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指先から、凪を抜けて  作者: 久遠 睦


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揺れる車窓と、解(ほど)けていく心

第2章:揺れる車窓と、ほどけていく心


 駅のホームに吹き抜ける風が、少しだけ湿り気を帯びている。  スマートフォンの中で、新幹線の「予約完了」の文字が冷たく光っていた。一分前の自分が下した決断が、まるで他人のしでかした不祥事のように、結衣の胸をざわつかせた。


(本当に、送っちゃったんだ……)


 上司への有給申請。片道切符の購入。  これまでの人生で、一度だって「計画」を無視したことのなかった結衣にとって、それは清水の舞台から飛び降りるどころか、パラシュートなしで成層圏から身を投げ出すような心地だった。  震える手でスマートフォンをバッグに押し込む。途端に、いつも見慣れたはずの駅の風景が、異世界の入り口のように歪んで見えた。帰宅を急ぐ人々、無機質な構内放送、コンビニの明るすぎる照明。それらすべてが「お前はどこへ行くんだ?」と問いかけてくるような気がして、結衣は逃げるように反対側のホームへ向かう階段を駆け上がった。


 自宅のアパートに戻ったのは、夜の九時を回った頃だった。  六畳一間のワンルーム。機能性だけを重視して選んだ、無印良品の家具。三年前、恋人が出ていったときから時が止まったような、色のない部屋。  結衣はコートも脱がず、玄関の床にへたり込んだ。


 暗い部屋の中で、スマートフォンの通知音が鳴る。  心臓が跳ねた。部長からの返信だろうか。「ふざけるな」とか「代わりの人間を立てろ」といった怒号がテキストになって飛んできたのではないか。恐る恐る画面を確認すると、そこには意外なほど短い言葉があった。


『承知しました。佐山さんも最近、少し疲れているようでしたから。引き継ぎは月曜の朝までにメモを置いておいてくれれば、あとはこちらで回します。ゆっくり休んでください』


 結衣は呆然とした。  「ゆっくり休んでください」という言葉。  それまで自分が必死に守り、しがみついてきた「自分の席」は、一週間の不在程度ではびくともしない。自分がいてもいなくても、会社という巨大な歯車は明日も何食わぬ顔で回り続ける。  その事実は、彼女を酷く落胆させると同時に、奇妙な解放感をもたらした。   「……なんだ。私、いなくてもいいんじゃん」


 自嘲気味な笑いがこぼれた。  その瞬間、結衣の目からふわりと力が抜けた。  いなくてもいいのなら、どこへ行ってもいい。誰からも必要とされていない孤独は、裏を返せば、誰からも縛られていない自由だった。


 彼女は立ち上がり、クローゼットの奥から埃をかぶったスーツケースを引っ張り出した。  何を詰め込めばいいのか、わからない。  仕事用のブラウスはいらない。ヒールのあるパンプスも。  三十二歳の女が、目的も告げず、一週間家を空ける。それは「自分を探す旅」というにはあまりに無計画で、青臭い。    結衣は引き出しの奥から、数年間袖を通していなかった厚手のニットと、履き古したデニムを取り出した。それから、メイク道具は最低限に。代わりに、リカのSNSで見たあの青い風景を思い浮かべながら、お守りのように一冊の文庫本を忍ばせた。

 リカは、今どんな顔をして土を触っているのだろう。  自分の送ったあの安物のキーホルダーを、本当にまだ持っているのだろうか。  もし会いに行って、「誰?」という顔をされたら。あるいは、「今さら何しに来たの」と拒絶されたら。    不安は、夜の闇に乗じて結衣の足元をじわじわと侵食していく。  

けれど、あの電車の窓に映っていた自分の「つまらない顔」を思い出すたびに、彼女は首を振った。    翌朝。  東京駅の新幹線ホームは、冬の朝特有の、冷たく澄んだ空気と人々の吐息で白く霞んでいた。  結衣は重いスーツケースを引きながら、整列したビジネスマンたちの列に並んだ。彼らは皆、ピカピカに磨かれた革靴を履き、これから始まる「生産的な一日」に向けて戦闘態勢を整えている。  その中で、洗いざらしのコートを着て、どこか所在なさげに立つ結衣は、自分だけが世界からこぼれ落ちてしまったような錯覚に陥った。    

新幹線が滑り出す。  窓の外、グレーのビル群が猛スピードで背後へと流れていく。  品川、新横浜。都会の輪郭が次第に解け、景色に緑の割合が増えていく。  結衣は座席の背もたれに深く体を預けた。  昨日まで自分を縛り付けていた、エクセルシートの数字や、冷え切ったワンルームの静寂、そして「三十二歳ならこうあるべき」という目に見えない呪縛が、速度を上げる列車の遠心力で振り落とされていくような感覚があった。    昼過ぎ。  新幹線を降り、そこから数本のローカル線を乗り継いだ。  列車の車両はどんどん短くなり、比例するように乗客の数も減っていく。  三両編成の気動車が、山あいの単線をゆっくりと走る。  ガタン、ゴトン。  規則的な振動が、固まっていた結衣の思考を、ゆっくりとほどいていく。


 彼女は再び、SNSを開いた。  電波が心許ない中、何度も再読み込みを繰り返し、リカの投稿をもう一度確認する。  リカが住んでいるのは、この路線の終着駅からさらにバスで三十分ほど行った、山と海に挟まれた小さな集落だ。  

(私は、何を期待しているんだろう)

 リカに会って、昔みたいに笑い合いたいのか。  それとも、彼女のような「劇的な変化」を、自分も手に入れられると証明したいのか。    ふと、窓の外に目をやると、太陽が山の端に沈もうとしていた。  空は深い群青色と、燃えるようなオレンジ色のグラデーションに染まっている。東京のビル風に揉まれているときには、空の広さなんて考えたこともなかった。  そこにあるのは、ただ圧倒的な「自然」の営みだった。  人間が悩もうが、会社を休もうが、太陽は沈み、また昇る。  そんな当たり前のことが、今の結衣には涙が出るほど尊く思えた。    

 夕刻。  ついに降り立った無人駅には、タクシーの一台も止まっていなかった。  静かだった。  耳が痛くなるほどの静寂。時折聞こえる鳥の鳴き声と、遠くで響く波の音。  空気は冷たく、肺の奥まで洗われるような清涼感がある。    結衣はスマートフォンの地図を頼りに、歩き出した。  舗装の剥げたアスファルトの上を、スーツケースのキャスターがゴロゴロと耳障りな音を立てる。  家々の窓からは、夕食の準備をする匂いが漂ってくる。味噌汁の香り、魚を焼く匂い。そこには、誰かの生活の確かな手触りがあった。    十分ほど歩いたところで、結衣は立ち止まった。  スマートフォンの画面が示す現在地。  そこにあるのは、鬱蒼とした木々に囲まれた、古い、けれど手入れの行き届いた平屋の民家だった。    庭先には、いくつもの素焼きの鉢が並び、小さな看板に手書きでこう記されている。


  『陶工房・なぎ』    凪。  結衣が一番嫌いだった、変化のない日々を指す言葉。  けれど、リカはその言葉を自分の居場所の名前に選んでいた。    家の中から、微かに何かがぶつかり合うような音が聞こえる。  結衣の心臓が、喉元までせり上がってきた。  勇気を出して、門を潜る。  一歩、一歩、地面を踏みしめるたびに、スーツケースの音が心拍数と重なっていく。    玄関の引き戸の前に立った。  深呼吸を一つ。   (今の私は、どんな顔をしているだろう)    きっと、情けない顔だ。  仕事から逃げて、自分を見失って、かつての友人の輝きにすがりに来た、空っぽな三十二歳。    それでもいい、と結衣は思った。  空っぽだからこそ、ここにある空気を、音を、光を、取り込むことができるはずだ。    彼女は、震える指先で、木製の戸を叩こうとした。  

 その時。    カラカラと音を立てて、中から扉が開いた。    そこには、一人の女性が立っていた。  藍色の前掛けをして、髪を無造作に後ろで結んだ女性。  顔のあちこちに、乾いた泥が付いている。  かつての繊細で影のあった少女の面影を残しながらも、その瞳には、かつてなかったような強い光が宿っていた。    リカは、驚いたように目を見開いた。  夕闇の中で、二人の視線がぶつかり、火花を散らす。   「……結衣?」    その声を聞いた瞬間。  結衣がこれまで必死に張り巡らせてきた、都会の「防御壁」が、一気に崩れ落ちた。    三十二歳の冬。  結衣の長い「凪」が、今、本当の意味で終わりを告げようとしていた。


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