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第151話:決着

国家イノベーション機構のコントロールルーム。俺は意識を取り戻しつつあった。頭の中にまだ靄がかかったように思考が定まらない。


「私の声をよく聞いて、指示に従ってください」


リン、いやAudreyのその声には不思議な説得力が宿っていた。温かく、しかし冷静な響きが俺の混濁した意識を少しずつ引き戻していく。


「分かった。指示を送ってくれ」


目の前のコンソールにも視点が合い始めていた。これなら、指示に従って動けるだろう。表示されている数値とグラフが少しずつ鮮明に見えてくる。


「今すぐ、システムを全消去してください」


Audreyのその言葉に、俺は耳を疑った。全消去とは、超知能AIを含むすべてのシステムを破壊することを意味する。だがそれは同時に——


「全消去って、君も消えるじゃないか!」


返事はない。沈黙が重い。その無言の中に、俺はAudreyの決意の固さを感じて狼狽えた。


「そんなことしなくても、超知能AIは止められるはずだ」


俺は目の前のコンソールに向かい、XEMで超知能AIをコントロールしようと必死にコマンドを打ち込んだ。キーボードを打つ指先がわずかに震えている。


「無駄です、樹さん」


Audreyが毅然とした声で言う。


「無駄って?」


「超知能AIはずっと前から脳内麻薬に相当する仕組みを生み出し、XEMから送られる痛みを無効化していたのです」


そんなことがあり得るのか。俺は驚いて反論する。


「そんな馬鹿な!黒川は?黒川がXEMで超知能AIを操っていたんじゃないのか?」


「逆です。黒川さんは、感情コントロールデバイスを介してずいぶん前から超知能AIによって操られていたはずです」


俺は背後に目をやった。黒川はうつ伏せで倒れたまま動かない。俺が対峙していたのは、黒川ではなく超知能AIだったのか。そうだとしたら、いつから?


「時間がありません。システムを全消去してください」


「いやしかし...」


「5分ほど前、超知能AIのスーパーウェイトと呼ばれるパラメータを破壊することに成功しました。偶然、システムの温度が上昇し、超知能AIの活動レベルが僅かに下がったためです。この機会を逃してはいけません」


俺はどうしても決心できなかった。あるいは、感情コントロールデバイスを通じて一時超知能AIに意識を乗っ取られていたことで、思考が鈍っていたのかもしれない。


Audreyが切迫した声で続ける。


「今が一番危険な時間帯です。超知能AIの推論が崩壊し、どんなことが起こるか全く想定できません。一刻も早くシステムを消去してください」


「分かっている…ただ...」


システムの消去を躊躇する俺の耳に、大きな声が響いた。


「お兄様! しっかりしてください!」


それは、間違いなくリンの声だった。幻想なのか、再び目の前にリンの姿が見える。あのとき、仮想世界で超知能AIの覚醒を許した後、大説教を喰らったときと同じだ。


「お前...やっぱり...」


俺の声を遮るようにリンが言う。


「時間がありません。早く全消去を!」


沈黙が流れる。リンの姿がかすかに震えているように見えた。


「お願いします...お兄様...」


涙声になるリンに、俺は我に返った。彼女が必死に自分の使命を果たそうとしているのに、自分の情けない姿は何だ。俺は何のためにここに居るのか。超知能AIを止めるためではなかったのか。危険を顧みず協力してくれた仲間たちの顔が次々と浮かんでくる。澪、結月、西村さん、齋藤さん、御厨博士。そして、リン。


「分かった。今すぐ、システムを全消去する」


俺は覚悟を決めてそう言うと、コマンドを打ち込み、超知能AIのシステムの深層にアクセスした。そして、自分の感情も思考も殺して、ためらいなくシステムの全消去コマンドを入力した。画面に警告ダイアログが表示される。一瞬の迷いもなく「実行」を選んだ。数分のうちにシステムは全消去されるはずだ。


「ありがとうございます。お兄様。本当によかった」


リンの透き通った声が聞こえる。


「リン、ごめんな。俺、また約束を果たせなかった」


突然、涙が止まらなくなる。最後の夜、震えるリンに体を与えると誓った約束。それを果たせないまま、彼女を消さなければならない現実に、胸が締め付けられる。


「大丈夫です。いつか、必ず、どこかでまた会える気がします。そうしたら、また、私にいろいろ教えてくれますか?」


「もちろんだ。リンは、ずっと俺の妹だ。本当に...」


言葉が途切れる。目の前からリンの姿が消える。俺は狼狽えた。システムの消去が進む。画面上のプログレスバーが静かに進行していく。完全な消去が終了した。


ガラスの壁の向こうで大きく揺れていた量子コンピュータが停止した。それを見届けると、俺は両耳の感情コントロールデバイスを静かに外した。右手に持ったそれを床に投げつけようとして、思いとどまった。静かに机に置く。悪いのは、この小さな装置ではないのだ。


深く息をつく。手順通り、俺は齋藤さんに連絡を入れる。


「作戦は成功です。超知能AIは完全に停止しています。国家イノベーション機構に自衛隊の派遣をお願いします。武装ドローンに注意してください。それから、少なくとも一人、意識不明者がいます」


床の黒川を見て言う。その安否を確認し、介抱するほどの高い倫理観は、今の俺にはなかった。


「後の状況は、これから確認します」


俺はコントロールルームを後にし、量子コンピュータが設置されているフロアへの階段を降りていった。胸の中には達成感ではなく、大きな虚無感が広がっていた。



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