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指先から、凪を抜けて  作者: 久遠 睦


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誰かの「ふつう」を支える手

第5章:誰かの「ふつう」を支える手


 昨夜の涙が嘘のように、今朝の結衣の心はいでいた。  それは以前の、行き先のない停滞した凪ではない。嵐が過ぎ去った後の、海面が鏡のように光を反射し、次の風を待っているような、透明な静寂だった。


「……目、腫れてるかな」  洗面所の小さな鏡を覗き込む。案の定、まぶたは少し赤くなっていたが、不思議と気分は悪くない。  冷たい水で顔を洗うと、指先から伝わる水の感覚が、以前よりもずっと鮮明に感じられた。


 台所へ向かうと、リカはすでに工房に入っているようだった。  結衣は今日も、当たり前のように朝食の準備を始めた。昨日よりも手際よく、地元産の太いネギを刻み、出汁を引く。  ご飯が炊きあがるのを待つ間、結衣はふと、台所の隅に置かれた古びた棚に目をやった。


 そこには、雑多な書類や、配送伝票の束、そしていつ書いたのかわからないメモ書きが山積みになっていた。  リカの陶芸家としての腕は確かだ。けれど、生活や経営という「現実」の部分においては、驚くほど無頓着なのだと、この数日で結衣は気づいていた。


「いただきます」  工房から戻ってきたリカと、二人で食卓を囲む。  湯気の上がる味噌汁を一口飲んで、リカがふぅ、と長い息を吐いた。


「結衣が来てから、私、人間らしい生活に戻った気がするよ」 「大げさだなぁ。ただの朝ごはんでしょ」 「その『ただの』が、どれだけ難しいか。あんたは十年間、それをちゃんとやってきたんでしょ。すごいことだよ」


 リカは悪気なく言ったが、結衣の胸にその言葉が静かに響いた。  十年間、自分が当たり前にこなしてきた「朝起きて、自炊して、会社へ行く」というルーチン。それは自分にとっては何の価値もない「普通」だと思っていたけれど、場所を変え、見る人を変えれば、それは一つの立派な「能力」になるのかもしれない。


 食後、結衣は意を決して切り出した。


「ねえ、リカ。私、今日からリカの仕事、手伝ってもいいかな」 「えっ、陶芸? 結衣、筋肉痛になるよ」 「ううん、陶芸じゃなくて。……あそこの棚の書類とか、在庫の管理とか」


 結衣は台所の隅を指差した。リカは「あちゃー」という顔をして、頭を掻いた。


「……バレた? 実は、確定申告の準備もしなきゃいけないし、オンラインショップの注文も溜まってるんだよね。でも、土を触ってると、どうしても後回しにしちゃって」


「やっぱり。私、そういうの得意なんだ。十年間、ずっとやってきたことだから」


 結衣は、スーツケースから持参していた愛用の手帳とペンを取り出した。  都会での自分を支えていた数少ない道具たちが、この古い民家の中で、新たな役割を与えられようとしていた。


 午前十時。  結衣の「新しい仕事」が始まった。  リカがろくろを回す音が響く工房の片隅で、結衣は散乱した書類の整理に取り掛かった。


 まずは、領収書の仕分け。  リカは、粘土の購入費、窯の電気代、梱包資材の領収書を、一つの古い缶の中に無造作に放り込んでいた。結衣はそれを月別、項目別に素早く仕分けていく。  指先が、紙の感触を記憶している。  ホチキスの留め方、クリアファイルへの差し込み方。  体が覚えているリズムがあった。


(あ、私、これやってる時、何も考えなくていいんだ……)


 かつては苦痛だった単純作業が、今は一種の瞑想のように感じられた。  カオスだった書類の山が、結衣の手によって整然とした「秩序」へと姿を変えていく。その過程は、まるでリカが泥の塊から器を作り出す作業と、本質的には同じなのではないか。  そう思うと、胸の奥が少しだけ誇らしくなった。


「おーい、リカ。いるか?」


 昼過ぎ、玄関の方から野太い声がした。  やってきたのは、近所の茶道教室の家元だという、上品だが快活な老婦人だった。


「あら、見慣れない顔ね。お弟子さん?」 「あ、いえ。同級生なんです」  結衣は慌てて立ち上がり、丁寧に一礼した。 「……佐山結衣と申します。今、リカの仕事を手伝わせていただいています」


 その対応は、自分でも驚くほど淀みがなかった。  十年間、オフィスで培ってきた「お客様への応対」。  丁寧な言葉遣い、適切な距離感、相手を安心させる微笑み。  老婦人は「ほう」と感心したように結衣を見つめた。


「リカちゃん、いい人を捕まえたわね。彼女、腕はいいんだけど、商売っ気がなくて困っていたのよ」


 老婦人は、注文していた茶碗を受け取ると、結衣に向かってこう言った。


「あなたのような『整える手』を持つ人がそばにいると、作り手の魂はもっと自由になれるものよ。頑張ってね」


 整える手。  その言葉が、結衣の中に温かい雫となって落ちた。    自分は「何者か」になりたかった。  けれど、何者かにならなくても、誰かの傍らで、その人の世界を「整える」ことができる。  それは、決してつまらないことではない。  むしろ、この世界を円滑に回しているのは、そうした名もなき「整える手」たちなのだ。


 夕暮れ時。  工房には、整理を終えた書類たちが、綺麗なファイルに収まって並んでいた。  リカは作業の手を止め、その光景を見て目を丸くした。


「すごい……。結衣、あんた魔法使い? これ、私が三日かけても終わらなかった量だよ」 「ふふ、十年のキャリアを舐めないでよね」


 結衣は、誇らしげに胸を張った。    リカは、整えられた台帳をパラパラとめくりながら、ポツリと言った。 「ありがとう、結衣。……正直ね、最近、事務作業に追われて、土と向き合う時間が削られていくのが辛かったんだ。でも、これなら明日から、もっと作品に集中できる」


 リカの顔には、心からの安堵が浮かんでいた。    結衣は、窓の外を眺めた。  空は深い紫へと移り変わり、遠くの家々に灯りがともり始めている。    都会での自分は、システムの一部だった。  けれどここでは、自分の手が、心が、直接リカの力になっている。   (私の「普通」は、誰かの「特別」になれるんだ)    その実感こそが、結衣がずっと探し求めていた「何か」の正体だったのかもしれない。    三十二歳の冬。  結衣は、自分が持っていた武器が、決して錆びていなかったことを知った。  ただ、その使い場所を知らなかっただけなのだ。    彼女は、スマートフォンの電源を入れた。  会社からの連絡はない。  代わりに、地元の駅の時刻表を調べようとした指を、ふと止めた。   「ねえ、リカ。……私、もう数日、ここにいてもいいかな?」    リカは、最高の笑顔で頷いた。 「数日なんて言わず、飽きるまでいなよ。私のマネージャーとしてさ」    二人は、冷え込んできた空気を追い出すように、一緒に薪ストーブに火を入れた。  パチパチという火の粉の音が、心地よく響く。  結衣の新しい毎日が、本格的に動き出そうとしていた。


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