5章「勇者の使命・ヒモの役目・おれの人生」3
今作品は、C90「よろづ屋本舗」にて販売した作品となります。
電話口の声に、アルベルトは詰まった息を吐き出して、膝が崩れないようカウンターの椅子を掴んだ。
「も、もしもし……』
携帯へ声を乗せる。
一度聞こえた彼女の声が再びやって来るのは、数台の車が通り抜けた直後、屋根のある場所へ入ったのか傘を叩く雨音が遠くなった頃だった。
『……わ、わ、わたし……で、です。さ、佐倉夕蘭……です。アルトさん。あの……わたしじゃ、だ、ダメですか? アルトさん……雨に濡れて……今寒いんですよね……』
「どうして知ってるの……」
一瞬でも期待した自分がバカだった。
内心大きく溜息したアルベルトは僅かに冷静さを取り戻した脳へ酸素を行き渡らせるように深呼吸。カウンター席へ腰を下ろした。
「なんでおれの携帯知ってるのかな」
『べ、別に大したことじゃ……あ、ありませんよ。わたしはアルトさんをあ、ああ、愛して、愛してるんですからァ!!!』
裏返った夕蘭の声がノイズでズタズタに切り裂かれていく。思わず耳から携帯を遠ざけて、苛立ちで泡立ち寸前の吐息を胸へ押し込む。
「答えになってないよ。今立て込んでるから、後じゃダメかな?」
『べ、別にそれでも構いませんけど……』
思ったよりすんなり引き下がるんだな。
「ありがと。助かるよ」
『ふひひひ……で、でもあ、アルトさんにとって、だ、大事な話が……店長さんについてなんですけど』
瞬間、アルベルトの疲労で細くなっていた双眼が見開かれた。
「ど、どういうこと?」
彼女の声を聞き逃さないよう、携帯を強く耳へ押し付ける。
『で、電話つ、続けてくれるんですね。う、嬉しいです』
「深雨さんがなに!?」
『さ、さ、さっき……中学校の前を通った時に、て、店長さんが一人でコンビニのベンチに、す、座ってて……』
「座ってて……?」
緊張で早る鼓動を抑えようとゆっくり呼吸。しかしどうして彼女は自分に協力しようとしているのか?
夕蘭は深雨のことを嫌っていたはずなのに――いや、今はどうでもいい。
「座ってて……座っててどうしたの?」
『は、はい……あ、赤い髪の人と話してたんです』
――赤い髪!?
こちらが手を出さない限り何もしない契約じゃなかったのか!?
アルベルトが携帯が壊れそうなほど強く握り締めてより耳へ押し当てる。
「その人って……」
まだクシャナの名前は出ていない。まだ魔王ってわけじゃないんだ。落ち着け。
赤い髪があちこちへいるとは考えられない。しかしそう考えないと搾りカス程度の平常心さえ無くしてしまいそうだった。
「佐倉さん!」
応答のない夕蘭へ一際大きく声を張り上げる。しかし息遣いとモゴモゴ何か言いたげな吐息がしてくるのみ。
「教えて。お願いだから……。その人は、佐倉さんが知ってる人?」
『えっ、あっ……えっと』
嫌な相槌だ。これじゃ肯定したも同然だ。
「どうなの?」
迫るように訪ね直す。すると、夕蘭が携帯を耳から遠ざけたのか、呼吸すら聞こえなくなってしまった。屋根を叩き、アスファルトを殴りつける雨音がしばし続く。
「佐倉さん……!」
アルベルトが捻り出すように言うと、耳元へ微かなノイズがした。
『お、おおお、落ち着いて、く、くださいね』
「わかってる、わかってるから……だから早く!!!」
アルベルトが必死の剣幕で電話先へ怒鳴り気味に言う。同時に窓辺へ雷鳴が走った。目が焼けそうなスパークと轟きが周囲の音をもれなく全て飲み込んだ。
近くで落ちたのか、街灯の明かりが闇に沈む。
「う、嘘だろ……」
その隙間で耳にした声に携帯を取り零しそうになる。しかし帰って来たのは一切否定の隙間がない肯定だった。
『け、喧嘩、喧嘩でも、し、したんですか?』
「……。ありがと、助かった」
確信について答えずに電話を切ろうとした。すると夕蘭の声が思ったよりも近い距離で聞こえた。
『あ、アルトさん。あの……』
「急いでるんだ。だから……またかけ直すよ」
強引に、今度こそ電話を切る。
再び雨音に飲まれて無音同然となった店内を見渡す。街明かりすら届かなくなり、どこに何があるか見えない店内じゃ自分がどこへ立っているかもわからなくなりそうだ。
深雨は一体どんな気持ちを胸にこの店で、彼を。品田アルトを待ち続けたのだろう。
「あのバカ……。おれもか」
レジカウンターの淵をなぞり、いつもの席へ座る。
きっと今も、この店の至るところへは何年と染み付いた彼女の色んな喜怒哀楽が転がったままなのだろう。もし、品田アルトと一緒に笑いあった全てを拾って、ひとつひとつ確かめることができたら――自分はより完璧に彼女が求め続ける品田アルトを演じることができるだろうか。
「求められてないのはわかってるよ。でも……」
ドアノブを握り締めた。
「それでも……今はおれが品田アルトだから」
カウベルが鳴る。
「う、うひゃっっ!?」
間抜けな女声と一緒にビニール傘が音を立ててレンガ道へ転がった。
「あ、ああ、ああ、アルト、さ、ん」
くの字に折れ曲がった腰を伸ばした夕蘭が深い隈の瞳を動揺に泳がせた。アルベルトはこちらを見たまま口元に笑みを乗せて、言葉を困らせる夕蘭へ首を捻る。
「ど、どうしてここに?」
「わ、わた、わたしは……」
「ごめん……急いでるから」
夕蘭の言葉を遮って雨の中一歩踏み出しかける。
「ま、待って!! く、くだ、さい」
夕蘭の裏返った声に足が止まった。その隙に手を取られ、アルベルトが屋根の下へ連れ戻される。
「ちょ、佐倉さん。おれ急いでるから!!」
腕を振り払おうとするも、壁へ挟むように抑えられては思うように離れることができない。それどころか、抵抗されるのもお構いなしと夕蘭の顔が近づいてくる。
「だから……わ、わたしの、は、話を聞いてください!!!」
鼻が触れそうな距離まで迫られ、アルベルトは顔を横へ背けてしまう。
「私は……私は絶対アルトさんを裏切ったりしませんよ」
真っ直ぐ真に迫る声にアルベルトが夕蘭を見据えた。
直視してわかったことが一つ。
――本当におれのこと好きなんだ、この娘。
いっぱいに開いた夕蘭の両目は笑ってるはずなのに、悲しさを匂わせるように凪いでいる。潤ったように見えるのは涙だ。ふるふる痙攣する目尻から幾重にも重なって頬へ伝っていく。
「……わたしじゃダメ……なんですか」
「……うん」
真っ直ぐな言葉だからこそ、余計なことを含ませずシンプルに告げたかった。
一度だけ深く頷いた夕蘭の瞳が少しだけ細くなる。
「どうしてもですか?」
「おれには深雨さんがいるから……行かないと」
「記憶がないんですよね……ならいいじゃないですか!!」
「よくないよ。だって……前のおれがそうだったように」
品田アルトがそうだったように――。
「今のおれも……深雨さんに恋してるんだから。だから行くんだよ、迎えに行って……もう一度告白するんだ。深雨さんに好きだって。だから……ごめん」
「ごめん……じゃないですよ。わ、わたし……ずっと、好き、だ、だったのに」
「ありがと……おれを」
品田アルトを、
「好きになってくれて。じゃあね、行ってくるよ」
行き場を塞いでいた腕が降りたのを確認し、心なしか雨雲が薄くなった外へ改めて一歩足を出す。小雨が肩へ新たなシミを広げた。
「ありがと。佐倉さんのおかげだよ……なんか色々。中で待ってて、深雨さんと帰ってくるからさ」
彼女の言葉を待たずにアルベルトは走り出した。どこへいるのかわからない深雨を探しに――彼女へ魔の手を差し伸べたアイツの元へ。




