第12話 芽吹き
数時間後。キッチンをひっちゃかめっちゃかにした末に、彼らはなんとか鍋でお湯を沸かし、その合作を茹で上げた。
ザルに上げられたそれは、麺とは到底呼べない代物だった。太さはバラバラで、途中で無惨にちぎれ、まるで不格好な『ちぎれ雲』のような物体がそこにあった。
「……なんだこれ」
凱が呆然と呟く。
「僕のせいだ……力加減が分からなくて」
湊が悔しそうに肩を落とす。
「理論上は完璧なはずだったんだが……計算外の事態だ」
涼真が顔をしかめる。
三人は恐る恐る、そのちぎれ雲麺を一本ずつ口に運んだ。
「……マズっ!」
「硬いし、なんか粉っぽい……」
「これは……失敗作だな。味も食感も最悪だ」
顔を見合わせ、彼らは絶望的な気分になった。こんなに不味いものを、泣いている穂波に食べさせるわけにはいかない。
だが、その時だった。キッチンの入り口に、幼い穂波が立っていることに気づいた。騒ぎを聞きつけてやってきた彼女の目は、赤く腫れ上がったままだった。
「……みんな、お顔真っ白。なにしてるの?」
三人は慌てて失敗作を後ろに隠そうとしたが、遅かった。穂波の視線は、ザルに盛られた不格好な麺に釘付けになっていた。
「食べちゃ駄目だ、穂波! それ、すっげえマズイから!」
凱が慌ててザルを背後に隠そうとする。「そうだよ、お腹壊しちゃうかもしれない!」湊も泣きそうな顔で両手を広げて立ち塞がる。「君の味覚に悪影響を及ぼす。直ちに廃棄処分すべきだ」涼真が真顔で理路整然と止める。
しかし、穂波の足は止まらなかった。彼女の視界には、不格好な麺だけでなく、三人の姿がはっきりと映っていたからだ。
顔中を真っ白な粉だらけにしている湊。靴だけでなく服まで泥だらけにしている凱。普段は絶対に汚れることを嫌うのに、髪に粉をつけて必死な顔をしている涼真。そして、粉と泥でひっちゃかめっちゃかになり、大惨事となっている千蔵屋のキッチン。
大好きな小麦が食べられなくて絶望していた自分のために、彼らがどれほど必死になってくれたか。幼い穂波にも、その不器用で泥臭い優しさは痛いほどに伝わってきた。
穂波は凱の脇をすり抜け、小さな手でその『ちぎれ雲』のような物体を一つ摘み取ると、躊躇うことなく口に入れた。
硬くて、粉っぽくて、栗の強烈な渋みがあり、到底麺とは呼べない味だった。三人の少年が顔をしかめたのも当然の出来栄えだ。
だけど、穂波の目からは大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、赤く腫れ上がった顔に久しぶりの満面の笑みが咲いた。
「……美味しいっ。すっごく、美味しいよ!」
少年たちは目を見張った。あんなに不味いものを食べて、こんなに嬉しそうに笑うなんて。
味ではなく、自分たちの想いを受け取って笑ってくれたのだと悟った瞬間、三人の胸の奥に強烈な雷が落ちた。
もし、俺たちが本当に美味いものを作って食べさせたら、こいつはどれだけ幸せな顔をするんだろうか。ただの幼馴染としてではなく、昔から泥臭く穂波を愛し、彼女の笑顔のために必死になれる「同志」としての絆が結ばれた瞬間だった。
『俺の料理で、絶対にこいつを世界一笑顔にしてやる』
三人の少年たちは、その日、料理人としての絶対的な原点を心に刻み込んだのだった。
それから数年の月日が流れた。
穂波の努力と成長と共に、奇跡が訪れた。医師から「小麦アレルギーを完全に克服した」と診断された日の夜。千蔵屋の食卓には、見違えるように腕を上げた三人の少年たちが打った、本物の麺が並べられた。
湊が丁寧に踏み込んだ、優しく透き通るようなうどん。凱が熱を込めて湯切りした、力強いラーメン。涼真が完璧なアルデンテに仕上げた、艶やかなパスタ。
「さあ、食えよ穂波!」
「たくさん食べてね」
「君の全快を歓迎するよ」
久しぶりにすする、本物の小麦の麺。その圧倒的な香りと旨味に、穂波はあの日のちぎれ雲麺の時と同じ、いやそれ以上の満面の笑みを浮かべた。
「美味しいっ……! みんなが作ってくれたお粉の麺、最高に美味しい!」
初めて三人の作った麺を食べて「美味しい」と笑い合った日の、温かい記憶。それは、今の穂波を形作る何よりも大切な宝物だった。
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「……っ」
頬を撫でる冷たい風にはっと目を覚まし、穂波は意識を現在へと引き戻された。
目の前には、綺麗に耕された絵神原町郊外の畑が広がっている。
「いけない、手が止まっちゃってた。早く種まきを終わらせなきゃ」
慌てて手元の土に視線を落とした穂波は、ふと動きを止めた。
「え……?」
彼女が数日前に試験的に蒔いた、少し離れた畝の土。そこから、わずか数ミリほどの、本当に小さな黄緑色の双葉が顔を出していたのだ。
「嘘……芽が、出てる……!」
絶滅したはずの幻の小麦、「黄金雪」が、数十年という長い休眠を越えて、無事に小さな双葉を出した瞬間だった。
穂波は震える膝をつき、愛おしそうにその小さな双葉に顔を近づけた。
ふわりと、若葉特有の青い匂いが鼻腔をくすぐる。
その匂いを嗅いだ瞬間、穂波の脳裏に、さらなる古い記憶が鮮明にフラッシュバックした。
それは、アレルギーを発症する直前。祖父の弦蔵が見せてくれた、あの美しく輝く小麦粉の匂い。息ができなくなるほどの恐怖を味わう直前に嗅いだ、甘く、深く、どこまでも野性的な『幸せな麦の香り』だった。
トラウマとともに長く封印されていたその香りの記憶が、今、小さな双葉の命の匂いによって、温かい感動へと上書きされていく。
「あぁ……」
穂波の瞳から、大粒の涙が土へとこぼれ落ちた。
一人でこの無謀な挑戦をしているわけではない。不格好なちぎれ雲麺を作ってくれたあの日からずっと、自分の笑顔のために必死になってくれる三人の友たちがいる。彼らという最強の同志がいるからこそ、この気難しい黄金雪は目を覚ましてくれたのだ。
「待っててね、みんな。私が絶対に、世界一の粉にしてみせるから」
夕日に照らされて黄金色に輝き始めた畑の真ん中で、穂波は小さな双葉に向かって、誰よりも強く、優しい決意を誓ったのだった。




