第三ノ肆話 「白祇祭り:巫女」
御丑様の練り歩きは、約2時間続いた。
町の主要な通りを、ゆっくりと巡って、最後に、白祇神社の本殿に戻った。
御丑様が、本殿の前で、もう一度、一条さんに向かって、頭を下げた——ように見えた。
いや、あれは下げたのだろう。
祭りの神事は、それで、いったん終わりだった。
本祭りは、夕方からまた別の儀礼があるらしかった。
地元の人々は、徐々に、境内から散っていった。
屋台も、簡単な茶店程度で、観光地のような賑わいはなかった。
祭りは、地元の人のための祭り。
よそから来た記者は、たぶん、俺と佐伯さんだけだった。
佐伯さんが、一条さんに、取材の許可とお礼を、簡単に伝えに行った。俺は、その隣に立っていた。
「よろしければ、神野さんに、少しだけ、お話を」
俺がそう言うと、一条さんは、しばらく考えてから、頷いた。
「祝詞の後の片付けがありますので、20分ほどお待ちいただけますか」
「もちろん」
「境内の、東の隅の、休憩所——東屋のような場所がございます。そこでお待ちください。お呼びします」
休憩所は、境内の隅の、小さな東屋だった。
ベンチが2つあった。屋根は、瓦葺き。柱は、古い木で、所々が黒く焼けたような色をしていた。
何年もそこに立っているのが、見ただけでわかった。
蝉が、強く鳴いていた。
京の夕方の蝉。気のせいだ、と今日はもう、言わなかった。京の蝉は、京の蝉だった。
佐伯さんが、煙草を吸っていた。
今度は、急がずに、ゆっくりと吸っていた。
「御丑様の練り歩き、絵としてはどうだ」
「書けそうです」
「書き出し、決まったか」
「いえ、まだ。これから考えます」
「いつもどおりだな」
「いつもどおりです」
佐伯さんは、軽く笑った。
「あの、佐伯さん」
「ん」
「御丑様、見ましたよね、俺のこと」
「ああ」
「やっぱり、見てましたか」
「見てた。たぶん、お前のことを」
「俺、何かありますか」
「あるんだろう。さっき、神野さんに話を聞けば、わかるかもしれん」
佐伯さんは、それだけ言って、煙草を、もう一度、ゆっくり吸った。
しばらくして、一条さんが、神野さんを連れて、東屋に来た。
「神野さん、こちら、東のほうから来てくださった、『余白』の三輪さんと、佐伯さんです」
「神野詠子と申します。今日は、わざわざ、遠いところから」
神野さんは、軽く頭を下げた。
祭祀のときの装束のままだった。
緋色の袴の裾が、東屋の床に、わずかに広がった。
近くで見ると、神野さんの顔は、思っていたより若く見えた。
49歳と聞いていたが、肌が、白く張っていた。
目尻に、わずかな皺があった。
それ以外は、年齢を感じさせなかった。
神事を継ぐ家系の人は、こういう顔をしているのだろうか——とふと考えて、止めた。
決めつけるのはよくない。
俺たちは、ベンチに座った。
「お時間、ありがとうございます。お疲れのところを」
「いえ、お祭りのあとは、いつも、これくらいです」
「伺いたいことが、いくつかありますがよろしいでしょうか」
「ええ、何でも」
神野さんは、軽く頷いた。
「ギオン様の声、というのは、どんなふうに聞こえるんですか」
俺は、いきなり、核心の質問をした。
こういう質問は、後にすべきだ、というのは、わかっていた。けれど、神野さんの落ち着いた雰囲気が、先に聞いてもいい、と感じさせた。
神野さんは、軽く笑った。
「言葉では、ないんです」
「言葉ではない」
「何ていうか、頭の中に、伝わってくる、というか。最初は、何のことかわからない。そのうち、これは、こう言われているんだな、と、わかる」
「初めて聞いたのは、いつですか」
「16歳のときでした。今、49歳ですので、33年前になりますね」
「初めて聞いたとき、怖くなかったですか」
「怖くは、なかったです。優しい声でしたから」
神野さんは、それを、淡々と言った。「優しい声」という形容を、ためらいなく使った。
「初めて聞いたとき、何を、おっしゃっていたんですか」
「ああ、それは、覚えていないんです」
「覚えていない」
「ええ。最初のは、よく覚えていない。ただ、聞こえた、ということだけ、覚えています」
神野さんは、それを、軽く言った。
俺は、ノートに、それを書きとめた。
ギオン様の声は、聞こえる。けれど、最初に聞いたとき、何を言われたかは、覚えていない。それが、本人の証言。
「今日も、ギオン様の声を、お聞きになりましたか」
「ええ。今年も、承った、と、おっしゃってくださいました」
「承った、というのは」
「今年の御丑様を、お選びくださった、ということと、町の人々の祈りを、受け取ってくださった、ということです。」
「お受けにならないこともある、と」
「過去には、あったそうです。私の代では、ありません」
神野さんは、それを、平然と言った。
過去には、神が祭りを受け入れなかった年がある。
それは、たぶん、町にとって、深刻な意味を持っただろう。そのことを、神野さんは、淡々と語った。
神野さんとの取材は、30分ほど続いた。
巫女の役割、ギオン様の性質、町と神社の関係、神野さんの個人的な信仰について。
神野さんは、すべてを、丁寧に話してくれた。
御丑様についても、聞いた。
「御丑様は、現れる、と一条さんから伺いました」
「ええ」
「巫女さんは、御丑様を、最初に迎えるんですか」
「ええ。場所と日時は、毎年、ギオン様がお告げくださいます。そこに、私やほかの巫女が、最初に伺います」
「お一人で、ですか」
「一人で。神社の他の方は、私が御丑様をお連れしてから、お会いします」
「怖くないですか」
「怖いとは、感じません。御丑様は、ギオン様の使いですから」
御丑様の現れる場所と日時を、巫女が最初に知る。
一人で、御丑様を迎えに行く。
そして、神社に連れて帰る——人々の前に出すのは、その後。
俺は、それをノートに書きとめながら、ある重さを感じた。
これは、さらっと言っているが代々続くとても重いものだ。神に直接対面する役目を、この家系は、ずっと担ってきた。
「現れる場所は、毎年、違うんですか」
「違います。年によって、近い山の中だったり、神社の境内のすぐ脇だったり」
「現れた御丑様は、どこかから来るんですか」
「私には、それは、わかりません。気付くと、そこにいらっしゃいます」
神野さんは、それを、軽く言った。
気付くと、そこにいる。表現としては不思議だが、神野さんの言い方には、迷いがなかった。
最後に、神野さんが、俺の方を、まっすぐ見て、言った。
「三輪さんは、こちらに、初めて来られたんですよね」
「ええ、初めてです」
「分断帯、越えてこられて」
「はい」
「ご無事で、よかった」
「ありがとうございます」
神野さんは、それから、軽く首を傾げた。
「三輪さん、過去に、裏に落ちられたことが、ありますか」
俺は、少し、息を、止めた。
「なぜ、ご存知なんですか」
「わかりますよ、私には」
「裏帰り者だ、ということが」
「ええ。あなたの周りの、空気の質が、違うんです」
神野さんは、それを、軽く言った。驚いた様子は、なかった。ただ、事実を、述べていた。
「ギオン様も、たぶん、ご存知だと、思います」
「ギオン様が」
「さっき、御丑様が、あなたのことを、見たでしょう」
「……はい」
「御丑様、ふつう、特定の人を見ないんです。けれど、今日、あなたのことを、見ました」
俺は、ノートを握る手が、わずかに震えた。
書いていない。
書けない。
この話は、記事に書くべきか、わからなかった。
「お気を悪く、なさらないでください」
「いえ、悪く、はないです」
「ただ、お気をつけて、お帰りください。裏帰り者の方は、やはり領域内で、影響を受けやすい」
「ありがとうございます」
「お見送りに、ギオン様も、何かをくださると思いますよ」
神野さんは、最後に、軽く微笑んだ。
俺は、それを、書きとめなかった。
書けるかどうかは、後で考えることにした。
神野さんが去ったあと、東屋には、俺と佐伯さんだけが残った。
佐伯さんは、煙草を、ゆっくりと吸い終わった。
「驚いたか」
「驚きました」
「あの人は、ほんとに、聞こえてるんだろうな」
「そうみたいですね」
「俺も、あの人と話してると、たまに、変な感じがする。何かを、見られている感じ」
「佐伯さんも、感じるんですか」
「俺は、裏帰り者じゃないが、何回か分断帯を越えてる。たぶん、何か、付いてるんだと思う」
「何かって」
「わからん。ただ、神野さんは、それを、見てる気がする」
佐伯さんは、それだけ言った。
俺は、ノートを閉じた。
蝉が、強く鳴いていた。
京の蝉。
気のせいではなく、こちらの蝉は、東都の蝉より、わずかに低い声で鳴いている。
それは、もう、認めていい事実だった。




