<6>
展望台は夜を淡く照らすように、先に見える。真夜中だった。寝惚け眼を擦った茜がフラフラとどこか危なっかしく歩くのを佳恋がしっかりと支えながら、誰もいない外の暗闇を佳恋の使っていなかったスマートフォンの明かりで歩いていく。
──ゆのが深夜に翔を起こしてしまったことから始まる。
あの後、茜がもう一度風呂に行こうとしたために雰囲気から逃げて翔は部屋に戻り、1日の疲れを感じて早めに寝てしまった。女子部屋はというと、佳恋もゆのも眠くなく、茜が風呂上がりすぐに寝ようとしたのを佳恋が髪を拭き、ゆのが布団を敷いて、茜の寝たタイミングで1人ずつ風呂へと入って、寝ようと試みた。特にすることもなく布団に潜り込み
昼に寝たせいか寝れず、悶々とした気持ちで外を見てみると。雨上がりの晴れ渡った空が視界を埋めた。秋の移り気な空が、いつしか土砂降りの雨を忘れさせるほどに美しく、そして輝かしく見え、その胸の奥が、はやる気持ちへと変わった。
きっとこれは夢だ。
現実とは思えないほど、雨も止み晴れ渡った雲ひとつ見えない空が、それがひどく心を靡かせる。
翔。
「そうだ、翔」
今すぐにでも手を伸ばしたくなってしまう。隣にいないのに気付くのは、その後で。はやる気持ちが抑えられないままに、翔のいる部屋を開けて。
「翔。翔。起きて」
「ん……?どうした……」
「外を見て」
深く眠っているのも躊躇せずに、ゆのは伝えたいことを伝えるために翔を起こした。電気も点けずに外を見ると。
いつか見た星空と同じような、記憶の中にあるそんなものが、広がった。
ここまで綺麗に見えるのも珍しい。冷え込む空気も雨の後で澄んでいた。茜はまたくしゃみをする。
「茜ちゃん風邪引いちゃった?」
「ううー……かもしれない……」
寒そうにしていたのを見たゆのが茜の肩に翔から借りた制服を乗せた。
「ありがとうゆのちゃん」
「翔にお礼言ってね」
「ん……?って、こ、これ、木崎先輩の……っ!!」
茜はかけられた制服を両手で掴んだ後、動揺して手を離して、地面に落ちる。あっ……という声を出したが、コートを着て暖かそうな佳恋にしがみついた。
「放置すんなよ……」
「あはは、嫌がってるわけじゃないから安心してね」
「どう考えても嫌がってるんだけど」
ゆのが翔の苦笑いを見た後、茜の恥ずかしそうな顔を見ながら制服を拾って自分にかける。ついた汚れを払おうと伸ばされた翔の手が、ゆのの身体に触れる。
「あ、ごめん」
「気にしないよ、もう」
強がりでもなく、ただ優しい。流れる指先を背中で感じ、離れた手のひらをゆのは両手で握った。
「汚れるぞ」
首を横に振る。
「繋いでいて。夢から覚めたくないから」
そうして、離さずに、先に見えるあの日の場所を目指してゆのは一歩進んだ。
茜がため息をつくのを聞いて、佳恋は頭を優しく撫でた。
「佳恋先輩、気付いたんですか」
「きっと木崎くんだけだよ、気付いてないの」
「ですよねー……ゆのちゃんにも、知ってる、って言われました……」
撫でて離したコートの袖をきゅっと摘んで、茜は俯きがちに呟いていた。
「いつから?」
「わかんない、です……なんでかもわかんないです……」
「そう。佐口さんならきっとすぐに解決できるよ。ま、とりあえず行こっか」
深くは詮索しようとしない。知ってしまおうとすればきっと前と同じだと、そう思って一歩を踏み出した。茜もその後ろから覚めた目を開いてゆっくり進む。目の前を歩く翔とゆのの熱く思わされるような近い距離が、佳恋にも、茜にも、ただ今はこうしてやりたいと思わせた。
茜も、今だけはこの気持ちも。
2人の世界はきっと狭い。あの日、12年前に一緒に見た星空がこんなにも広く美しく目を奪うものだったのは、今更になって気付くのだ。最初から変わらないと思っていた2人の思いは、今もなにも変わっていない。変わらず、空を漂う。
「夢じゃなかったら、私はきっとこんなにもみんなと楽しく生きられていないよ」
上を見上げてゆのは呟く。
「全部現実だよ。ゆのの思いも、暖かさも」
「くさいこと言う翔はきっと夢だ」
ずっと言ってきただろ……と、翔は何度目の苦笑いをしながら、ゆのと同じように頭を上げた。
「あの頃から、俺はゆのを大切に思い始めたんだと思う」
「私もだよ」
翔を引っ張るゆのが暗闇に浮かぶように見えた。
翔はその背中を見て、隣で笑うゆのを見て、瞳に浮かぶ夜空を見て。
ゆのはその足を見て、手の温もりを感じて、瞳に浮かぶ夜空を見て。
きっとそれから、2人はずっと思っていた。
「「一生、星を見続けたい」」
変わらない。
2人は、ずっと目の前の星を見るために、繋いでいたんだと。
2人は、ゆのを、翔を、星のように輝くままでいてほしいと。
あれからなにも変わっていなかった。
横顔を見たいと、ゆのは月夜に覗く。
「あの頃と変わってないね、翔は」
繋いだ手がまた強く結んだ。
「あの頃と一緒だな、ゆの」
この時間は終わらせない。あの日と同じように手を繋いでこの星を見たことは、絶対に忘れられない。
「キスかな?キスする感じ?」
後ろですぐに佳恋が茶化した。目を合わしていた2人はともかく、茜もそれに顔を真っ赤にした。
「もう、佳恋先輩……す、するなら黙ってするでしょう!」
「し、しないよー茜ちゃん、だから安心して」
「茜は関係ないですっ!」
ゆのが茜をまたからかって嬉しそうに笑う、夜空に輝く星のように。きっとこの現実は自分が変わった証になると、ゆのは心から思った。佳恋、茜、2人の顔を、明るく照らして。
ゆのはもう一度、夜空を見上げる。翔ける天馬を追いかけるように、手を伸ばす。
「翔。ありがとう」
○○○○○
起きると、隣に小さな身体があった。小さく伸びをして立ち上がり、洗面所に向かう。
「夢、かな」
現実味を感じない、胸に残っているもの。なにかとてつもなく、心を奪われたもの。忘れられない空。頬を叩いて今が夢ではないことを感じた。
真夜中にゆのが見た景色を裏付けたのは、部屋に掛けてあった翔の制服の土埃。あの後、眠気にやられて戻ったみんなは、深くなにも語らずに寝た。気まぐれな秋の空が生んだ夢のようなひとときに全員が見惚れていたことは確かだった。
ゆのは時間を確認するものが近くになかったので、仕方なく部屋を出る。朝の冷えた空気が心地よく、玄関から外に出て近くの椅子に座り込む。
空を見ると、晴れ空が広がっていた。朝の澄んだ空気が綺麗な青を映し出す。
「欲しいものは手に入れられた?」
後ろから鈴のような声が聞こえる。
「川島先輩。なんだか夢みたいに思えて、本当にあったことなのかどうかが曖昧です」
「あの世界はすごかったね。わたしも、都会じゃ見れない景色でびっくりした。でも、2人はきっと変わらずずっと繋がってるんだろうなぁと思わされるくらい、長く長く、見上げてたよ」
思えば、噛みしめるように強く握っていたとゆのは思い出し、自分の手を眺めた後、佳恋の方を向いた。
「帰りましょうか、先輩。私は帰ってお母さんとお父さんに怒られる義務がありますし」
自分のことを笑って話すゆのを見て、佳恋は、私もこうやって……、と小さく呟いた。
「先輩?」
「ん、一緒に謝らないとね。わたしたちも誘拐犯みたいなものだから」
「誘拐犯って…攫ったのは翔ですよ」
「木崎くんは大胆ね」
2人で小さく笑った。その後佳恋はそのまま深呼吸をして外の空気を吸い込んだ。
「戻ろっか。帰る準備しなくちゃね」
「ですね」
ゆのは立ち上がって伸びをする。浴衣が静寂を抜ける軽い風に揺られた。
「茜ちゃん、起きないですね」
深く深く眠っていた。枕を抱いて丸まった茜の寝相がどこか可愛らしく、翔が起きるまでは寝かせておこうと思わせた。
「佐口さんって、すごいね」
小さな身体がすごく強く見えて、佳恋はどこか羨ましそうに微笑んだ。
「すごいですよ。茜ちゃんはみんなを笑顔に出来る子ですから。私の大切な、妹のような存在です。まあ、茜ちゃんはお姉ちゃんなんですけど」
「あー……だから、小さい子と付き合うのが得意なのね。なんとなくわかったわ」
佳恋がしゃがんで、綺麗な頬を撫でる。
「茜ちゃんは現実主義者って自分で言ってますけど、現実主義なんかじゃなく、周りを知ろうとする努力家です」
ゆのも、茜のそばで座り込む。優しく髪を撫でると、茜がパチリと目を覚まし、身体を起こした。
「おはよ、茜ちゃん」
「ゆのちゃん……おはよ……」
「よく寝れた?」
「よくわかんない……」
寝惚け眼を擦る茜が、夜に見たことを思い出させる。それを心に感じながら、ゆのは茜に問う。
「いい夢見れた?」
「悪い夢でした……ゆのちゃんからも川島先輩からもからかわれる夢です……」
「夢でよかったね」
茜は肩にかけられた感覚を思い出す。ゆのの温もりを感じられたのは、手を繋いだ時以来だった。そして、翔の温もりも感じたあの胸のドキドキが、帰ってくる。
隣で布団を綺麗に畳むゆのに、茜は思いを伝える。
「……ゆのちゃん。やっぱり、いつかは伝えたいです……」
ゆのはそれを聞いて、ただただ微笑んだ。
「無駄だとわかってるつもりなのに、悩めば悩むほど、苦しくなって……」
「わたしも八重山さんも、悩んで今ここにいるんだから、佐口さんも悩んで歩けばいいのよ」
佳恋はそう言って沸いたお茶を入れて茜とゆのに渡した。熱くて飲めずに、茜は口につけるのをやめて下に置く。
「はぁ……きっとこれは微熱だって、茜は思えたらよかったのに」
溜め息と共に零した言葉で、ゆのは茜の手を握った。もうきっと、怖くない。
「あ、ゆ、ゆのちゃん……手を……」
「ほら一歩進んだよ、私」
少しだけ震える手を茜は感じた。それでも手だけは離されない。目を背けようとしない。暖かい。
「うん」
一言で、簡単に、わかりやすく伝えて微笑む。佳恋が後ろから抱きついて頭を撫でるのに、むすっとしても身を任せた。
少しの間でも、こうやって長く一緒にいたいと思えた。
3人で部屋の掃除をしていると、ノックが聞こえる。
「はーい、入って大丈夫だよー」
佳恋の声を聞いて翔が開けた。
「おはよう。とりあえず制服取りに来たんだけど」
「うわ、翔、制服盗む変態さんだった?」
「取るの意味が違うな」
ゆのはそう言いながらもハンガーに掛けていた制服を翔に手渡しした。それだけでありがとうと言って出て行こうとするので、ゆのが引き止める。
「あ、翔。帰るから準備してね」
「わかった」
それだけ言って出て行くので、茜が安堵した。緊張が取れないような、イタズラな感覚が刺激する。
「文句なしなのね。さすが木崎くん」
佳恋が言ったのをなんとなくで聞いて、ゆのが纏めた荷物を鞄に入れて持ち上げると、スルリと赤いリボンが落ちた。取って、今日も髪を括る。それを見た茜は、ゆののように腕につけた。
旅館に持ち込んだものを抱えて、おばさんのところへ顔を出す。佳恋がお金を取り出したのを見て、おばさんは別にいいよと必死に遠慮していた。
茜は。
「また会おうね、あかりちゃん」
「お姉ちゃんバイバイ」
おばさんの後ろから顔を出した女の子と話をしていた。手を振ると振り返され、優しい笑顔でそれに応える。
「本当にありがとうございました。こんな高校生のワガママに付き合ってもらい、本当に感謝しています」
堅苦しい佳恋の羅列した言葉に、ゆのは少しだけ笑った。本当に、2人だけだとどうしていたのかが今になっては不思議で仕方がなくなっている。
「俺たちだけだと、多分乗り切れてなかっただろうなぁ」
翔も同じように思っていたらしく、声を漏らす。前の2人の背中が大きく思えた。
すっかり晴れた青空が緑を深くする。最初に寂れたと思っていた駅も今ではなんとなく悪くないと思えていた。きっと何年も前にもそう思っていたのだろうと、翔とゆのは考えて電車を待ち惚ける。
「ほら、暖かい飲み物だよ」
佳恋が座っている2人の足の上にペットボトルを置いた。茜は少し遠くで時間の確認をしている。
「ありがとうございます」
「木崎くん……いや、やっぱりなんでもないや」
引っ込めた言葉に翔は疑問を持つが、考える間もなく茜が走って入ってくる。
「あともうすぐで来るっぽいです。帰ったらどうします?」
スマートフォンの画面を見せて到着の画面も一緒に教える。昼が過ぎるくらいを示していた。
「向こう着いたらだね。私寄りたいところあるの、いいかな?」
佳恋に笑顔を向けるゆの。なにかを察して佳恋も同意をした。茜もそれなら……と呟いていた。
「翔。頑張ってね」
「ん……?」
ボーッと聞いていたところにゆのが話しかけてきて、翔は言葉の意味がよくわからなかった。ゆのの何かを考えている笑顔だけが翔に見える。
「さて、きたよ、電車。なんだか惜しいけど、帰らないと」
ゆのが立ち上がって制服のスカートの埃を払ってみんなの方を向いて屈めた。翔にとっては懐かしい、ゆのの仕草だった。
行きと同じように草木をかき分けて進む電車は、昨日とは違い木漏れ日が中を流れていた。田舎風景を映しこむ窓は、4人の小さくて大きな思い出になると思わせる。
「まだ高校生だけど、きっと高校生だったからこんなに無茶したんだろうな」
「そういや、茜ちゃんと川島先輩は、親に連絡したんですか?」
「んー、わたしはしたけど、茜ちゃんは?」
「連絡はしましたね。多分怒ってますけど。妹が」
そこから妹への愚痴を零す茜を、3人は楽しそうに聞く。そうやってみんなの話をして、時間がすぐに過ぎていく。いつの間にかよく見る風景へと帰ってきてしまっていた。夢のような時間は終わり。
ホームに降りると、人の乗り降りが見るからに多かった。土曜日の昼だけあって混雑した人を抜けるために、何も言わずに翔はゆのに手を差し出す。離さないように、ゆのはその手を強く握る。
「アホだよ、翔は」
人混みに溶け込む声は翔には聞こえなかった。
傘を差して通った道を、今度は4人で固まって歩いていた。なにもない道と言われればそうだったが、一歩一歩が終わりを告げるように水の音を上げ、流れるように進んだ。
高校の前を通っても人の気配はなく、昨日までの慌ただしく煩かった日々が嘘のように思えた。雨で水溜りの出来たグラウンドに、青い空が映し出されている。ふと、名残惜しそうに前を歩いていたゆのがそんな景色を横目に歩みを止めた。
「ええと……茜ちゃん、先輩」
翔の手を解いてゆのは後ろを振り向く。翔も少しだけ顔を向けると、2人に深く頭を下げていた。
驚きで茜と佳恋は目を丸くする。
「本当に……迷惑かけて、ごめんなさい。きっとそんなことないって言うのはわかってます。私が4人の居場所を壊したのに、許してくれてると薄々感じています。でも、それでも、私は人が怖くて、人と話すのが怖くて。そんな私なのに、嫌なんてひとつも言わずにこうやって一緒にいてくれて、ありがとうございます!」
ゆのが顔を上げる。泣きひとつもしていない、力強い思いを乗せた声を響かせる。後悔を残さないように、ひたすらに話していく。
「これからもきっと迷惑かけるけど、また、文化祭の時のようにって、私を何かに誘ってほしいです。このリボンは絶対に離しません。ただのお悩み相談室があったことをこのリボンで覚えておきます。この日を大切にします。……私の帰れる場所になってください」
茜と佳恋は、顔を見合わせる。2人して何故だか少し笑いが込み上げてきてしまった。ゆのは頬を膨らませてちょっとだけ怒る。
「な、なんで笑うの!」
「かしこまらなくていいのに、ふふっ、八重山さんは本当はこんなにもしっかり者なのね」
「ゆのちゃん、茜はゆのちゃんがここ1週間で人が変わったなと思ったけど、よく見てみればいつも見てたゆのちゃんだったよ」
「ど、どういうこと」
茜も佳恋も何故か嬉しそうに笑い、困惑した声であたふたしているゆのに、翔は言う。
「もう、2人はゆのにとって帰ってもいい場所だよ」
「これからも仲良くしよう、ゆのちゃん!」
「わたしは卒業までだけど…八重山さんは木崎くんと同じくらい大事な後輩だもの。なにかあったらまた保健室に来てね」
茜と佳恋も、笑顔でゆのを迎える。その表情に、堪えていたはずの目がなにかで霞むような気がして、ゆのは目を閉じる。恥ずかしくて、嬉しくて、そんな胸の中に詰まるような思いが身体を巡っていく。2人のその抱きしめるような気持ちが心に熱を与える。
「ぁ……わ……私……いていいよって言われたところから逃げたのに、なんでそんなに……」
「八重山さん。女って、秋の空くらい気まぐれなのよ」
「それは、諺的には間違ってますよ、先輩……」
「知ってるよ」
佳恋はからかうように言った。ゆのは、ただただ下を向いて無意識に流れる思いを落としていく。
翔は、こういう世界があるのだとは思っていなかった。ゆのが誰かとまたこうして仲良く、そして友情のようななにかに繋がれる日々がくるとは。必死にしてきた自分のことが、一気に否定されて、どこか心地よく思えた。だから、こうしてみんなを見て。
「ゆの。みんなと出会えてよかったな」
「うん。翔にも、会えてよかった……」
みんなの気持ちに触れて、変われたゆのはきっと。手を離してももう大丈夫なのだと思った。
「寂しいな」
誰にも聞こえないように呟く。胸に残るなにかを残して。
○○○○○
湿った空気が辺りを包む神社には、鳥の鳴く声や木が揺れる音で溢れかえっていた。思えば、近所の神社故にあまり認識をしなかったことが多かったと翔は思っていた。佳恋と訪れた時には感じなかった優しい音が、ゆのや茜がいることでうるさいのも気にならない。
寄りたい先、着いてすぐにゆのが賽銭を入れて手をあわせる。後ろに纏めた髪が緩やかな風になびく。それに合わせてみんなもひとりずつ参拝をして、境内をゆっくりと歩く。
「ねえ、翔。ここに来たらいつもこうしてゆっくり歩いてたよね」
砂を踏む音が心地よく刻む。
「私たちはゆっくりでいいんだ。ゆっくり歩いて、ちょっとずつ近付いて、時々走ったようになにかをして。小さい頃から、そうしてきた」
ひとりで木の椅子に座った佳恋の方を見ながら、ゆのは翔にひとつずつ言葉を紡いだ。
「きっと忘れちゃいけなかったんだよ。満天の星空が、教えてくれた気がした」
遠くで楽しそうに砂利を踏み音を鳴らす茜を見ながら、ゆのは翔の顔に指を伸ばす。ゆっくりと鼻にあてられた人差し指に、翔は少し頬を緩めた。
「ねえ、翔。ここからは翔ひとりの気持ちの話。私はなんとなくわかってしまってるけど、茜ちゃんと2人きりで話してほしいの」
「なんで突然そんな」
指を離し、後ろに手を組んで前を少し歩く。ゆのはどこか苦しそうに言った。
「きっと、翔なら私があの教室から逃げたわけがわかるから。茜ちゃんはきっと私よりも強いから、めげないとは思うけどね。じゃあ、私は川島先輩のところ行くから、後で来てね」
「ちょ、ちょっと待っ」
背中がなんとなく、届く気がしなかった。翔は仕方なく楽しそうな茜の方へ向かう。
ゆのは、ただ景色を眺めて座っていた佳恋の隣の席に座って話をする。
「翔、びっくりしますかね」
「わかって言ってるでしょ?木崎くんはきっと」
「わかってますよ。でも、伝えなきゃ伝わらないのかもしれないです」
「ちゃんとみんなに伝えられなかったわたしたちだもんね」
佳恋もまた、自分の秘めたものをみんなに伝えたから。
「不器用ですもんね、突然晴れて見えるいつしかの星空みたいに」
ゆのもまた、自分の心に支えたものを吐き出したから。
小さく笑う。
最後はあなたの出番だよ。そう思って。
「佐口」
「う、うわっ木崎先輩!?ど、どうしたんですか?」
突然後ろから声をかけられて驚いて跳ねる茜に、翔は頭を掻いた。
「なんかゆのに、佐口と話をしてほしいって言われて」
「ゆ、ゆのちゃん……!このためにここに連れてきたのか……ちゃっかり2人きりに……後で……」
「ええと」
茜がぶつぶつとなにかを呟いているのを、翔は苦笑いする。その顔に気付いた茜ははきはきと喋り始めた。
「その顔、何回したかわかります?すごく何回も見ました。悪いとかじゃなくて、ちゃんとみんなの話を聞いて、ちゃんと考えて。茜の意地悪な言葉にもそうやって優しく返して。茜が一番木崎先輩のその顔を見たと自負も出来ますよ。それくらい、茜は木崎先輩に無闇に突っかかって、茜はなんだかんだ楽しい時間を過ごして」
深く息を吸った。今になってなんとなく、森の中の空気もいっぱい吸っておけばよかったなんて後悔をしながら落ち着けるように息を吐く。
「茜はすごく現実主義者です。理想なんて掲げるつもりはないし、見えているものにしか言えないのもそのせいです。だからわかるんです。木崎先輩は茜を絶対に傷つけないように優しいって。でも、先輩。今から言う言葉には、偽りなく、答えてください」
見つめられた瞳の奥、煌めくルビーのようなものが、熱になって翔に伝わる。一世一代にかけるような、その熱情は。
「わかった。ゆのにも、佐口は強いから、って言われたし、言うよ」
「ありがとうございます」
もう戻れないと思わせて、逃げたくて、心が引き返すのを許しはしなかった。目の前に見える、茜よりも身長の高いその顔を見上げて。
「茜のこと、どう思いますか」
「ちょっとうざいけど、いいやつですごいやつだよ。誰とでも仲良くなれるし、きっと佐口がいなかったら今回の旅行も無理だったくらいで、感謝もしてる」
次々と褒められてにやけそうになるのを堪え、次へと進む。
「……意地悪言われるのは、嫌ですか?」
「ゆのに小さい頃からされてるから、別に気にしてないな」
「茜は、自分で生意気な自負があります。木崎先輩と一緒にいると楽しいから、なんだかすぐにそういう言葉を出してしまうんですよね」
「いいんじゃないか、俺からしたらもうそれが佐口らしいと思ってるよ」
「っ……茜はこれからも木崎先輩に突っかかる自信があります」
「ゆのの代わりにでも話し相手になってあげるよ」
「そうやって優しくされると、茜は困ります……茜は、木崎先輩をもっとアホだって思っていたいんです」
貶しているようで、それは違う。目の奥を見れば、きっとそれはただの形容で、思いは他にあるのだと翔にはわかる。それはまたゆのと同じようで。
「ゆのにいつの間にか似たな。ゆのも佐口に影響されてるし、本当に仲良いんだな」
茜はどこか恥ずかしく、悔しくなる。微笑みたくても上手くできないほどに、風に揺られ、胸に秘めた思いが騒ぎ立てる。
「木崎先輩は……ゆのちゃんが大好きなんですね……」
「川島先輩ほどじゃないけど、きっと依存のような何かだろうな。目を離せない人だよ」
「茜も、ゆのちゃんが好きです。大事です。だから、木崎先輩がゆのちゃんを泣かすのは例え茜より仲がよくとも許しません。守ってやります、これからも」
「そうしてやってほしい。佐口になら安心して頼めるよ」
「……先輩は、茜のことをいい人に見過ぎです……だからですよ、きっと……」
茜が目を合わせるのを恐れるように俯いたが、首を振って、もう一度と勇気を振り絞って翔に溢れてきそうな顔を向けた。
"もしよかったら、未来の茜はもっと素直になれますように。"
神様に心からのお願いをして、最後に口を開く。
「木崎、翔さん。最後にひとつだけ、しっかりと聞いてほしいです」
頭の中が真っ白になりそうなほど、心が痛いほど高鳴って、鳴り止まない。結果はきっとわかってても止まるなと、背中が風に囃し立てられる。
──茜の先輩は、バカです。
「好きです」
……顔が熱を帯びた茜の顔が、翔に直に見えている。
たったひとことだった。それが、翔の下から上へと瞬時に駆け巡る。少しの止まった風が、2人に時間をもたらす。
「……なんで……いつから……」
理解が追いつかなかったように、困惑の表情を見せる。思いもよらないという感じが、茜にもひしひしと伝わってしまう。
「気付いたら、好きでした。きっと茜の自分勝手にちゃんと付き合ってくれる優しさとか、そんなんかもしれないし、全然わかりません」
「てっきり、嫌われてるかと思ってたのに」
「恥ずかしいじゃないですか、木崎先輩の顔を見るたび心が苦しくなってしまうのを見られると」
「その、なんていえば」
「なに言われても困りません」
真剣な茜の心に触れて、翔も腹を括って言う。
「気持ちは、すごく嬉しい。ありがとう」
「っ……バカ、アホ、ちゃんと言わなきゃわかりませんか……じゃあもう、いいです……付き合ってください」
きっと答えは勘付いていて、わかってても聞きたいという気持ちを感じて、翔はその気持ちに精一杯の笑顔で答えることにした。
「ごめん」
「知ってました……よ……」
無性に腹が立って、茜は拳を握って翔の胸を殴る。翔は止めもしなかった。
「ずっと、好きですから……」
アホには聞こえないほどの声で、小さく呟いた。強がらなくても涙は不思議と流れはしなかった。清々しい風が2人を包んでいく。
「帰ろ、ゆのちゃん」
気分がよさそうに帰ってくる茜を見て、ゆのも佳恋もなんとなく気付く。そんな強い子だって知っている。
「うん、帰らないとだね」
詮索しない優しい言葉が茜に響く。そのあと後ろから付いてくる翔を見たゆのは立ち上がり、伸びをした。
「八重山さん、わたしたちも八重山さんの家に行くから案内してね」
「別にそんな、ほんとに来てもらわなくても……」
「八重山さんの悩み相談を解決して、相談室の延長はおしまいだよ」
佳恋は優しく笑う。
「あ、今からゆのちゃんの家に行くんですか?茜も行きたいです!」
茜の強がってもいない清々しい声を聞いて、ゆのは少し頬を緩めて仕方なさそうに息をついた。
「じゃあもう、みんなで行こう。お母さんもお父さんも、きっと怒ってるから知りませんよ?」
「わかってるつもりだよ」
「伝えようとしなかったゆのちゃんのせいだよ」
「あはは、そうだね。行こっか」
くるりと、スカートを靡かせて翻る。歩いていく背中はいつもよりも気丈で、強く思えた。
「茜は、そんなゆのちゃんが好きだよ。そんなゆのちゃんがいてくれれば、茜も強くいれるから」
だから離さないでほしかった。茜は風に押されるままに、ゆのへと歩み寄っていった。
ただ、木崎翔への思いだけは、負ける気はなくって。
○○○○○
翔が少し後ろから付いてきているのはきっと茜のことだろうと、ゆのは感じていた。ただ少し、嫌な気持ちはある。
翔を前に呼ぼうとも思ったが、きっとあまり気に乗らないのだろうとも思う。ゆの自身、そういう翔の他人にばかり気を遣うところで喧嘩もしたことをはっきりと覚えている。仕返ししたことに翔も気付いていると思っていた。なにか気の利く言葉を探していても、なんとなくダメだダメだと首を振ってしまう。
坂を下り始めると、上から望む街並みが映えてくる。翔とゆのは帰ってきたことのなんとも形容し難い心がふわりと浮いた気持ちにさせた。翔の前を歩いて話す2人の姿は、どこか楽しそうで。茜のことを考えてしまうとどうも落ち着かなかった。
はぁ、と大きくため息をついたのを聞いた茜は、翔の方を向いて立ち止まった。そうやって誰かのことで悩む姿は、茜はあまり好きじゃなかった。
「木崎先輩。ため息をつくくらいなら茜と付き合ってください」
大胆な告白だった。一緒に立ち止まった佳恋もゆのも、その言葉一つでなんとなく察した。
この子諦めてないんだな、なんて。
「意味わかんねえよ……アホか」
「アホは木崎先輩です。そんな顔するのはやめてほしいんで……ってもう、立ち止まるくらいしてくださいよ」
その横を通り抜ける翔は、少しだけ笑っていた。茜もそれを見て、まあいいや、と呟く。
「ほら、いくぞ、もう少しだから」
前を歩いていく翔の制服は、あの時に落として汚した土が少しだけ取れずに残っている。茜の一番の思い出のような気がした。
「翔。待って」
駆け足で翔の隣に並んだゆのは、ふと思い出す。
「こうやって、2人で並んで歩くのはいつぶりだろ」
「1年以上経つなぁ思えば」
ずっと引っ張られていたから、ゆのは何故だか久しぶりに思えた。この坂は2人の運命を導いているような気がして、並んで歩くと気恥ずかしくなる。濡れていたアスファルトの道が、徐々に乾いていっている。
「やっぱり、茜ちゃんの気持ちを受け取らなかったね、翔は」
「いや、なんというか……」
「どうせ私と同じになるって思ったんでしょ。本当にアホ、だよね。茜ちゃんの言葉を借りると」
「だからっていなくなるまでしなくてよかっただろ。みんな心配するんだから。茜も望んではなかっただろうし」
「難しいね。仕返しのつもりだったんだけど……」
少し違っても、好きな人と一緒にいることが一番いいという翔の思いへの仕返しは、はっきり成功したか失敗したかなんて2人にはわからなかった。意味のないことではなかったと思うことすら難しかった。
「そう、茜ちゃんが翔のこと想ってるってわかったのは、ラテアートに書いた文字を見たときだよ」
「なんでそんな時にわかったんだ……」
「あのね、一番似合う言葉を書いてって言ったの。そしたらすぐに書き始めて、かな」
ちょっと難しいね、なんて笑ったゆのは間髪入れず話を続ける。
「告白されて、どう思った?」
「なんで好かれたのか全くわからなかったな」
「どっちのことかな?」
自分の言っていたことと同じようなことを言われて、いたずらっぽくゆのは笑った。きっとそれは。
「ゆのらしいな。挙足取りが。茜とは違うな」
「っと、思えばなんか変な気になると思えば、茜って呼んでるよね」
にやりとしたゆのに言われて翔ははっとして顔が少し赤くなる。
「な、なんか、茜って呼ぶなら許すって言われたから……」
ゆのは何故だか可笑しくなってしまう。縮まったのかどうなのかわからない2人の関係は、ゆのにとっても面白かった。
「ちゃんと呼んであげてね?翔の未来のお嫁さん候補なんだから」
「やめろ。お前は母親か。というか断ったのに」
「普通断った後にもっかい付き合ってとか言われないよー、ほんと、翔は、ふふっ」
翔のことが面白くてまた笑ってしまう。ゆのが明るく、そして楽しそうに笑うせいで、翔は調子が狂わされる。
「まぁ……今は無理だな。佐口。茜は可愛いと思うし、いいやつだと思うけど、今の俺じゃ悲しませるだけだ」
「あ、ねぇ、翔。私気になってたんだけど、川島先輩のことはどう思ってるの?」
「どうって……今はただの優しい先輩だよ」
ゆのはちらりと後ろから歩いて付いてくる2人を見る。なにか面白そうに笑っている2人と目があって、2人が笑顔で見返してきたのに対してゆのはすぐに顔を前に戻した。
「私、川島先輩のこと信じられなかったんだけど、今はなんとなくわかるんだよ。自分のために誰かを助けるってなにも悪いことじゃないもんね」
「それも、そうだな」
「深く気に入られてるみたいだったけど、あの人もお嫁さん候補に入れるの?」
「その候補はなんだよ……」
「あれ、違うの?」
ゆのは不思議そうに首を傾げた。翔は言うか悩んでいたことを、ゆのに聞かせることにした。
「はぁ……ゆのに彼氏が出来た時、俺はあの人が好きだったんだよ。秘密が出来てからあまりになったけど」
「そっか。あれは翔には重すぎたか。でもやっぱり、あの人は見た目なんかは魅力的だし、女の子からも人気あったもんね。格が違うよ」
「今こうやって一緒にいるのも同一人物だけどな」
ゆのは口角を上げた。なんとなく、翔が出会った人はこの人でよかったと思った。
「翔っておっぱい好き?」
「アホか」
翔がゆのの頭を叩き、ゆのが身を屈めて押さえ翔を見る。ゆのの見た翔は、どこか心に安寧のある笑みを浮かべていた。
「笑った。おっぱいが好きなんだ」
茶化すように言って、もう一度振るわれる腕を躱すように何歩か前に出た。ゆのは、今度は私が翔を連れて行く番だ、と思いくるりと回って笑顔で手を差し出した。
「私はここで泣かないよ。喧嘩して、約束して、次は私は宣言します」
立ち止まった2人が顔を見合わせる。坂で合わせる顔は、前の2回とは逆だった。
「きっと、いつか、また翔が大切に思う私になるから」
「バカだな」
その、翔より一回り小さな手のひらが、翔は堪らなく愛おしく思えて。
──小さい頃に星を見て、誓った。一生この星を輝かせ続ける、と。
途絶えられることのないよう、心にリボンを結ぶように2人はまたこうして手を取り合って進んでいく。誰かの思いが絡まって、より強固なものになっていくのも感じながら。
あの星空の下での思い出ははっきりと覚えてはいなくても、繋いだ手だけは覚えている。いつまでも一緒にいられるように離そうとはしなかった幼い頃の2人はもうきっと、隣にいない日々なんて考えつかなかったのだろう。
小さい頃からずっとだった。どこかへ進むゆのの後ろを翔は嫌とも言わずに着いて行く。それが普通で、なんの変哲もない日々だった。またそんな日々が来るのなら、それでよかった。
きっとこれは、"ただの幼馴染"のお話。
形容がしにくいその2人の間を、陽光の煌めきが通る。酷く目を取られるように美しかった。
最初から非現実のような日々を、2人で過ごしてきた。その実感をまた帰結するようにここで──。




