こっちにおいで
少し警戒を解いた彼に、来縁はほっと胸を撫で下ろした。
改めて来縁は自分の名を名乗り、名前を尋ねる。
少しでもいいから知りたい。そんな一心だった。
「……奏だ」
少し戸惑いながら彼─奏はそう名乗った。
来縁は心のなかで、奏……と名前を繰り返す。
やっぱり聞き覚えはないものの、どこか懐かしさを覚える。
本当はどこか出会ったことがあるのかもしれない。
覚えていないだけで。
「奏は、柊花村に住んでいるの?」
「…………まぁ…………な」
奏での視線が逸れた。何やらいいづらそうに口ごもる。
言いづらいことを聞いてしまったと、慌てて来縁は別の話題を振った。
「こ、ここはいい所だね! 空気が澄んでいて、都会とは大違い」
湿った土の匂い、風の音どれも都会ではなかなか感じられないものだ。
都会の汚れた空気ではない、冷えた空気を吸い込んで来縁は笑ってみせた。
「私、ここが好きだな」
初めてきた場所だが、居心地がいい。本当にずっと前から知っているかのようで、心休まる。
「そう、だな」
奏は少し間を開けて短く答えた。
遠くを見つめる瞳が、僅かに揺らいだ気がした。
何を考えているのだろう。
奏の気持ちを測りきれない。
けれど、とても悲しそうで、迷子みたいに見えた。
「ねぇ、ここを案内してくれない? 今来たばかりなの」
それがどうしても許せなくて、来縁は奏にそう迫った。
お願い、と両手を合わせて懇願すると奏は困ったように眉を下げた。
それでも、何かを決意したように小さく頷く。
「…………あ、あぁ」
「やった、そうと決まれば、行こう!」
「あっ、ちょっと、ひっぱると転ぶだろう!」
奏の答えをそこそこに、来縁は自分より大きな手を取った。
驚いて体勢を崩した奏だったが、すぐに持ち直して走り出した。
前を行く奏の背中を追いかけながら、森の奥へと分け入っていく。
陽の光が反射する星のような川が足元を流れる。風と踊る木漏れ日の木陰から心地よい風が吹く。
森の更に奥に、鳥の囀りが聞こえる小さな花畑が広がっていた。
どれも来縁の心をときめかせてくれる。
都会の喧騒を忘れ、ただただ自然を満喫した。
その隣で奏は、何をするでもなく隣に立っていた。
「ほら、奏もおいでよ! きれいだよ!」
気分が上がっていた来縁は、花畑に駆け出しながら手を振る。
「……待て、来縁!」
「えっ?」
手を伸ばし焦る奏の叫び声に、来縁の声は掻き消される。
「か、なで……!」
視界が暗く急に落ちてきた影が、振り返る隙も与えられなかった。




