土の記憶、ひかりの欠片
第4章:土の記憶、ひかりの欠片
鳥の声で目が覚めた。 それはスマートフォンの無機質な電子音ではなく、もっと遠く、森の深淵から響いてくるような、不規則で、それでいて確かな生命の脈動だった。
結衣は、重い布団の中でゆっくりと目を開けた。 天井を見上げると、太い木の梁が横たわっている。東京のワンルームマンションの、のっぺりとした白い壁紙ではない。幾星霜を経て黒ずんだ木の肌が、窓から差し込む薄青い朝の光に照らされていた。
「……そうだ、私、ここに来たんだ」
昨夜、泣き疲れて眠りに落ちた自分を思い出し、少しだけ顔を赤らめる。 枕元に置いたスマートフォンを確認すると、まだ午前六時を回ったばかりだった。いつもなら、あと十五分は眠れる、いやあと五分、と執着するようにまどろんでいる時間だ。けれど不思議と、体は軽かった。
ひんやりとした朝の空気に身を縮めながら、結衣は台所に向かった。 そこにはすでにリカの姿があった。 彼女は昨夜と同じ、使い古された藍色の前掛けをして、土間に置かれた小さな薪ストーブに火を起こそうとしていた。
「おはよう。早いね」 リカが顔を上げずに言った。彼女の吐き出す息が、白く宙に溶ける。
「おはよう……。何か、手伝おうか?」 「じゃあ、言った通り朝ごはんお願い。冷蔵庫にあるもの、自由に使っていいから」
結衣は袖を捲り上げ、台所に立った。 冷蔵庫の中には、新聞紙に包まれた泥付きの野菜や、近所の農家から分けてもらったという不揃いな卵、そして自家製の味噌があった。 コンビニの棚に並ぶ、栄養成分表示が完璧に記載されたプラスチック容器の食事とは、あまりにかけ離れた「食材」たち。
結衣は、無骨な大根を手に取った。 ずっしりと重く、冷たい。包丁を入れると、パキンと小気味よい音がして、瑞々しい香りが弾けた。 出汁を取り、野菜を刻み、土鍋で米を炊く。 ただそれだけのことなのに、結衣は自分が「生きるための作業」をしているという、奇妙な充実感に満たされていった。 会社での仕事は、誰かに指示され、システムを介し、最終的には画面上の数字に収束していく。けれど今、目の前にあるのは、自分の指先が触れ、形を変え、立ち上る湯気となって鼻をくすぐる、確かな現実だった。
朝食を済ませた後、リカは「仕事、見に来る?」と結衣を工房へ誘った。
工房は、朝の光が窓全体から差し込み、昨夜よりもさらに神聖な雰囲気を感じさせた。 リカはろくろの前に座り、足元でスイッチを入れる。 シュル、シュル、シュル……。規則的な回転音が、静かな空間に響き渡る。 リカの表情が一変した。鋭く、研ぎ澄まされた職人の目。 彼女が回転する土の塊に手を添えた瞬間、土が意志を持っているかのように形を変え始めた。 中心が定まり、穴が開き、壁がせり上がっていく。 リカの指先のわずかな動きが、土の厚みを決定し、器の曲線を描き出す。 結衣は、息を呑んでその様子を見つめていた。 するとリカがふと手を止め、棚の一角を指差した。
「結衣。あそこ、見て」
視線の先には、年季の入った木の棚があった。そこにはリカが作った器に混じって、小さな、場違いなほど色鮮やかな何かが置かれていた。
結衣の心臓が、トクンと跳ねた。 それは、透明なガラスの中に青いマーブル模様が入った、古びたキーホルダーだった。 「……それ」
結衣は引き寄せられるように、その棚へ歩み寄った。 表面には細かな傷がつき、金具の部分は少し錆びている。けれど、それは間違いなく、中学生の修学旅行の自由時間、結衣が土産物屋の隅で見つけ、リカに手渡したものだった。
「リカ、これ……まだ持ってたの?」
信じられない思いで、結衣はその小さな欠片を見つめた。 十五年以上も前の、子供同士の他愛ないプレゼントだ。もらった本人ですら、とっくに失くしていてもおかしくない代物。
リカはろくろを止め、泥のついた手を見つめながら、静かに語り始めた。
「覚えてる? これを渡したとき、結衣が言ってくれたこと」
結衣は記憶の糸を辿る。 あの時、リカは美術部の課題がうまくいかないと、珍しく落ち込んでいた。周りの子たちが華やかなアクセサリーやキャラクターグッズを買う中、リカだけが、何も買わずにじっと古い風景画を見つめていた。 そんな彼女の横顔を見て、結衣は何の計算もなく、その青いガラス細工を選んだのだ。
「……『これ、リカっぽいね』って、言った気がする」
「そう。たったそれだけの言葉だったけどね」 リカは立ち上がり、棚からそのキーホルダーを手に取った。泥の手で汚さないよう、前掛けの綺麗な部分で指を拭ってから、慈しむように。
「あの頃の私はね、自分が『何者でもない』ことが怖くてたまらなかった。私の描く絵も、私の選ぶ色も、誰にも届かないんじゃないかって。でも、結衣があの時、これを見て『リカっぽい』って言ってくれた。それは私にとって、『あなたの感性は、ここにあるよ』って肯定してもらったのと同じだったんだよ」
リカの言葉が、結衣の胸の奥深くにじわりと染み込んでいく。
「東京で働いていた三年前、本当に心が折れそうだった時期があったの。上司に全否定されて、自分がただの数字としてしか扱われない毎日。もう全部やめて、消えてしまいたいって夜にね……荷物を整理してたら、これが出てきたんだ」
リカはキーホルダーを光に透かした。青いマーブルが、朝日に反射してキラキラと揺れる。
「これを見て思い出したの。ああ、世界でたった一人、私の色を『リカっぽい』って肯定してくれた友達がいたなって。結衣があの時、私の可能性を信じてくれた。だったら、私自身が私の色を捨てちゃいけないって。そう思って、私はここに来る決心をしたの」
結衣は息が止まるような衝撃を受けた。 自分は「代わりのきく事務員」として、自分の価値を最低限に見積もってきた。 やりがいもない、特技もない、誰の記憶にも残らない「つまらない人間」だと思い込んでいた。 けれど、自分がかつて放った何気ない言葉が、一人の女性の絶望を繋ぎ止め、その人生を再生させるための「根っこ」になっていた。 「……嘘」
結衣の瞳から、一滴、大きな涙がこぼれ落ちた。 「私、そんな……そんなつもりじゃなかった。ただ、リカが好きそうな色だなって思っただけで……」
「それがいいんだよ、結衣」 リカは優しく微笑んだ。 「あんたのその無自覚な優しさが、どれだけ私を救ったか。SNSにこれを載せたのはね、いつか結衣が見つけてくれたらいいなって、ほんの少しだけ思ってたからなの。届いてよかった」
結衣の涙は、もう止まらなかった。 ボロボロと、大粒の涙が頬を伝い、床に小さな染みを作る。 悲しいわけではなかった。 ずっと、誰かに言ってほしかったのだ。 「あなたは、そこにいるだけで価値がある」と。 自分自身ですら見捨てていた「自分」という存在を、リカが十五年もの間、この小さな青いガラスの中に閉じ込めて、大切に守り続けてくれていた。 その事実が、結衣の凍てついていた心を、一気に溶かしていった。
「あ、あああ……っ」 子供のように声を上げて泣く結衣の肩を、リカがそっと抱き寄せた。 「……ありがとう。ありがとう、リカ……。見つけてくれて、捨てないでいてくれて……」
結衣は泣きながら、リカの藍色の前掛けに顔を埋めた。 泥の匂い、土の匂い。 それは、泥臭く、不器用でも、懸命に自分の人生を生きようとする人間の、尊い匂いだった。
ひとしきり泣いた後、結衣は赤くなった目で、もう一度棚のキーホルダーを見た。 十五年前の「光」が、今、時を超えて自分に跳ね返ってきている。 リカは、ろくろの前に戻り、再び土を練り始めた。 「ねえ、結衣。あんたは『つまらない人間』なんかじゃないよ。あんたは、誰かの絶望を希望に変えられる人なんだ。そんな人が、自分のことをつまらないなんて言っちゃダメ」
結衣は自分の胸に手を当てた。 そこには、昨日の夜まではなかった、確かな熱が宿っていた。 新しい何かを始めるのに、特別な才能なんていらない。 ただ、自分の指先が触れるものを、目の前にいる人を、大切に思うこと。 かつての自分が無意識にできていたことを、もう一度、今度は自分の意志で始めてみればいい。 窓の外、冬の陽光が工房全体を包み込む。 結衣は、まだ涙で濡れた顔で、深呼吸をした。 その呼吸は、昨日の電車の中よりもずっと深く、そして自由な味がした。 彼女の三十二歳の物語は、ようやくここから、本当の第一歩を踏み出すのだ。




