第三ノ陸話 「白祇祭り:再横断」
翌朝、5時に目が覚めた。
昨日と同じ時間。
けれど、今日は、緊張ではなかった。
ただ、目が覚めた。
京の三日目の朝。
窓を開けると、雨の匂いがした。
夜のうちに、ひと雨きたらしい。
地面が、まだ湿っていた。空は、薄い灰色だった。
京の7月の朝。
湿気が、東都とは違う。
山に囲まれた盆地の湿気だった。
六時に、佐伯さんが部屋のドアをノックした。
「起きてるか」
「起きてます」
朝食は、軽めだった。
お粥と、漬物と、煮物。
ちかさんが、出発前にお腹に重いものを食べさせないように考えてくれていた。
朝食を終えると、ちかさんが、玄関まで送りに来た。
「お気をつけて、お帰りください」
「ありがとうございました」
「また、お越しください」
「機会があれば」
ちかさんは、藍色の着物の裾を、軽くつまんで、頭を下げた。
佐伯さんと、いつもの挨拶を交わした。長い付き合いの友人同士のような、短いやりとり。
「佐伯さん、また、ね」
「あいよ、じゃ、また、ちかさん」
佐伯さんが、それだけ言って、宿を出た。
俺も続いた。
京の通行所にはタクシーを使っていった。
窓の外で流れていく京の景色は一昨日の来たときは違って見えた。
通行所について、息を吸った。
京の空気は、覚えると、忘れない——
佐伯さんの言葉が、わかった気がした。
一度覚えたら、忘れない。
次に来たときも、すぐに「京だ」とわかる。そういう空気だ。
通行所での手続きは、東日帝側と同じだった。
手荷物チェック、健康診断、装備チェック、最終受付、待合室。
昨日来た道を、逆向きに辿るような感覚。
健康診断のとき、医師が「過去の裏体験を思い出していますか」の項目を見て、軽く頷いた。「はい」にチェックを入れていた。
「強く、ではないですよね」
「いえ、強くは」
「では、大丈夫です。お気をつけて」
医師は、それだけ言って、紙にサインをした。
9時、予定通りゲートが開いた。
俺たちは、扉の向こうへ、足を踏み出した。
廊下が、続いていた。
昨日の景色と、同じだった——
いや、違った。
昨日と、似ているけれど、同じではない廊下。
白い壁、白い天井、リノリウムの床、蛍光灯。
けれど、廊下の幅が、わずかに違うように見えた。気のせいかもしれなかった。
「トモさん」
「ん」
「昨日と、同じですよね、これ」
「違う」
「え、違う」
「毎回、違う」
トモさんは、それだけ言って、前を歩いた。
俺は、振り返らなかった。
入ってきた扉は、もう、後ろになかった、たぶん。
帰路の分断帯越えは、行きと比べて、比較的、静かに進んだ。
駐車場、階段、廊下、教室、駅、雑木林、白い空間——昨日と似たような景観が、順番は違うかたちで、続いた。
昨日と完全に同じ場所は、一つもなかった。
でも、似たような場所は、ほとんどだった。
一昨日見た、笑顔の人形は、いなかった。
一昨日見た、無人の露店街も、なかった。
かわりに、別の、初めて見る場所がいくつかあった。
廊下の途中に、誰かの家の玄関があった。**「○○様」**と表札が出ていたが、文字が読めなかった。
文字の輪郭は見えるのに、頭に入ってこなかった。
駅のホームに、夕焼けの光が射している場所があった。
今は朝のはずなのに、その場所だけ、夕方だった。
トモさんも、そこでは、足を少し速めた。
雑木林の中に、空のベンチがあった。
誰も座っていなかった。
けれど、ベンチの上に、誰かが食べかけたお弁当の包みが、置かれていた。
包みは、まだ温かそうだった。
トモさんが「見るな」と短く言った。見なかった。
それらは、全部、不気味なほど、誰もいなかった。
けれど、緊張感は、行きの分断帯ほどではなかった。
成れ果てに会うようなことは、なかった。
検知器の数字は、最大で1.3まで上がって、そのあと、ゆっくりと下がっていった。行きより、控えめな日らしかった。
歩きながら、神野さんの言葉を、思い出していた。
「お見送りに、ギオン様も、何かをくださると思いますよ」
何か——というのは、何だろうか。
お土産か、お守りか、それとも、目に見えないもの。
考えても、わからなかった。
ただ、歩いた。
途中、検知器が、一瞬だけ、赤くなった。
ほんの、半秒くらい。すぐに緑に戻った。数字も、1.0から0.9に下がった。何も起きなかった。
ただ、その一瞬を、見た。
「トモさん」
「ああ、見た」
「いまの」
「わからん。たまにある」
「たまに」
「あるんだ、こういうの」
トモさんは、それだけ言って、また前を歩いた。
俺は、検知器を、もう一度、確かめた。
緑。
0.8。
何も、おかしくなかった。
ただ、さっきの一瞬の赤を、見た。
それだけ、ノートに書きとめておいた。
夕方、15時頃。
最後の廊下を、歩いていた。
白くて新しい廊下。
東日帝側の最初の廊下と、ほぼ同じ景色。
廊下の突き当たりに、扉が見えてきた。
入ってきたときの扉と、同じくらいの大きさの、金属の扉。
扉の手前に、係員が立っていた。
白いシャツに、紺色のベスト。東日帝側の係員と、同じ制服。
「お疲れさまでした」
係員が、軽く頭を下げた。
「024様、025様、確認いたしました。ゲートにお進みください」
扉が、ゆっくりと、開いた。
「改めて、024 佐伯智則様、025 三輪聡様。ご無事のご到着、確認しました」
俺の本名が、また、はっきりと読み上げられた。
ああ、こっちでは、もう、本名を呼んでいいんだな。
外に行きに見た山の景色が、見えた。
夏の夕方の、甲州町。
蝉が鳴いていた。
京の蝉とは、たぶん、違う種類だった。
鳴き方も、たしかに違った。
もう、気のせいだ、とは言わなかった。
違うものは、違う。そうゆうものだ。
東日帝側の通行所での手続きを終え、タクシーで東都に戻ったのは、夕方の17時頃だった。
佐伯さんが、別れ際に、軽く手を上げた。
「じゃ、明日」
「お疲れさまでした、トモさ——いえ、佐伯さん」
俺が、つい、トモさん、と言いかけて、慌てて、佐伯さん、と言い直した。
佐伯さんが、初めて、声を上げて笑った。
「まだ、慣れてるな、トモさん呼びに」
「慣れてしまって」
「まあ、いいじゃないか。たまにでも、呼べばいい」
「えっ」
「冗談だ。表では、佐伯さんで」
「冗談、ですか」
佐伯さんは、軽く笑って、自分のタクシーに乗っていった。
俺は、その車を、見送った。




