第三ノ伍話 「白祇祭り:京で見られた」
夕方、宿に戻った。
白祇神社を出たのは、午後7時を過ぎていた。
本祭りの始まりがちょうど見られた。
境内に篝火が焚かれ、御丑様が再び姿を現し、夜の神事が始まる——その入り口だけを、遠くから見た。
本祭りは、地元の人だけの神事だ、と一条さんが言っていた。
よそから来た者が踏み込むべきではない。
佐伯さんも、同じ判断だった。
俺たちは、参道を歩いて戻った。
日が傾いて、京の街が橙色に染まっていた。
朝、宿から神社へ歩いた道を、逆向きに辿る。
同じ道なのに、朝とはまったく違って見えた。
古い木造の家、町家、低層の家、現代的な街並み——順番に、現代へ戻っていく。
歩きながら、佐伯さんが、煙草に火をつけた。「疲れたか」
「疲れました」
「いい一日だったな」
「ええ」
「お前、いい取材したな」
「そう思いますか」
「思う。御丑様に見られて、神野さんに見抜かれて——あれは、誰でもできることじゃない」
「俺がしたんじゃなくて、向こうがしてきたんですけど」
「それでも、それを受け止めて、ノートに書いた。それは、お前がしたことだ」
佐伯さんは、それを軽く言って、煙を吐いた。
緑風荘に戻ると、ちかさんが、玄関で待っていた。「おかえりなさいませ」
「ただいまもどりました」
「お祭り、いかがでしたか」
「素晴らしかったです」
「ようござりました」
ちかさんは、にこにこと笑った。
今日は朝より、少し疲れて見えた。
たぶん、祭りの日は宿も忙しい。
地元の人が、夕方からどこかに出かけて、夜に戻ってくる。
そういう日だ。
夕飯は、昨日と同じ食堂で食べた。
今夜の献立は、昨日より、少し豪華だった。
鱧の梅肉添え、賀茂茄子の煮浸し、白米、味噌汁、京漬物。京の夏の料理。
たぶん、祭りの日だから、ちかさんが少し気を入れて作ってくれた。
「鱧、美味しいですね」
「ああ、京の夏といえば、鱧だ」
「初めて食べました」
「東都じゃあまり食わんもんな」
佐伯さんは、湯豆腐の代わりに、鱧をひとつ、ゆっくり口に運んだ。
「明日、何時の通行所だ」
「9時開門、8時受付」
「じゃ、朝6時起きでいいか」
「そうですね」
「ちかさんに、頼んでおこう。朝飯、軽めで」
夕食のあと、俺は、自分の部屋に戻った。
今夜も、ちかさんが布団を敷いていた。
枕元の照明、京の地図、明日の天気予報。昨日と、ほとんど同じ。
布団の上に座って、ノートを開いた。
今日、書きとめたこと——
一条さんの話、御丑様の練り歩き、神野さんの取材。
すべて、ページが埋まっていた。
書きとめなかったこと——
神野さんが最後に言った「ギオン様も、何かをくださると思いますよ」。それと、御丑様が三輪を見たこと。
書くか、書かないか。
記事にするか、しないか。
ノートの最後のページを開いて、しばらく、考えた。
最後の判断は、いつも迷う。
何を書いて、何を書かないか。
記者の仕事は、見たものを伝えることだが、伝えるべきでないものもある。 結局、最後に一行、書いた。
京で、見られた。
それだけ書いて、ノートを閉じた。
書くか、書かないかは、東都に戻ってから、部長と相談する。
それでいい。
窓を開けると、京の夜の音が、聞こえた。
遠くで、太鼓の音がしていた。
本祭りの太鼓だ。
低く、ゆっくりと、夜の街を渡ってくる。
白祇神社のあたりから、聞こえているのだろう。
その音を聞きながら、布団に横になった。
今夜の京の夜は、昨日より、すこし賑やかだった。
祭りの日の夜。地元の人々の静かな祝祭。
眠るまでに、少し、時間がかかった。




