第三ノ参話 「白祇祭り:御丑様」
御丑様の練り歩きは、午後5時から始まる予定だった。
一条さんとの話を終えて、社務所を出ると、境内には、もう人がたくさんいた。
地元の人が中心だった。
年配の方が多かったが、子供連れの家族もいた。
観光客らしい人は、ほとんどいなかった。「観光客はそんなに来ない」という部長の言葉が、改めて、わかった。
境内の隅で、佐伯さんが、煙草を吸っていた。
境内の中で煙草を吸ってよかったのか、と一瞬気になったが、佐伯さんの周りには、白い砂利の一画——たぶん喫煙が許されている場所——があった。
「取材、できたか」
「できました」
「よかった」
「佐伯さん、白祇神社、フォッサマグナ陥没のとき、被害なかったらしいですよ」
「知ってる」
「ご存知でしたか」
「前に来たとき、聞いたからな」
佐伯さんは、それだけ言った。
部長から聞いている、という可能性もあった。
部長は、自分の故郷の話を、佐伯さんには、過去のどこかで、話したことがあるのかもしれない。
俺には、初めて言った。ただ、それは、たぶん、特別なことではなく、ただ機会がなかっただけだろう。
17時、ちょうど。
社務所の奥から、太鼓の音が聞こえ始めた。
ドン、ドン、と、低く、ゆっくりとした太鼓。
祭りの始まりだ。
境内の人々が、御丑様の登場する方向に、自然と向き直った。
御丑様は、本殿の右側の、牛舎のような建物から、出てきた。
白い、本当に白い牛だった。
想像より、大きかった。というより人が上にまたがって余裕はあるほどの大きさに感じた。毛は白く、汚れひとつなかった。洗ったばかりなのかもしれない。
角は、長く、1.5mはあるように感じた。目は、黒く、澄んでいた。
本当に、見た目が牛に似ているだけで別の生物なのだろう。
御丑様の背中には、白い布が、丁寧に掛けられていた。布の上に、御幣が、4つ、四方に立てられていた。
布は、ほとんど真っ白だが、ところどころに、白い糸で、薄い文様が刺繍されていた。
遠目では、ただの白い布にしか見えなかった。
御丑様の脇に、巫女が二人、立っていた。白い装束を着ていた。
御丑様の手綱を、軽く持っていた。
御丑様は、ゆっくりと、境内の中央の、白い布の台のほうへ歩いた。
台の上に、一条さんが、立っていた。
狩衣の上に、より格式の高い、深い色の装束を、重ねていた。
祭祀の装束らしかった。
一条さんが、祝詞を上げ始めた。
祝詞は、長かった。
古い言葉で、ゆっくりと、ひとつひとつの音節を、噛みしめるように、一条さんは唱えた。
意味は、ほとんど聞き取れなかった。
ただ、音として、重なっていた。
祝詞の間、御丑様は、ずっと、一条さんの前で、静かに立っていた。
動かなかった。目を、まっすぐ向けていて、まるで聞いているようだった。
祝詞が終わると、巫女が、本殿のほうから、姿を現した。
白い衣、緋色の袴。
髪は、長く、後ろで束ねていた。
顔は、化粧というほどの化粧はしていなかったが、眉が、はっきりと整えられていた。
おそらく彼女が神野さんだろう
年齢は、50前後だろうか。目が澄んでいた。
神野さんが、御丑様の前に立った。
御丑様は、神野さんを見ていた。
神野さんは、目を閉じた。
しばらく、何も起きなかった。
境内の人々は、誰も、声を立てなかった。
祭りの太鼓も、止まっていた。
しばらくの沈黙のあと、神野さんが、目を開けた。
そして、御丑様に向かって、軽く頭を下げた。
御丑様も、頭を、わずかに、下げた。
気のせいか、もしれなかった。
けれど、隣にいた地元のお年寄りが、軽く「ああ」と声を漏らした。気のせいではなかったのかもしれない。
神野さんが、ゆっくりと、一条さんのほうを向いた。
「今年も、お受けくださいました」
神野さんが言った。
澄んだ声だった。京の言葉ではなく、標準語に近かった。
ただし、語尾の音が、京の調子だった。
「ありがとうございます」
一条さんが、応えた。
太鼓が、また鳴り始めた。
御丑様は、それから、町を練り歩いた。
境内を出て、参道を、ゆっくりと歩いた。
巫女の二人が、両脇に立っていた。
神野さんが、御丑様の前を、少しだけ先導した。
手には、白い御幣を持っていた。
町の人々が、御丑様の通る道に、並んでいた。
お年寄りが多かった。
御丑様が通る瞬間に、皆、手を合わせた。
子供たちは、興味津々で見ていた。何人かは、母親に手を引かれて、御丑様に頭を下げた。
御丑様は、その全員に、対応しているように見えた。
頭を下げる人には、御丑様も、わずかに、首を下げるような仕草。
手を合わせる人には、目を、こちらに向ける。
それが、本当にそうなのか、見る人の願望なのかは、わからなかった。
でも、町の人々の顔は、皆、満足げだった。
俺は、ノートを取りながら、何度か、自分の手のひらで、メモを止めた。
手を合わせるべきか、と気持ちが揺れて、止めた。
取材中だからだ、と自分に言い聞かせた。
取材中は、手を合わせない。それが、記者の姿勢だった。
ただ、御丑様が、俺の前を、通り過ぎた瞬間——
御丑様は、ちらりと、俺のほうを見た。
たぶん、見た。
俺は、ノートを下ろした。
手を合わせた。
取材中だが、合わせた。
御丑様は、それから、また、前を向いて、歩いていった。
佐伯さんが、隣で、軽く笑った。
「お前、合わせたな」
「合わせました」
「合わせていい」
「取材中なのに」
「取材中だろうが、合わせるべきときは、合わせる。御丑様はそうゆう存在だ。敬意を欠いていかん。」
佐伯さんは、それだけ言った。俺は、ノートに「御丑様に頭を下げた」と書きつけた。




