3章「初夏の海と彼女の過去」8
今作品は、C90「よろづ屋本舗」にて販売した作品となります。
喫茶店へ入る頃はほぼ真上にあった太陽はいつの間にか地平線まで足を伸ばしていた。もう一時間もしないうちに、紺碧の空が初夏の暑さを洗い流すのだろう。
「それじゃあレイネさんはここで失礼しますでございますね~」
駅の雑踏へ溶け込んでいくレイネを見送りながら、アルベルトはポケットから携帯を取り出した。
「遅くなったし……深雨さんに連絡したほうがいいよな」
――元々はお使いってことで出てきたわけだし。
履歴から深雨の携帯番号を選択し、耳へ当てる。呼び出し音がやってくる。
「深雨さん怒ってるから……心配はしてるだろうけど――あっ、深雨さん?」
『あっ、アルトー。もしもーし、深雨です。今どこにいるの?』
「商店街の前の横断歩道。もう着くよ。ごめんね、遅くなって」
『ううん。いいのいいの。アルトもたまにはゆっくりしたいもんねー』
いつもゆっくりしてるんだけど……。
悪気がないのはわかっているものの、さり気ない優しさが心へ突き刺さる。アルベルトは予想外の一撃に膝を付きそうになるのも堪えて、青へ変わった歩道に身を任せる。
『取り寄せてた本は受け取れた? お金足りたよね?』
「大丈夫。ちゃんと受け取れたよ」
黄昏時の商店街へ入った。『雨宿り』はもう目と鼻の先だ。少しでも早く深雨を安心させたい一心で、アルベルトの足が自然と早くなる。
「でも遅くなるなら連絡したほうがよかったよね」
『そうだねー。なにかあったの?」
「途中でレイネさんと会って話してたら……」
『そっか、そっか。お店は忙しくなかったからいいけど、次は連絡してね」
「わかった。じゃあもう――」
和やかな笑顔のまま電話を切ろうとしたのだが、眼前の光景に続く言葉は喉奥で詰まって、空気の音にかき消された。見間違いだったらどれほど安心できただろうか。夕日のせいだと強引に理由をつけてみても、確かに今の光景は真実だけを述べている。
『アルト?』
心配そうに声を小さくした深雨へ一瞬間を空けて、思い出したように返す。
「ご、ごめん……もうちょっと帰り遅くなるかも」
『なにかあったの……?』
「ギブソンたちが道に迷ってるみたいだから送ってくるよ」
咄嗟の言い訳に疑うことなく深雨が頷いた。アルベルトは通話が終わるや視界の端へ消えようとしているシルエットにすかさず目を投げた。
「どうしてここに……というか、なんでまた?」
つい先日目にしたのと全く同じ組み合わせに、アルベルトの目が訝り険しくなる。後ろへ従うように歩く四人の大男――そしてそれを先導する少女。髪は赤く、ちらりと見えた微笑みは恐怖なんて微塵も感じさせない涼やかなもの。
アルベルトは背筋に嫌な汗を感じながら、一定の距離を保って彼女の後ろへ付いた。
「どこ行くんだ……?」
駅の方へ向かっていると思っていたが、電車へ乗ることなく道なりに歩き続けている。気づけば駅の雑踏は遠のき、マンションや住宅が目立つ通りへ出ていた。しかし彼女たちの足は止まらない。
もう歩き続けて二十分程度が過ぎただろうか?
目の前に大きな川を二車線の橋が現れた。その先も住宅が視界の限り広がっているものの、行き交う車は片手でも充分余る数しか行き交っていない。なんとも寂しげな匂いに満ちた住宅街だ。
アルベルトが橋の手前の電柱へ身を潜めて、彼女たちが渡り切るのを待っていると、
「渡らないのか……?」
橋を前にピタリと足を止めた集団に首を傾げる。全く聞き取れないが幾つか言葉を交わすや、フェンスを跨いで河川敷を滑り下りて行く。
「ど、どういうこと……?」
アルベルトが橋下へ消えていく少女を目線だけで追いかける。しかし夜の帳が降り始めている現状、そこに空間があるということ以外わからない。
「行くしかないか……」
喉を鳴らしたアルベルトが重い足で河川敷の坂へ踏み出した。視界の悪い足元に気を遣いながら坂を滑り進めると、
「――ッ!?」
全身の毛穴がこじ開けられるあの悪寒が全身を駆け抜ける。急なことに動揺して顔を上げた瞬間、坂の窪みに躓いて坂下まで転がり落ちた。全身の鈍い痛みに耐えて腰を上げると、
「……嘘だろ?」
失いかけた言葉を何とか繋ぎ止めた声が喉から絞り出た。
芝と泥で汚れた書店袋を拾うのも忘れ――光へ寄せられる虫のように一歩、また一歩とゆっくり近づく。
未だ感じる禍々しい魔力反応は忘れるはずもない
いつだってアルベルトはその魔力と共にあったのだから。
しかしどうして、人間界で。どうして彼女が。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、なんで、なんで、なんで、なんで――。
「どうしてなんだよ……」
言うと同時に、頭の中で固く施錠されていた鍵が開けられる音を聞いた。それがきっかけだったのだろう、アルベルトは目を丸くし、目の前の現実が嘘であることを心の底から祈ってしまう。
「なんで……どうして」
ポツリと落ちた呟きに、橋下から艶の乗った笑い声が反響した。
「……見つかっちゃった。うまくやったつもりなんだけどなぁ」
「ようやく……ようやく見つけたよ、桐谷さん――いや、魔王クシャナッッ!!!」
「もっとしっかり睡眠かけておくべきだったかしら」
連れ歩いていた男の首筋へ突き刺していた指を引き抜き、鮮やかな赤を払った。




