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指先から、凪を抜けて  作者: 久遠 睦


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ひび割れた言葉と、土の匂い

第3章:ひび割れた言葉と、土の匂い


 時が、止まった。


 玄関の薄暗い灯りの下、互いの視線が絡み合ったまま、秒針の音すら消え失せたような空白が訪れた。  佐山結衣の目の前に立っているのは、まぎれもなく、高校時代の同級生・リカだった。  けれど、結衣の記憶の中にある、いつも教室の隅でスケッチブックに顔を埋めていた彼女とは、決定的に何かが違っていた。


 藍色の前掛け、泥にまみれた作業着、無造作に束ねた髪からこぼれる後れ毛。そして何より、その瞳。かつては常に何かに怯えているように揺れていた瞳孔が、今は深く静かな湖面のように、まっすぐに結衣を捉えていた。


「……結衣?」


 リカの唇から、確認するように名前がこぼれた。その声は、昔よりも少し低く、それでいて芯のある響きを持っていた。


 結衣は、口を開こうとした。  ここへ来る電車の中で、何度もシミュレーションした言葉たちが、喉元までせり上がってくる。「久しぶり」「元気だった?」「SNSを見て、つい」。そんな、大人の女性として体裁を取り繕うための挨拶。


 けれど、声が出なかった。  喉がカラカラに乾いて、舌が上顎に張り付いてしまったように動かない。  あまりにも唐突な「過去」との遭遇に、現在の自分が追いついていかないのだ。


 リカの視線が、結衣の顔から、その横にある大きなスーツケースへと移動した。そしてまた、結衣の顔に戻る。  彼女の眉間に、微かな皺が寄った。それは拒絶ではなく、純粋な困惑の表れだった。


「……えっと、どうしたの? 急に」


 リカの声に、少しだけ動揺が混じる。当然だ。十年以上音信不通だった同級生が、何の前触れもなく、しかも家出同然の荷物を持って、こんな人里離れた場所に現れたのだから。


 結衣は、何か言わなければと焦れば焦るほど、呼吸が浅くなった。  心臓が肋骨の内側を激しく叩いている。  視界の端で、玄関の土間に置かれた作業靴についた泥が、乾いて白っぽくなっているのが見えた。その生々しい生活の痕跡が、結衣の「場違い感」をさらに加速させる。


(私、何やってるんだろう)


 都会のオフィスで、何食わぬ顔でキーボードを叩いていた自分が、急速に遠ざかっていく。ここにいるのは、ただの、迷子になった三十二歳の女だ。


「ごめん、なさい……」


 ようやく絞り出したのは、そんな情けない謝罪の言葉だった。  何に対して謝っているのか、自分でもわからない。突然押しかけたことか、今まで連絡もしなかったことか、それとも、勝手に彼女のSNSを見て心を乱されたことか。


 リカは、結衣のその様子を見て、ふっと肩の力を抜いたように見えた。  彼女は小さく息を吐き、それから、少しだけ口角を上げた。昔と変わらない、少しだけはにかむような笑い方だった。


「……とりあえず、入る? ここ、寒いでしょ」


 そう言って、彼女は体を横にずらし、家の中への道を空けた。  その仕草はあまりに自然で、まるで昨日も会っていた友人を招き入れるかのようだった。


「あ、うん……ありがとう」


 結衣は逃げるように、スーツケースを持ち上げて土間を跨いだ。  足を踏み入れた瞬間、鼻腔を満たしたのは、独特の匂いだった。土の湿った匂い、古木の乾いた香り、そして微かに漂う、釉薬ゆうやくのような薬品の匂い。それは、結衣がこれまで生きてきた、無臭のオフィスや人工的な芳香剤の香りがするアパートとは対極にある、生命力に満ちた「暮らし」の匂いだった。


 玄関を上がると、すぐ右手が広い板張りの部屋になっていた。  中央には大きな作業台が置かれ、作りかけの陶器が並んでいる。壁には様々な形の道具が掛けられ、棚には完成した作品たちが静かに鎮座していた。  SNSの写真で見た光景が、現実の質感を持ってそこに広がっていた。


「適当に座ってて。お茶、淹れるから」


 リカはそう言うと、部屋の奥にある台所へと姿を消した。  一人残された結衣は、借りてきた猫のように縮こまりながら、部屋の隅にある小さな丸椅子に腰を下ろした。  暖房は石油ストーブだろうか。部屋全体がじんわりと温かい。静かだ。時折、ストーブの上でやかんがチン、と鳴る音だけが響く。


 結衣は、自分の膝の上に置いた両手をじっと見つめた。  事務仕事で酷使され、少し荒れた指先。薄いベージュのネイルは、数日前に塗ったきり、先端が少し欠けていた。  この手で、自分は何を掴んできたのだろう。  請求書、受話器、満員電車のつり革。  どれも、自分の人生を形作るにはあまりに頼りないものばかりだ。


 視線を上げ、作業台の上の作りかけの茶碗を見る。  まだ焼かれる前の、灰色がかった土の塊。ろくろで挽かれたであろう指の跡が、生々しく残っている。  リカの手は、毎日この土に触れているのだ。形のないものに、自分の意志で形を与えているのだ。


(すごいな……)


 素直な感嘆が漏れた。  高校時代、美術室で一人、黙々とデッサンを続けていた彼女の姿が重なる。あの頃から、彼女は自分の世界を持っていた。周囲の雑音に惑わされず、自分の内側にあるものを表現しようとしていた。  当時はそれが少し羨ましく、同時に、少し怖くもあった。「普通」の枠からはみ出している彼女が。


「はい、どうぞ」


 いつの間にか戻ってきたリカが、お盆に二つの湯呑みを乗せて差し出した。  それは、ごつごつとした手触りの、少し歪んだ形の湯呑みだった。土の色をそのまま生かしたような、素朴な色合い。


「これ、リカが作ったの?」 「うん。失敗作だけどね。自分用」


 リカは短く答えて、結衣の向かい側の椅子に座った。  両手で湯呑みを包み込むと、じんわりとした熱が冷え切った指先から伝わってくる。


 二人の間に、再び沈黙が降りた。  今度は、最初のような凍りついた沈黙ではない。互いの存在を確かめ合うような、少しだけ柔らかな、しかし依然として緊張感を孕んだ沈黙だった。


 リカは、湯呑みの中の液体をじっと見つめている。彼女もまた、何を話すべきか測りかねているようだった。


「……あのさ」


 先に口を開いたのは、リカの方だった。


「どうしたの? 本当に。会社は?」


 彼女の声は、責めるような響きは一切なく、ただ純粋な疑問と、少しの心配を含んでいた。  結衣は、湯呑みの縁を親指でなぞった。ざらりとした土の感触が、現実感を呼び戻す。


「……休んだ。一週間、有給取って」 「ふうん。珍しいね、結衣がそんなことするなんて」


 リカは湯呑みに口をつけ、一口すする。  彼女の言う通りだ。高校時代から、結衣は「真面目」で「普通」であることが取り柄だった。無遅刻無欠席、成績は中の上、目立った反抗もしない優等生。


「自分でも、びっくりしてる」


 結衣は正直に答えた。声が少し震えた。


「朝、起きて、会社行こうとしたら……なんか、急に、全部が嫌になっちゃって」


 一度口を開くと、止き止められていた感情が、堰を切ったように溢れ出しそうになった。けれど、それを理性で必死に押し留める。今ここで全てをぶちまけてしまったら、自分が壊れてしまいそうで怖かった。


「そっか」


 リカは短く頷いた。深くは追求してこない。その距離感が、今の結衣にはありがたかった。


「それで、なんでここへ?」


 核心を突く質問。  結衣は、言葉に詰まった。  「あなたのSNSを見たから」とは、まだ言えなかった。自分がどれだけ彼女の生き方に憧れ、同時に嫉妬し、そして救われたか。それを言葉にするには、まだ自分の中で整理がついていなかった。


「……なんとなく。遠くに行きたくて。そしたら、リカのこと思い出して」


 嘘ではない。けれど、真実の半分も伝えていない。  そんな曖昧な答えに、リカは少しだけ目を細めた。彼女には、結衣が見栄を張っていることなど、お見通しなのかもしれない。


「まあ、いいけどさ」


 リカは立ち上がり、ストーブの上のやかんの蓋を開けて、中の水量を確認した。


「ここ、何もないよ。コンビニも遠いし、夜は真っ暗だし」 「……うん。それがよかったの」 「そっか」


 リカは再び椅子に座り、今度はまっすぐに結衣の目を見た。その視線には、昔のような「逃げ」の要素は一切ない。


「で、いつまでいるつもり?」 「えっと……帰りの切符、買ってなくて」 「はあ?」


 リカが呆れたように目を見開いた。


「あんたねえ……相変わらず、変なところで思い切りがいいというか、無鉄砲というか」


 リカの口から出た「相変わらず」という言葉に、結衣はハッとした。  そうだ。高校時代の私も、時々、周囲を驚かせるような突拍子もない行動をとることがあった。修学旅行で、自由時間を無視して一人で知らない路地裏を探検したり、文化祭の前日に突然「展示の配置を全部変えたい」と言い出したり。


「……私、そんなだったっけ」 「そうだよ。みんな結衣のこと『真面目ないい子』って思ってたけど、私は知ってた。あんたの中には、時々、制御不能な何かが暴れ出す瞬間があるって」


 リカは懐かしそうに笑った。その笑顔を見て、結衣の胸の奥にあった硬いしこりが、少しだけ溶けたような気がした。  彼女は覚えていてくれたのだ。私が「普通」の皮を被って隠していた、本当の私のカケラを。


「ねえ、リカ」


 結衣は、意を決して口を開いた。


「私、あの日、電車の中で、リカのSNS見たの」


 リカの動きが止まった。


「『自分の呼吸が楽になる場所』って書いてあった投稿。それ見て……私、息してないなって思った。毎日、会社と家の往復で、何のために生きてるのかわからなくて。自分が空っぽで、つまらなくて……」


 言葉が、次から次へと溢れてくる。もう、止められなかった。


「リカはすごいよ。自分で選んで、こんな風に生きてて。私なんて、何もない。何にもなれないまま、ただ歳だけ取って……」


 視界が滲んだ。  涙が、頬を伝って落ちた。  三十を過ぎて、人前で泣くなんて。しかも、十年ぶりに会った友人の前で。恥ずかしさで顔が熱くなる。けれど、涙は止まらなかった。  湯呑みを持つ手が震え、中の茶が小さく波紋を広げた。


 リカは、何も言わずに結衣の話を聞いていた。  慰めの言葉も、励ましの言葉もかけない。ただ、そこに座って、結衣の慟哭を受け止めていた。


 やがて、結衣の嗚咽が少し落ち着いてきた頃。  リカが静かに口を開いた。


「私だって、何もなくて、空っぽだったよ」


 結衣は涙で濡れた目で、リカを見た。


「え?」


「三年前の私。結衣が見た投稿の通り。毎日死にたいって思ってた。東京の空気が薄くて、息ができなくて。自分が何者なのか、わからなくて」


 リカの声は淡々としていた。まるで、遠い他人の話をしているかのように。


「でもね、ある時、気づいたの。空っぽってことは、何でも入れられるってことじゃん、って」


「……何でも、入れられる?」


「そう。私には守るべきキャリアも、世間体も、何もなかった。だから、全部捨てて、ここに来れた。土を触っている時だけは、自分が『ただの人間』に戻れる気がしたから」


 リカは自分の両手を広げて見せた。爪の間には黒い土が入り込み、指の関節は少し太くなっている。それは、彼女が自分の人生を自分の手で掴み取ってきた証だった。


「結衣はさ、今、空っぽなんでしょ?」 「……うん」 「じゃあ、これから何入れたっていいじゃん。三十二歳? だから何? 人生、まだ半分もあるよ」


 リカの言葉は、あまりに単純で、それゆえに力強かった。  難しく考えすぎていたのは、自分の方だったのかもしれない。「もう遅い」「今さら無理だ」と、自分で自分に呪いをかけていた。


「まあ、そんな簡単にいくわけないけどね」


 リカは悪戯っぽく笑って、立ち上がった。


「とりあえず、今日はもう遅いし、泊まっていきなよ。布団くらいあるから」 「え、でも……」 「いいから。その代わり、明日の朝ごはん、作ってね。私、料理苦手だから」


 リカの強引な提案に、結衣は少しだけ戸惑いながらも、深く頷いた。


「……うん。ありがとう」


 涙はもう、止まっていた。  窓の外は完全に闇に包まれている。風が強くなってきたのか、時折、木々がざわざわと揺れる音が聞こえる。  けれど、この古い家の中は、ストーブの熱と、土の匂いと、そして十年の時を超えて再び繋がった二人の糸によって、確かな温かさに満ちていた。


 結衣は、もう一度、手の中の湯呑みを強く握りしめた。  歪で、不格好な器。けれど、それは何よりも手のひらに馴染んだ。  ここに来て、よかった。  まだ何も解決していないし、明日のこともわからない。けれど、少なくとも今、結衣は自分の意志で呼吸をしている。  その感覚だけが、確かな「今」として、彼女の胸に刻まれた。



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