3章「初夏の海と彼女の過去」9
今作品は、C90「よろづ屋本舗」にて販売した作品となります。
どうしてこんな当たり前のことを、忘れてはいけないことを自分は忘れていたのか。
アルベルトは眼前の少女、桐谷クシャナもとい、悪の化身魔王クシャナへ奥歯を噛み締めた。
クシャナを中心に転がる男たちは、先程まで一緒に行動していた物たちで間違いない。精気を搾り取られたように萎れていた。ピクリとさえせず、首から血を垂れ流しながら虚空を見つめ続けている。
そしてまたひとり、そこへ男が追加される。
爪先の血液を愛おしげに舐めるクシャナがこちらを向いて、口元だけで笑う。
「あなたに見つからないまま人間共から魔力を奪って、この世界に飽きたら帰還しようと思ってた計画がパーになったじゃない。最悪」
「こんなこと許されると思ってるのか」
「いいんじゃない、魔王だし。この世界の住民じゃないんだから、この世界のルールに従う必要もないでしょ。でも勘違いはして欲しくないから」
アルベルトを流し見たクシャナが右手をそっと前へ掲げる。複雑な魔法陣が夜闇へ浮かんだそこから放たれるは魔力の塊――魔法。
「どっちの実力が上か、今のあなたならわかるわよね」
手の平サイズの火球の群れが闇を切り裂く。
アルベルトは咄嗟に地面を転がって火球を避ける。しかし追尾魔法も重ねたらしく、火球が地面へ着弾することはない。ゆらゆら不規則な機動を描き、四方を囲まれた。
「……クソッ」
舌を鳴らし、深い深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ――。
「現れろ――メルクッ!!!」
何もない空間へ剣の形状を象った閃光が瞬いた。右手へ握る光の鞘から抜刀。昼間のような明るさが闇を払う刹那的な魔力の爆発。剣の柄に封印されたとぐろを巻く黄金の竜が真紅の眼を光らせた。
刃までもが黄金の剣こそ勇者アルベルト・シュナイダーにのみ使用が許された聖剣『メルク』。かつてアレボスを壊滅の危機に陥れた紅蓮のドラゴンの魂が封印されていると言われる剣だ。
「クシャナ! お前はここで殺すッ!!」
そう息巻くも、僅かな魔力が聖剣に食われ続ける現状はとても好ましいとは言えない。どこからか血が止めどなく溢れているような感覚にアルベルトの顔が険しくなる。
「辛そうね。人間から精気を吸えばいいじゃない。あたしみたいにさ」
あの大男たちを殺した理由はそこにあるのか――アルベルトが横目で幾つも散らばる肉塊を睨み見る。
「そんなことしたらお前と同じになるだろ。おれはそんな下衆な真似はしないよ」
「でもそんな状態で戦えるのかしら?」
危機感の欠片もなく微笑を保つクシャナへアルベルトが歯噛みした。クシャナを半身にメルクを下段、袈裟から心臓部を切り上げるイメージで構える。どくんどくん、激って落ち着かない心音へゆっくり酸素を送り込んで――突っ込む。
「魔力を使えばいいのに」
火球が打ち出される。それを切り上げたアルベルトがメルクを振り下ろした。背後へ華麗にステップしたクシャナの髪先を掠る。更にもう一歩踏み込んで喉笛を根来突く。しかし切先は何もない空間を穿ったのみ。
「焦るわね。落ち着きなさいな」
がら空きとなったボディへ赤いシルエットが滑り込んだ。
両目を剥いて凄むアルベルトの頬へクシャナの手が触れる。ひやりと魂が抜け出そうな寒気に心臓が一際大きく鼓動した。
クシャナを振り払うように後退。肩で息をしながらメルクを正面にする。
「どうしてなにもしない」
「だって……あなたを殺すことはあたしの目的じゃないからよ」
「魔王が勇者を殺すのは当然じゃないのか?」
油断させようとしているのか?
途端に魔力反応を薄めたクシャナを訝すように見据えたままメルクを握り直す。ゆっくり歩み寄るクシャナはどのタイミングで攻撃してくるのか。緊張のあまりアルベルトは頬を伝う汗を拭うのも忘れていた。
油断できない一瞬に気を張り続けていると、
「取引よ、勇者アルベルト・シュナイダー」
「取引?」
少し手を伸ばせば届く距離で足を止めた魔王がくすりと口辺を攣り上げて頷く。
「そう、取引。無理難題をふっかけつもりはないわ。お互い悪くない話よ」
「そんな話あるわけないだろ」
メルクの切先がクシャナを映した。
あと一歩踏み込めば頬へ先端が触れようというのに、なぜクシャナの顔から余裕の笑みが消えない? 凛と細めた瞳から放たれる不気味な目力にとてつもない恐怖を覚えて、アルベルトの方がまた数歩後退してしまった。
「怖がらなくていいのよ。あなたは素直に頷けばいいの」
ゆらりと右手が伸びた。差し出された手を睨みながら、更に後退。にやりと目元を細めたクシャナの唇が甘美な吐息と共に言葉を生んだ。
「あたしは平和に暮らしただけなのよ」
「……ふざけるな。そうやっておれを動揺させる作戦なのはわかってる」
「本当よ? あたしはただ平和に暮らしたいだけなの。魔王ってだけで、魔族を束ねる物だからってどうして勇者と戦わないといけないのかしら?」
吹き抜けた夜風がクシャナの髪を悩ましげに棚引かせた。乱れた髪を気にせず、メルクの刃へそっと手を添える。
全く力を入れていないのに、どうしても抵抗することができずアルベルトはメルクの構えを解き――ついに足元へカラン、と音を立てて転がった。蛍を思わせる光の粒子が風に乗ってどこか遠くへ消えていく。
「交渉を始めましょうか」
再び景色が不気味な闇に飲まれたところでクシャナが言った。アルベルトはいつでもメルクを抜き直せるよう魔力をコントロールしながら、ひとまず首肯。
「……聞くだけだ」
舌打ちを堪えて言うと、クシャナが目を細めたまま続ける。
「あたしの要求は平和な日常。せっかく戦う必要もない平和な世界に転移したのよ? この世界を思い切り満喫したいじゃない。あなたもわかるでしょ?」
「……確かにこの世界は平和だけど。ならどうして人間を襲った。お前のせいで何人の人間が行方不明になったと思ってんだ」
今もなお枯れた姿で指先一つ動かない男たちを見やり、感情の起伏を押し殺して、目を閉じる。
「その時点で平和に暮らしたいなんて願望は破綻してる」
「一理あるわ。でもあたしの身体目当てで寄ってくる男をどうしようとあたしの勝手じゃない? まぁガタイもいいし、この世界の情報収集に使わせてもらってたけどね」
「同意できない……」
「同意するわよ。あなたは」
「人を襲っておきながら平和に暮らしたい? ふざけてる!」
話を聞いた自分がバカだった。
アルベルトが改めてメルクの抜刀へ入ろうとした途端、
「いいのかな?」
「……最初から交渉になってないよ」
光の粒子を右手に掴みながら双眼へ深いシワを寄せた。クシャナはその反応を見てどう思ったのか、鋭い八重歯をチラつかせて左手を胸の位置に広げる。
「言い方を変えましょうか。これは交渉じゃない――命令よ」
左手のひらへ真っ青な空を思わせる綺麗で透明感のある水晶が現れた。
「いいものを見せてあげる……あなたに拒否権がないって教えるとてもいいものを」
「ど、どういうつもりだよ」
「言わなきゃわからない? そんなおバカさんじゃないわよね?」
ぼんやり覚えのある景色がミニチュア模型のように映された瞬間、アルベルトの瞳から怒りに狂いそうな赤色が消失した。こみ上げてくるのは深くて黒くて――そこが見えない絶望的な青。
「……外道」
「魔王ですもの」
アルベルトは水晶へ映し出された雨宿りの店内、深雨へスポットが当てられた映像に舌を鳴らした。既に手は打たれていたわけだ。アルベルトは抜きかけたメルクを収める。
「素直でいいわ。もしあたしに手を出したら……わかってくれたわね」
「……あぁ」
それでも戦わないといけないのはわかってる。
完全無防備なクシャナを倒す絶好のチャンスなのは重々承知だ。
では、どうして自分は。勇者である――勇者アルベルト・シュナイダーはメルクを抜かない?
「おれが……」
勇者としての役目を放棄しようとしている事実に気付き、声が震えた。しかし言わないわけにはいかない。アルベルトが俯いていた顔をクシャナへ持ち上げると、
「えぇ」
ただそれだけ口にした彼女は鳥肌が立ちそうなほど冷たく不気味で――それなのに自分の何もかもを肯定するような優しい微笑みを浮かべていた。
目尻へ涙が溜まっていくのがわかり、アルベルトは服の袖でそっと拭う。
「おれが手を出さなければ……深雨さんには手を出さない。約束してくれるか?」
「あたしは平穏が一番なの、今までどおりの関係を守ってさえいてくれれば、あたしは一切手を出さないわ」
「嘘じゃないな?」
「魔王に二言はないわよ。でも……あなたが手を出したときは」
左手の水晶を燃やさんと水色の炎が立ち上った。
「それじゃあよろしくね」
ひらひらこちらへ手を振ったクシャナが闇の中にその姿を眩ませた。
アルベルトが追いかけるも、そこへ残ったのは彼女の残り香と勇者としての役目を放棄した、ただの人間が一人。
「クソッ……」
膝が折れて両手を付いた。芝へ拳を叩きつけながら、己の中途半端さを喉から絞り出すように叫ぶ。
「クソッ! クソッ!! なんだよ! なんでなんだよ……なんでおれはッ!!!」
左手の小指が擦り切れたところでイライラやもどかしさ、悔しさが晴れることはなかった。頬へ伝う雫もそのままに、頭を地面へ擦りつける。嗚咽が芝を汚し、額が擦り切れてベタつきのある液体が辺りをじわじわ染め上げる。
「なんで……本気になってんだよ。なんで……なんで……」
おれは勇者なのに――。
「深雨さん……」
どうして好きになっちゃったんだよ。
好きにならなければこんなに弱くならずに、自分を見失わずに済んだのに――。




