第152話:春の終わり
国家イノベーション機構のコントロールルームを出て階段を降りた俺は、量子コンピュータのフロアに足を踏み入れた。ふらつきを感じながらも、できるだけ足早に進む。目にしたのは、天井付近で壊れた配管から漏れる液体窒素の白い靄と、その中をランダムに飛び回る1機のドローン。まるで外に出ようと必死にもがく昆虫のように見えた。
そして、視線を下げた瞬間、俺は思わず呼吸を止めた。そこには仰向けに倒れている人影があった。
「澪!」
俺は声を張り上げ、全力で駆け寄った。澪の体は微動だにせず、静かに横たわっている。俺は恐る恐る澪の脈を確認する弱々しいが、確かに脈があり、かすかな呼吸も見て取れる。
「澪、しっかりしろ!澪!」
何度も名前を呼び続けると、ようやく澪のまぶたが揺れ動いた。
「...樹?」
微かな声で澪が目を開いた。困惑した表情で周囲を見回す澪の目は、焦点が定まりきっていない。
「私、どうなったの? ドローンは?」
澪が起き上がろうとするが、俺はその肩に手を置いて静かに押さえる。
「ゆっくり。頭を打ってるかもしれない」
「そうね」
澪は再び横になり、目を閉じながら言葉を続けた。
「ドローンが目の前にいて...そのあと振動が大きくなって、台座から落ちたのは覚えてる。頭を打ったのかな」
俺は澪の頭を慎重に確認した。外傷は見当たらない。
「撃たれてないのよね、不思議」
澪がうつろな目でゆっくりと呟く。
「超知能AIが崩壊したのが早かったのかもしれない」
俺がそう言うと、澪は突然我に返ったように目を見開いた。
「超知能AI! どうなったの? 作戦は?」
俺は澪を安心させようと、ゆっくり、大きく頷いた。
「成功した。超知能AIは完全に消去されたよ」
「よかった!」
澪は微笑んだが、俺の浮かない様子に気づいたのか、表情が曇る。
「どうかしたの?」
「いや...またゆっくり話す」
「そう...わかった」
澪はそう言うと、ゆっくりと体を起こした。
「大丈夫? 立てそう?」
俺が手を貸すと、澪はよろよろと立ち上がる。しかし一歩踏み出そうとして、バランスを崩した。俺はすかさず肩を貸したが、俺自身もふらつきを感じる。
「大丈夫?」
澪が心配そうに俺を見上げた。
「いや、俺もちょっと普通じゃない」
「どっちが肩を貸してるか分からないわね」
かすかに笑う澪。それでも二人は一歩ずつ前に進む。しかし突然、澪が足を止め、叫んだ。
「ビジェイ!」
「どうかしたのか?」
「蚊取り線香が電池切れを起こした後、ビジェイがどうなったか分からない。急いで行かないと!」
澪の表情がこわばる。
「急いでも仕方がないから。ゆっくり!」
俺は澪の肩をしっかり支え、ペースを落とさせながら、機材搬入口へと向かった。外に出ると、春の風が二人の頬を撫でる。澪は息を殺し、恐る恐る建物の角を曲がった。
視界に入ってきたのは二人の人影。地面に倒れている大村と、その横に座り込んで...手を振っているビジェイの姿だった!
「大丈夫?どうして?蚊取り線香は?」
ビジェイに歩み寄ると、安堵と驚きが混じった声で、澪は矢継ぎ早に質問した。
ビジェイは得意げに、複雑に配線でつながれたNSP銃を見せた。
「持つべきものはケーブルだね。NSP銃、大容量モバイルバッテリーとしても使えるよ」
彼はいつもの調子で笑った。
「足、大丈夫?」
破った衣服で止血された右足を見て俺が尋ねると、ビジェイは軽く頷いた。
「メッチャ痛いけど、もう痺れてわかんなくなってるよ」
その声には力強さが感じられ、命の危険はなさそうだった。俺は安心して、ビジェイの横に倒れている大村に目をやった。
大村は奇妙な状態だった。上半身裸で、着衣で右手と左足、左手と右足が背中の真ん中で拘束されている。
「...これ...何?」
「ああ、この人が目を覚ますと怖いから。ボーイスカウトで習わなかった?群馬縛り」
俺は呆れ返りながらも、ビジェイの機転に感心した。そして突然、あることを思い出す。
「そうだ、ユヅはどうした」
俺は慌てて結月に連絡を取ろうとしたが、電話に出ない。何度かけても応答がない。
「出ないの?」
澪の声が心配そうに響く。俺は誰か頼れる人がいないか考え、ようやく一人の名前が浮かんだ。
「中川さん、実は頼みがあるんだ。あるシェルターに女子高生が一人取り残されている。彼女の様子を見に行ってくれないかな」
「分かりました。先輩の頼みなら、お安い御用です」
中川莉子の元気な声が返ってくる。
ようやく俺は一息つく。ビジェイと澪の間に座り込むと、立ち上がれなくなった。それからのことは、よく覚えていない。ただ、空を眺めていた。遠くに、自衛隊のヘリコプターが見えた。
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あれから3日が経過した。
退院許可が最も早かったのは俺だった。超知能AIに一時的に意識を支配されていたが、検査の結果、脳波などに問題はなく、体力も回復してきていた。
最初に向かったのは同じ病院の澪の病室だった。澪は転落時に頭を強く打ったことによる脳震盪のため、経過観察中だった。しかし意識ははっきりしており、医師によれば一週間程度で退院できる見込みだという。
俺は静かに澪の病室に入り、ベッドの横に座った。そして、コントロールルームでの出来事、超知能AIの消滅、そしてリンとの最後の会話について、すべてを打ち明けた。
澪は黙って俺の話を聞き、そっと俺を抱きしめた。
次に向かったのはビジェイの病室だった。彼は右足首を骨折し、靱帯も損傷していて、全治6ヶ月の診断が下っていた。それでも、病室のベッドで松葉杖の代わりとなる歩行補助装置を操作しながら、相変わらずの楽天的な笑顔を見せていた。
そして最後に、結月の病室を訪れた。彼女は点滴を受けながら、不機嫌そうにベッドに横たわっていた。中川莉子によれば、彼女がシェルターに到着した時、結月は机にうつ伏せになって意識を失っていたという。蚊取り線香や逆振動装置の開発で、心身ともに疲労困憊していたようだ。
「ユヅ、ごめん。でも、本当にありがとう。ユヅのおかげだよ」
結月はふくれっ面で俺を見た。
「本当にそうだよ!」
「兄者、4月21日の午後1時からの30分間に何があったか教えてあげようか?」
ちょうど、超知能AIが崩壊した時間帯だ。
「何があったんだ?」
俺が尋ねると、結月は興奮気味に話し始めた。
「国家イノベーション機構から、核管理ネットワーク、それから、ありとあらゆるインフラに向けて、攻撃信号が出たんだよ。無茶苦茶だよ」
俺は焦った。俺がシステムの消去を渋っていたことが、世界の危機に繋がっていたのだ。
「それで、どうしたんだ?」
「とにかく国家イノベーション機構に一番近い通信ノードをサイバー攻撃で落とした。で、別のルートが使われ始めたら次はそこ。それを延々と繰り返したんだ。死ぬかと思ったよ」
「よくやった」
俺は思わず結月の頭を撫でた。
「セクハラはやめろよ」
そう言いながらも、結月は嫌がる素振りを見せなかった。
俺は改めて考えた。結月が超知能AIからの攻撃指令を阻止してくれなければ、この世界はどうなっていたか分からない。それを思えば、世界を救った最大の功績者は結月だったのかもしれない。
その後、俺は御厨博士の健康管理室を訪ね、リンについて長く語り合った。博士からは黒川の容態も聞いた。彼は昏睡状態にあるという。超知能AIに長く意識を支配されていたため、自分を取り戻せていないのだ。
西村さんは別の病院に入院していたが、徐々に回復に向かっているという知らせを受けた。電話越しの声には、すでに本にまとめる構想が語られていた。
そして斎藤さんは、今回の超知能AIの覚醒とその後の危機についての調査委員会を立ち上げるべく、政府内で奔走していた。御厨博士を座長に据え、超知能AIを規制する国内法案、さらには国際協調の枠組みづくりにも着手しようとしていた。
「超知能AIは21世紀の核兵器になりうる」
斎藤さんのその言葉は、深い重みを持って俺の心に響いた。
俺は病院の窓から晩春の空を見上げながら、これからの世界について思いを巡らせた。一旦、超知能AIの脅威は去った。しかし人類は、その存在を知ってしまった。これから先、同じ過ちを繰り返さないために、いま何をすべきか。
いつの間にか桜の花びらは散り、薄緑の葉桜が病院の庭の周りを彩っている。振り返れば、ライフコードの公開から今までの間にあったすべての出来事が、本当にあったことなのか確信がなくなる。それぐらい非現実的で、息もつけないような日々だった。
しかし、俺はもう現実と仮想の曖昧な境界線に迷うことはない。出会った人々との繋がりを感じながら、今、俺はこの世界を確かに生きている。




