本気の脅威」が現れたこの瞬間、阿吽の呼吸で完全なる同盟を結んだのだ。
「穂波ん。君は黄金雪のことだけを考えていればいい。そのお見合いの件は、僕たちに任せてくれないか」
湊が、包容力のある極上のオカンスマイルを浮かべて提案する。
「そうさ。幼馴染のお前が困ってんだ。俺たちが会長のジジイにガツンと言って、きっちり話を終わらせてきてやるよ」
凱がヤンチャな笑みを浮かべ、胸の筋肉を軽く叩いた。
「私たちに任せ給え。論理的に、かつ完璧にこの話を消滅させてみせよう」
涼真が眼鏡の奥の目を怪しく光らせ、艶のある声で囁く。
三人のあまりにも心強い申し出に、恋愛に対して鈍感な穂波は、彼らの嫉妬と独占欲に全く気づくことなく、パァッと顔を輝かせた。
「本当!? みんな、ありがとう……! 私、こういうの本当に苦手だから、助かるわ。本当にいい幼馴染の親友を持って、私は幸せ者ね!」
彼女が無邪気に笑いかけると、三人は「幼馴染」という言葉に一瞬だけ苦虫を噛み潰したような顔をしたが、すぐに優しく微笑み返した。
「ああ。君のためなら、なんだってするさ」




