<5>
ゆのが、どこかに行った。茜がゆのに言われてお茶を買いに少し席を外して、帰ってきた時にはいつもいたはずの机の上に赤いリボンがひとつ乗っていただけだった。
「木崎先輩、すいませんでした!アドレスとかも持ってませんし、茜はまた……」
「っ……」
なにも言わずに唇を噛み締める翔の横顔を、佳恋は見る。自責、後悔、そんなものが茜にも佳恋にも伝わる。茜が自分の身体を抱いたのを見て、佳恋は翔よりも先に茜を見る。
「佐口さんはとりあえず体を拭きなさい」
「でも」
「でもじゃない」
「……わかりました」
佳恋の力強い瞳に茜は折れる。
「わたしの鞄の中に一枚タオルが入ってるから、それを使って」
「じゃあ……木崎先輩。ゆのちゃんを、探してきて、ください……」
茜は少しずつ声が弱くなり、くしゃみを一つする。
「はやく、風邪引かれたらわたしも困るんだから」
「すいません、戻ります……」
そう言って、茜は拳を握ったまま悔しそうに2人に背を向けた。翔はなにも言葉を発さないでいた。佳恋は、もう一度その手を掴もうと伸ばして、手を添えた。
「え……っと、先輩?」
「ダメだよ、木崎くん」
触れられた手を感じて振り返った翔に、佳恋は俯いて話す。自分の大事な相手に言うことは、きっと彼にとっても苦しいことなのだとわかっておきながら。
「木崎くん……八重山さんと佐口さんが前進して、わたしにもあんなこと言ったのに、貴方だけそこだけは全く前進出来ていないじゃない」
「いや、俺はちゃんと……」
「違う。どんなに自分が変わったと思っても、最後は使命感で助けるだなんて、それはわたしと同じただの依存じゃないの」
「ぅ……それは……」
「八重山さんのため?そんなのは、違う。言い返すわ。もう1年になるから、わかるんだよ?」
佳恋はもっと強く握った。強く、優しく。
「だから……依存じゃなく、八重山さんを見て」
翔の手の力が抜けていくのを佳恋は感じる。その手を両手で包むように握って、胸の前へ引く。翔は少しだけ柔らかさが伝わって恥ずかしくなる。
「ええと……」
「辛くなったら、わたしを好きなようにすればいいんだよ。なんてね」
恥ずかしそうに、そして苦笑いで解れた顔をした翔を見て、佳恋は優しく笑った。
「さ。探しに行って、八重山さんを。木崎くんが思うところで、きっと待ってるよ」
少し顔を赤くしていたままの翔の手を離し、後ろに回って背中を優しく押す。その、自信のあるような思いは、翔をもっと強く押した。
湿った校舎の足元を忘れたかのように迷わずに飛び出した翔の背中を見届けて、佳恋は戻るべきところへと戻ろうと身体を回した。まずはちゃんと佐口さんを暖めて、4人で集まったら、ちゃんと話をしようと胸に決めて、両手を胸に押し当て、誓う。
知っている場所は、たぶん一つしかない。きっとあの場所は校舎が屋根や障害となって雨にも当たらない。何度も何度も、2人で話をしていた場所。あの教室とはそんなに離れてもいないから、きっと。
翔は、胸の中で大きくなったものを感じた。使命じゃなくてもゆのを考えれば考えるほど、大きくなっていた、ずっと助けようという気持ち。きっとあの帰り道で受け取った強い手のひらの思いが、佳恋に握られたことでまた大きく思い起こされた。校舎裏に出るための扉を開けて、いつも自分が座っていた場所を見た。そこで遠くで開いた扉の音に反応して、ゆのが出てくる翔を見て。2人の顔はまだ見えない距離でも、翔は先にいるゆのがどんな顔をしているのか、わかった気がした。
一歩ずつ、強い雨の音をこもらないで耳に入れて進む。ゆのは翔が自分の目の前に来ると、あの頃のように隣に小さな空間を作った。
「翔か。やっぱりバレた?先輩との話はついたんだ」
翔はゆのの隣に立ったまま座らず、ゆのの方を向いたまま。
「ゆの」
「あ、そういえば翔。茜ちゃんからなにか言われた?この感じだとなにもかな」
「ゆの、勝手にどこか行くなよ」
ゆのは翔の方を見ない。どこか儚げに、外の景色だけを眺めるように、ぼんやりとして返事もしない。
「あのね、私、色々思ってたんだよ。昨日がすごく楽しくて、今日もそうやって楽しく過ごせるかなぁって思ったりね、後は」
「ゆの!」
その強い声にゆのは振り向く。そのなんとも言わせない深く落ちそうな笑みが、翔の口を閉じてしまう。
「翔。座って?」
「……わかった」
そう言われて濡れていないそのコンクリートの床にゆっくりと座る。肩が触れ合わないのに近い、微妙な間隔。2人はそのまま前を向いて、目を合わせない。
「なんでこんなところにいるんだよ」
「嫌なことがあって逃げたのは初めてじゃないよ。それに翔こそ、なんでここに来たの?」
「俺は、ゆのが教室からいなくなったって聞いて、なにがあったのかと思って心配だったんだよ」
翔が怒っているのはゆのにも明白だった。それでもゆのは怖気つかずに話を続ける。
「そっか。私にもそういう人がいるんだよね。お母さん、お父さんとか、後は茜ちゃんも川島先輩も、それに翔も。きっと茜ちゃんもいなくなっててビックリしたんだろうなぁ」
「じゃあ、なんでこんなことしたんだよ……」
「あのね、翔。私は本気で言うよ」
振り向いた翔とその目を合わすように身体を回したゆの。その行為はゆのにとっては勇気のいる、正面での会話。それほどに、話すことは重い。
「最初から、いない方がよかったって思ってしまった……」
目を合わせてか、涙が溢れていく。涙を隠したくても泣きつける場所もなく、ただ周りの草を濡らす雨のように、無機質色の足元を濡らしていく。
「なんでだよ、そんなこと」
「そんなことあるよ……!私がいなけりゃ、こんなに色々なことにならなかったのに……!」
そうやって自分を貶すように、言葉を吐き出していく。
「そりゃ、私だって楽しかったよ、昨日とかもさ。でも、でも……私のせいで企画が潰れちゃって……台無しじゃん……私あの教室でみんなと一緒に入れるだけで嬉しかったのに、それまで壊されると、思ってなかった……」
「そ、そんなの……」
苦しそうに吐き出した声に、翔は言葉が詰まる。ゆのの悲痛な叫びが聞こえて、翔の胸の奥が炎を上げるように熱くなる。
「悔しいよ……翔……っ、私のせいで……」
なにも言い返せなくなる。全てを見通したような目と下を濡らす雨が、翔を竦ませる。
「それでね、最初から私がちゃんと文化祭に行く理由言っておけばよかったって、後悔したらね。もっと前のこと思い出したの。私、自分に自信ないからずっと翔に頼ってたけど……本当は、あの時のわけわかんないって、自分が周りから好かれることがわからなかったんじゃなくて、翔が私と一緒にいる毎日と、いない毎日が、わからなかったんだよ……」
頭の中から離れなかった自分の言葉を、ゆのは告白した。翔の中にその言葉が蘇り、肩を震わせてしまう。
"だって、私がこんなに好かれるの、わけわかんないから"
そもそも違ったことを思い知らされる。それはゆのの性格そのものな気がした。
「お前、それ……」
「私、翔と一緒に学校に入れて嬉しかった。でも、あの人と付き合ってやっとわかったの。翔は私をすごく大事にしてくれてるんだ、って。だからきっと心配してくれてるんだって」
最初から、ゆのは翔のことを見ていた。そして翔もゆのを見ていた。誰かと付き合った後にも心配をしてくれていて、こんなにも"翔から"好かれているのは、ゆのには意味がわからなかった。
「少し、意地悪だったんだよ。私、前からずっと。だから隠すような言い方をして、自信を持っていいよって言われたから、翔に話しかけてたのに」
「それなのに、俺が突き放したのか……」
「だから、最初から、翔はなんでずっと私を大事にしてくれるの?って、言っておけばよかったって、後悔、する…………」
留められない雫が、強く強く降り注ぐ。土砂降りの雨が時々弱まっても、そこだけはおさまる気配はない。
「じゃあ、悪いのは、俺もだ……ゆののためにと思ってゆのを遠ざけようとした、俺の……」
ずっと、自分の正解だと思っていたことが間違っていたことの事実に、翔は後悔する。後悔が濡れていく足元のように心に染まっていく。
「知ってるよー……翔はそういう人だもん……でも、ショックで……あれからなんだか気まずくて話しかけられなくなって……」
ゆのは食いしばる翔を見て、顔を下げて涙を拭いた。そうして、座り直してゆのは翔の手を自分から握った。
「私たちの、罪なんだね」
心から溢れてたまらない、ゆのの意地悪な言葉が翔の心を強く押し付けて、なにかを崩した。握られた手をそのままに、ゆのを地面に押し倒す。こんなこと、どこかの誰かのせいだと翔は少し思った。
「ちょ、ちょっと、翔……?」
涙が零れたままに下に倒されたゆのは翔とまた目を合わせてしまう。そこには真剣に、実直にゆのを見る、涙を溜めた翔がいた。身体は自由に動けなく、ゆのは力を緩めて涙を拭くこともなく優しく笑う。怖いはずのに、なにも怖くなく思えていた。
「絶対に許さない。絶対にだ……!」
「うん」
「お前がいなくなったら、俺はめちゃくちゃ嫌になるんだよ……これは使命感なんかじゃなく、俺自身が思ってることなんだ」
「うん」
「なのに、俺のせいでみんなの前からいなくなるとか、本当に辛いだろ……!せっかくお前のために色々やってきたのに、突然無理して付き合わなくていいとか言われたり、いない方がよかったとか言われたり、本当に自分勝手なんだよ、お前……!」
「うん」
「めちゃくちゃ嫌だったんだよ、ずっと。ずっとお前は俺の前にいるのに、俺を頼るときもあって。もっと憧れたお前のままでいてくれりゃよかったのに……今だって、お前はそうやって俺にそんな優しい顔を向けて、本当は思うところもあるはずなのに、強がってさ……」
「……うん」
「そんな顔が、もう出来るようになっててさ……」
「人の気持ちに触れるってすごいね、翔」
ゆのの頬に涙が落ちる。堪えられなくなった翔からまたひとつ、落ちてくる。
「お前はアホだ……ゆの……」
「うん」
「全部、お前のせいでずっと後悔したままだったんだぞ……」
「うん」
「強がっても、涙が止まってないぞ……」
「翔の涙と同じだよ。翔と、同じだよ」
翔が涙を拭いたその手を、ゆのが掴んだ。翔は驚いたが、絡まる指に気を取られていく。
「私ね、ずっと嫌だったんだ、翔と離れるの。なんでだろうね、別に恋愛的に好きってわけじゃないのに。ずっと一緒にいるのが普通だと思ってたよ」
ゆのが指を絡めた手を引いて、翔を近づける。心臓の高鳴りを聞かれてしまいそうな距離。
「あの人には悪いことしたなぁって思ってるよ。彼氏なのに、翔のことばっか話して」
「ゆのは悪くはないだろ……」
「ううん。翔と口を利かなくなってから、私はあの人にもっと迷惑かけちゃった。一緒にいる時もずっと翔のことばっか相談して、他の男の名前ばっかり出されてタガが外れたんだろうって。最後には、俺とどっちが大事なんだ、って言われて私なんて言ったと思う?」
「……なんだよ」
「"最初に頭に浮かんだのは、翔かな"。って、言ったよ。もう、あの時を思い出すたびに、自分が……悪いって……」
手が震え始めたのが、その言葉を聞いた翔に伝わった。思い出せば思い出すほど、ゆのは自己嫌悪とトラウマで、恐怖が頭に張り付く。また、雨が強くなった気がした。
「それでも……私はずっと翔を信じてたよ……?一緒にいた時間が長くて、優しくて、私の一番大切な幼馴染」
解かれる手を感じ、翔は強く打ち付ける鼓動を抑えるように身体を起こし、自由に動く手でゆのの流れる涙を拭おうとして、頬の前で止まる。
触れるのが怖かった。
それを感じて、ずっと強がって声を上げなかったゆのが、ひとつだけ弱く声を上げた。儚い、笑顔。
「翔がずっと繋いでくれてたら、私は安心出来るよ」
そのひとことをもらって、翔はゆのの涙を指で優しく拭ってあげる。とめどないそれを拭いながら、翔は話を始める。
「もう、最初からいない方が、とか言わないでくれ……」
「私はずっと、思ったことを言うよ」
「もっと、他人に迷惑をかけたことを反省してくれ……」
「反省出来たらね」
「一生、許さないからな……」
「うん、一生ね。私も、翔のせいで彼氏が作れないの、一生許さないから」
そう言葉を交わして、深く見つめ合った。ずっと握ったままの翔の手を、ゆのはまた強く握り返した。
○○○○○
2人して、さっきよりも少し離れた場所に座る。雰囲気が2人を近づけ、通った人の声に驚いて即座に離れてしまった。少しだけ距離が近づいてしまったせいで逆に気まずくなり、言葉を交わすのも気恥ずかしくなっていた。ゆのが崩れた制服を直しもせず、片足の先を雨にあたるギリギリにまで伸ばして、落ちる雨で濡らして遊んでいた。なにも話はまとまっていない。
「ねえ、翔」
足に落ちる雨を見つめたまま、ゆのは声を出す。穏やかで、落ち着いた声。
「お腹空いてない?」
「……まあ、空いてる」
昼が過ぎていて、なにも食べていないことに気がつく。ゆのもお腹が寂しくなったようで、翔にそれとなく聞いてみた。
「食べないの?」
「戻ったら買いに行く」
「そっか」
雨の音だけがまた聞こえ始める。少しの間だけ、なにも喋らず、次は翔が口を開く。
「帰らないのか?」
「帰れないよ。もう、あの教室にも、家にも」
「2人も、家族も、待ってるぞ」
「だからだよ」
翔はため息をつく。頑なに曲げないゆのは、自分がいたらダメだという意識を捨てされずにいただけだった。
「まあ……どうせどっちにも帰らないとだけど……」
「終わってから鞄取ればいいし、翔の家に住めばいいんだよ。翔のお母さんなら許してくれないかな?」
「ダメだろ。ちゃんと帰れって言われるに決まってる」
「うーん、じゃあ、2人でもっと罪犯そっか?」
ゆのが少しいたずらな笑みを浮かべた。
「2人でどこか遠いところへ行こう?」
逃避行。駆け落ちのようで、なにかが違う、そんな、ここからの逃げ。
「それもダメだろ……」
「小さい頃、星を見に遠くへ出かけたの覚えてる?」
翔も忘れるはずのない、あの日は特別な日だった。あの頃から、2人はきっと一生一緒にいようと、誓っていた。
「今から行こ。どこかはよく知らないけど、電車に乗って、揺られて、2人で手を繋いで降りた駅の名前だけは覚えてるから、きっといけるよ」
楽しそうに、思い出を語っていた。翔はその横顔がまた眩しく、その日のことを思い出してしまった。本気で語っているのだとわかって、それでも。
「行かないよ」
壁に背を預けて、翔はゆのを見ないように上を見上げて屋根から落ちる雨粒を眺める。ゆのはそんな翔を見て、悲しそうに笑った。
「まあ、だよね」
ゆのも、足を引っ込めて丸まり、上を見上げる。空は曇っていて晴れる気配もなく星も見えそうにない。手持ち無沙汰を解消するように、解いた後ろ髪をもう一度纏めて、手を離す。伸びた髪が雨か、涙か、少し濡れたままバサリと元に戻っていく。
「佐口も、先輩も、きっと帰ってきてくれるのを待ってる。お前の親も帰るのを家で待ってるぞ」
「あ、もう話したの?お母さんとお父さんとも。2人とも過保護でしょ?鬱陶しいくらいに」
ゆのは皮肉げに言った。
「知ってるよ」
翔も皮肉げに返す。2人して上を見上げたまま、少し微笑んだ。
雨音が弱まってきた気がした。沈黙らしい沈黙が2人を少しだけ縮める。
「茜ちゃんから話は聞いてないんだっけ?」
「なんの話かわからないから、多分聞いてない」
「そっか。多分、私がいない方がいいって言った理由は、翔にならわかるんだけど……仕方ないか」
そう言ってゆのは立ち上がる。スカートの汚れを払い、窓の中を覗いた。
「ほんと、元気になったよな……1年間も引きこもってたくせに」
「なんというか、もう引っ掛かりがないんだよね。翔と手を繋ぐのはちょっと怖いって思ったけど、昨日茜ちゃんに手を握られてから吹っ切れたって結構本当だよ?」
楽しまなくちゃ意味ないもんね。ゆのはそう呟きながらしゃがむ。翔は茜の言っていたその言葉を思い出し、またその顔が浮かんで苦笑いをした。
「佐口の影響すごいな」
「すごいよあの子は。それにいい子。きっと茜ちゃんがいなけりゃこんなにいきいきと、はきはきと喋れてないから」
嬉しそうに後輩のことを語るゆのは、きっと茜のことが大好きなんだと翔に思わせた。ゆのは足元を見つめたまま話を続ける。
「だから、茜ちゃんには幸せになってほしいなって思うよ」
横顔が、含んだ笑みをした気がした。翔は疑問に思って、まあいいかと呟いてしゃがみ直した。
「ね、翔。お願いがあるの」
「なに」
「教室には帰るから。家にだって、ちゃんと帰るから。だから……最後まで私を見てくれるなら、これだけはお願い。今から少しの間でいいから、私をあの日の場所まで連れていって」
真剣な声色だった。翔の方を向いて、真剣に目を見つめて。恐怖心を殺して、必死に言った。少し驚いて、翔はその後立ち上がる。
「家族に心配かけるぞ?伝える方法がない」
「帰ってからなんとかする。絶対に帰る」
「本当に行きたいのか」
「行きたい」
「きっとお前の親のことだ、大事になるよ」
「きっと、警察なんかにも連絡行くんだろうね」
「それでもなのか……」
「翔と、もう一度見てみたいの。あの日からきっと、私と翔は繋がったから」
「出来れば、また今度とかの方がいいんだけどな……」
「ううん、今日、また、初めからやり直そう。私と翔の、始まりを」
「……はぁ、もういいや、俺もなんだか、今更どうにでもなれって感じだ。両親にお前のことを頼まれたなら、なにしてもいいって捉えてやる。……とりあえずじゃあ、戻ろうよ、ゆのの帰る場所に」
その本気の気持ちを汲み取って、翔は手を差し伸べる。ゆのは少しだけ固まって、笑みを浮かべて手を取り、立ち上がった。
○○○○○
「はぁ!?2人で駆け落ちですか!?」
茜の大きな声が響く。佳恋もどこか仕方なさそうな笑みを浮かべて、ゆのを見ていた。
「そんなんじゃないよ。すぐに帰るし。翔とならなんともないから」
ゆのが荷物を纏めながら話す。
2人して教室に戻って、翔が必要な部分を話した。茜が泣きながらゆのに近寄っていたのを傍目に、ゆのが一度逃げた理由と話し合った結論、一度だけゆののワガママを聞いてやることを承諾してこの教室に戻ってきたこと。そして今からどこかわからない場所へと行くこと。
ゆのが鞄の上に置かれた赤いリボンを手に取る。
「ねえ、茜ちゃん、川島先輩。私、この4人でよかったと思ってるよ。だから、これからも仲良くしてほしいかなって」
そう言いながら、昨日と同じように腕に付けた。茜は、少しもじもじとした後に、付けたリボンのある方のゆのの袖を横から掴む。
「あの……私も、連れてってください。いや、連れてってもらうから。佳恋先輩もろとも」
「え?わたしも?ええと……」
「いや、私と翔で」
「許しません!この茜が許さないから!佳恋先輩も、今から行きますよ!どうせ明日は休みですし、少しくらい家に帰らなくても持ち前のおっぱいでどうにかしてください!」
「お、おっぱいじゃ無理だよ……」
あはは、と2人の会話にゆのが苦笑いをしながら翔を見る。止みそうな気配のある雨を見ていた、その窓に映る翔と目が合い、ひとつ頷きが返ってくる。翔はどうやってもどうせ付いてくるんだろうなぁと思っていた。
「本当に、来るの?私たちですら辿り着くかわからない場所なのに」
茜はゆのが困った顔で言ったそれを聞いて、いつもの自信のあるいたずらっ子の笑みをした。
「そんなの、この4人なら大丈夫だよ!」
茜には珍しい、不確かすぎる言葉だった。それはゆのとの一件で前進した、良くも悪くも茜の証拠だ。
「もう、わたしも行けばいいんでしょ?着替えとかどうしよう……」
「ずっと制服ですね!それもまた一興だと考えましょう!」
強引で、突発で、それでいてどこか信頼の出来る茜の言葉。みんなを引っ張る彼女が翔を見て、すぐに目を背けた。こみ上げる恥ずかしさがそうさせてしまう。
「とりあえず、佐口さんも準備したら?わたしはもう大丈夫だけど……」
そう言って、佳恋は自分の鞄を持ち上げる。授業もない日になにをそんなに持ち運ぶのか、そこそこの重量を醸していた。茜はそれを見て早急に身支度を始める。
「慌てなくても、さすがに待つよ……翔、お金どれだけある?」
「んー……出したら結構あると思う」
翔はゆのに言われて鞄を持ち、中身を確かめる。鞄のポケットに入っていた通帳の記載を確認してもう一度仕舞ってから、仕方なさげに笑う佳恋と忙しなく動く茜を見る。2人ともがなにも聞かないのは、2人らしく思えた。
「……あ、クラスの方に忘れ物あります」
「じゃ、それを取りに行ってそのままいこっか」
「え……来るの。いや、別に玄関で待っててくれても」
「わたしも見に行ってみたいなぁ」
「は、はぁ……わかりました」
そう、みんなが持ち合わせたものを纏めて出て行く、机も戻された教室に、最後に出るゆのは小さく呟いて戸をしめる。
「いってきます」
それはきっと、運命のようで。傘を差して4人で歩き、ゆのが家に帰るためにいつもの帰り道の逆を行く。ぽつぽつと降る雨が頭上で、足元で優しいリズムを奏でるのを、午後をサボった4人は楽しそうに聴きながら。ゆのと茜がいつものように隣り合って話すのを、翔と佳恋はその前を先導するよう歩いている。雨でも、明るく軽快だった。
「木崎くん。あまり聞かないでおこうと思ったけど、どうだったの?」
「なにがですか……」
「いや、真相を聞かされてないなぁって思ってねー。聞きたいこと聞けた?言いたいこと言えた?」
「……多分、2人のわだかまりは解消されたから、言えたんじゃないですかね……」
「そっかー、ちゃんと言えたの、えらいね」
佳恋は翔の傘に持った傘をぶつける。雨粒が飛び散る。子供を褒めるようなその言い方が、なんだか心地よく思えてしまった。
「……あ、でも、まだわたしのことみんなに話せてないね。4人集まったらちゃんと話そうって思ってたのに」
佳恋がそう翔に言うと、翔も笑顔で佳恋に返す。
「別にいつ話してもいいと思います。先輩はちゃんとしてくれると思ってますから」
「ふふっ、ありがとう木崎くん」
それほどに信頼ができる人柄はあると、翔は思っていた。その優しい瞳もきっと佳恋の本物なのだろうと思う。もう一度、傘がぶつかって飛沫を上げる。
「そういえば、どこまで行くのか聞いてないんだけれど……」
心配そうに声を出した佳恋。
「俺も、どこがゴールかあんまり……」
翔も困惑した表情を浮かべた。駅の構内に足を踏み入れながら、傘を閉じて後ろから来る2人を待ちながら、佳恋は少し周りを見渡した。
「あ、佳恋先輩。お腹すいたんでご飯なんか買っていいですか?」
「みんなそうだろうし、2人で買いに行く?八重山さんと木崎くんは、切符を買って待っててくれるかな?」
「わかりました」
2人分の傘を渡され、背中を向けて歩いていく姿を見届けて、ゆのはすぐに切符を買いに行った。
「私も翔も、電車なんてあんまり乗らないね。ここだよ、翔」
ゆのが路線を見渡して名前を探し、金額のボタンを押した。
戻ってきた佳恋と茜に渡し、そのまま電車に揺られていく。山奥に向かう道のりのせいか、少しずつ人が減っていくのを感じていく。
ざっと1時間ほどだろうと、茜が自分のスマートフォンで検索して他に知らせた。その時には疲れていたのか、はたまた食べ終わってお腹が膨れたからか、ゆのと佳恋は目を閉じかけていた。端に座って窓に肘をかけて頬杖をつく翔と、その反対で居心地を悪そうに足を動かしている茜は、ただ2人を起こさないようにと口を開かなかった。ゆのが翔に凭れ掛かりそうになっては身体を戻すのを繰り返すのを見て、起きていた2人は少しだけ笑った。
段々と緑が増えてくる。長い道をリズムを刻んで揺れる電車は今まで見ていた街並みの景色と程遠い、山奥を通っている。ちょっとした冒険気分に茜は浮かれて窓に張り付いて眺めていた。
「木崎先輩、めちゃくちゃ山奥ですよ、ここ!」
「見てわかるよ」
「見てわかるほど山奥に、4人だけで来るなんて初めてですよ!」
「普通はな……」
そんな2人の会話の間で、佳恋が目を開けて寝ぼけ眼のまま顔と腕を上げた。
「あ、起こしました?」
「んんー、っと、普通に起きただけだよー。あとどれくらい?」
言われて、その揺れた胸を鼻で笑ってから、茜はスマートフォンをポケットから取り出し、画面を覗く。
「うわ……電波弱いな。あと4駅とかですかねー、そろそろゆのちゃんも起こしておかないと」
翔が隣にいるゆのの肩を揺らすと、はっとして身体が跳ねる。それを3人に見られたことに気付き、顔を手で覆って恥ずかしがった。
「ゆのちゃん、おはよう」
「うう、お、おはよ」
こもった声を出す。可愛らしくて3人は笑い、ゆのは変な呻き声をあげた。
駅を見渡す。ここであまり人が乗り降りしていないのか、閑散として整備されきっていない無人駅だった。茜が最初に感想を言う。
「なんか、寂れてますね」
翔も、ゆのも、見覚えがあってなにかが違うと思った。
「なんかこう、もう少し……言い表せないけど……」
「とりあえず、その星を見たって場所探しましょ」
歩きだし改札を抜ける佳恋を追って、他の3人も揃って抜けていく。
山。
右も左もわからないのに加え、山の中を歩くことになる。記憶も頼りなく、これ以上は教えてくれなかった。
そこへ、傘を開いて差している茜が、踏み出さない3人の前に出た。可愛らしい赤色のカバーをした、いつものスマートフォンを持って。
「とりあえず、家がある方へ行きましょう!ギリギリGPSが届いてるんで、大丈夫だと思います」
「ごめんね、茜ちゃん、頼りきりになるかも……」
「大丈夫だよー、みんなで楽しむんです、みんなで!」
明るく言い放った茜が、示した方向へとみんなで歩いていく。先頭に立つ小さな背中が逞しく思えた。
「そういえば、他のみんながケータイ弄ってるの見たことないですね」
前を歩く茜のふとした一言に見合わせる。
「あんまり、見る意味がないっていうか……使い方が理解出来てないっていうか…」
佳恋の困惑が伝わった。それに合わせてゆのも少し躊躇いながら話す。
「私と翔は、持ってないんだよ」
「え……危ないからとか、言われないの?」
「いや……実際には持ってるんだけど……」
ハテナを浮かべる茜。ゆのはそれにちょっとだけ可笑しくなって笑った。
「実はね、2人ともケータイ壊しちゃったんだけど言ってないの。言わないでおこう、ってなったの。それだけだよ」
「当たり前のこと言うけど、話したほうがいいよ?」
茜が呆れたように2人を見る。あの日から2人と同じに壊れたままのスマートフォンは、帰ったら修理しよう、2人はそう思った。
車が時々通る道へ出た。人がいる安心感が妙に胸を刺激した。調べてもわからないらしかったのでそのまま茜のとおりに歩いて、街の人に聞いて、そしてひとつわかった。
「なくなってる……?」
「多分、その星が綺麗に見れるってところの近くの旅館、言ってるところはもうないかなぁ。いつだったかな、結構前に経営が出来なくなって閉めたんだったと思うけれど……」
虚しく雨が傘を打つ。呆然とした2人を、少し悲しそうに見つめる。
「じゃあ、山奥だから送っていくけど、行ってみる?星が見える天気でもないけれど……」
「どうするの……?」
翔とゆのは目を合わせる。諦めてしまいそうな気持ちがどこかしらに見えていた。
「やっぱり、いいです」
「そう、ごめんなさいね、遠くから来てくれたのに」
近くで見ない学校の制服を見たあと、そう言った。歩いてどこか知らないところへ向かうあの人の背中を見送った茜と佳恋が、俯く2人を見直した。
「なんで、行くって言わなかったんですか?」
真剣だった。茜は2人を思っていることも確かだったが、それよりもさらに怒りを覚えてしまう。
「だって、私たちは、あの場所が……」
「わかった……佳恋先輩、少しいいですか」
茜と佳恋が2人で話すために少し離れ、残されたゆのが翔の強く握られた拳に手を置いた。雨に晒されて悔しさが伝わる。
「ゆの。やっぱり、突発すぎたな」
少しでも紛らわすように悲しく微笑んでゆのを見る。
「失敗ばっかだよ……なんでもちゃんと考えて行動しないと……」
ゆのは俯いたまま、強く握る。翔も拳を解いて、手を握り返した。
「さ、行きましょうか、2人とも」
「え、どこに……」
茜がいつものように、可愛らしい子どものような笑顔をした。雨の中でも綺麗で明るく、それでいて無垢だった。
引っ張られるようについていくと、一軒の家の前に着く。知りもしないはずの道を軽々と進んでいく2人はどこか嬉しそうで軽快な足取りだった。インターホンを鳴らす。
「ええと、なにを……」
茜も佳恋もただ笑ってなにも答えない。翔とゆのは見合わせて首を傾げると、中から60をほどほどに越えたほどに見えるおばさんと、小学生にもなってなさそうな女の子が出てきた。
「どうぞ、上がって」
はっきりとした声が、4人の耳に入る。まだまだ元気なおばちゃんだった。
○○○○○
2人が調べて、電話をかけた。女将は旅館を閉めた後に近くの家に戻り孫と2人で暮らしていたらしく、丁度家の近くに4人はいたために茜が少し話を聞かせてもらえないか頼んだらしい。
「お姉ちゃん、身体びしょびしょ」
「あー、大丈夫だよー。ずっとだからねーうりゃうりゃー」
茜が女の子と戯れていた。小さな茜よりも遥かに小さくても、根は女将という職業者に似てしっかり者なのか気を遣うようにタオルを持ってきていた。4人の前に暖かいお茶が出され、ゆのは落ち着くために一口だけ飲んだ。あつっ!と声を出して茜と翔が小さく笑う。
「慌てなくていいからね。で、なにを話そうかな。あの旅館に泊まったことがあるんだよね」
「はい、多分」
「微かに覚えてるかもしれないね……ちょっと待ってくれるかな?宿泊の予約とかに載ってるかもしれない。名前は?」
「八重山と、木崎、です」
「あ、手伝います」
近くの押入れを開いて丁寧に整頓された中をひとつずつ出していくのを、翔が手伝う。それを後ろから、佳恋とゆのは2人並んで話して待っていた。
「よかったね、なんだか話自体は進んでて」
「そんな、本当に迷惑ばっかかけて……いなかったらどうなっていたか……」
「わたしは他の3人よりは付き合いも短いけれど……木崎くんの先輩だから」
それだけ言って笑顔を向ける。優しいゆのの先輩だった。
茜が伸ばした足の膝にお孫さんを乗せてくつろぎ始めた時に、予約簿に記された2つの連なった名前が見つかる。
「12年前……そんな前なのか……」
まだ小学生にも上がっていなかった事実に2人は少し驚き、翔は声もあげる。そして丁度これくらいの季節だったこともわかる。埃にまみれた表紙の触り心地が悪くて一度制服で手を拭き、もう一度見た。おばさんは2人してその名前だけを見るのを不思議そうに見つめていた。
「これを知って、どうするつもりなの?」
不思議と懐かしい光景が次々蘇っていた。断片同士が繋がっていき、それだけで、何故か心が満たされてしまいそうになる。きっとそれは自分たちの来た意味であった気がしたから。なにかが零れそうになる。
「いえ……なんというか、懐かしく思えて……」
「あ、そうだ。あっちに行ってみない?別に閉めただけで売ってないから使えるし、結構毎年意味もなく掃除もしてるから汚くもないし、泊まりたいなら泊まってもいいよ」
「え、いえいえ、そんなに気を遣わなくてもいいんですよ!」
「こっちこそ、なんというか、小さい頃に来た思い出で大きくなってから来る、って青春だなぁと思うし、そういうのは大事にしてほしいって思うから」
そこには儚げな何かを感じて、佳恋だけは首を傾げた。ゆのは申し訳なさそうな顔をして、茜はまだ女の子を抱いたままだった。立ち上がるおばさんを止めようとしている翔を見て、佳恋ははぁと息を吐いた。茜の湿ったままだった服を乾かすのを待つ間、少しだけくつろぐことにした。
後部座席で翔、ゆの、佳恋は少し狭そうに座っていた。茜は上に女の子を乗せて助手席に座ることになって、残った3人が4人乗りの車の後部座席に乗ることになってしまった。真ん中の翔は挟まれて動けなくなるのと同じに、雨の匂いに混じった2人の匂いに擽られて気まずくなる。目的地に着くまでゆのは雨降る外の緑を眺め、佳恋は前で楽しそうに話している2人を優しく見守っていた。
車が停まると、そこは2人に少しだけ記憶に残っている、古びた旅館だった。古びていても中はしっかりと綺麗で、掃除をしているのもわかる。
歩くたびに軽く軋む、木造の建物。とりあえずと1室に集まり、みんなで座った。
「あ、出せるものがないから、そこはごめんなさいね。晩ご飯は……」
「あ、こちらで用意しますんで、気にせずに。本当に部屋を貸して頂いてすみません」
「いやいや、気にしなくていいんですよ。宿泊用の客室として使おうと、一通り必要なものは揃っているはずですので、1人1室でもいいですからどうぞごゆっくり」
佳恋の対応とおばさんの返事に、いやさすがに……とゆのは苦笑いして呟いた。佳恋は、正座して机に向き直った。
「実はね……ここを閉めたのは、娘が病気で倒れてしまって。娘が継いでくれると思っていたのだけれど、かなり早くに逝ってしまってね……」
集まった4人に、色々な事情を話し始める。茜は隣に座った女の子を見るが、話は知っているらしく普通にいた。その子を少し抱きしめるようにして、おばさんは話を続けた。
「結婚して、子どもを産んで1年くらいで亡くなって……この子の父親は罪の意識を背負って出て行ってしまって……さすがにこの旅館を経営するのは難しいと思って閉めたのよ。5年ほど前かしらね」
「ごめんなさい、なにか事情があるとは少し勘繰ってしまいましたが、そんな……」
佳恋は考えていたことを深く詫びて頭をさげる。
「そんな、別にそこまでしなくてもいいのよ。ただ、早くに亡くなった娘のこともあって、もっといっぱい青春、みたいなものを味合わせてやりたかったという後悔があるから、って話をしたかっただけなので」
優しさに溢れる人だった。その包むような優しい笑顔が4人の心を温める。4人揃って、じゃあ仕方ないか、なんて思って、ゆっくりと過ごすことを決めた。
障子の向こうに見える展望のような場所が星が綺麗に見えるスポットとして隠れた人気だったらしいが、ど田舎にあるためにあまり客足がよかったとは言えなかったようだ。ただ、美人の若女将や人柄のいい女将に釣られてくる半分常連のような人もいたらしく、経営出来る程度には人が動いた、と話をされた。
「じゃあ、きっとあそこが俺たちの終点か」
「外は雨だから、星は見えなさそうだけれどね」
ゆのが話した途中、茜がくしゅん!とくしゃみをした。
「あ、露天風呂は雨だから使えないけれど、そこのお風呂なら自由に使っていいからね。身体冷えてるでしょ」
手で示す先に、そこそこの大きさの風呂場が見える。電気設備もしっかり通っているらしく、まだ充分旅館として機能していると感じていた茜は、すぐに立ち上がって風呂の水を溜めに行った。それにおばあちゃんから解放された孫も付いていく。
「すいません、そこまでさせてもらって」
「もう、何年ぶりかの来客みたいなものだから、サービスみたいなもの。遠慮せずに使ってね。それにしてもあの子、あんなに懐いて」
「ほんとですよね」
なにかしているような声が聞こえる風呂場の方を見た女将と佳恋が一緒に笑い、それを見ていた翔とゆのも気を緩めて姿勢を崩した。
「では、持ってきた浴衣と湯のみと、ポット、置いておきますね」
「どうもご親切にありがとうございます」
佳恋の礼儀正しい返事を聞いておばさんが立ち上がり、何年もの癖なのだろう、小さく一礼して席を外した。
翔が窓際に立って展望台を見ていた。今日1日の終わりを感じさせる暗い空を見て、今いる場所を見て、ひとりで虚しく暇をつぶす。女子3人は楽しくお泊まり会をしていて、男1人で広い部屋を使うことになった。なにもないせいですることもなく、ただ外を眺めて雨音を聞くことが唯一の暇つぶしになってしまった。そうして時間をいたずらに過ごしているとすぐに戸をノックする音が聞こえた。なんとなく、叩き方でわかった気がした。
「なんですか」
「木崎くん、入っていい?」
「どうぞ」
ゆっくりと開けられた先に佳恋が顔を見せる。開けた時にわかったが、後ろの方にある階段でうるさく騒いでいる浴衣姿の茜と小さな女の子がいて、それをゆのが傍目で見ている光景が翔の目に入った。それを気にすることなく作法を倣うように閉め直して、佳恋が翔の方を向く。
「木崎くん。ちょっといいかな」
正座したままそう言う。
「あの、別にそんなかたくならなくても」
「堅苦しいのはいつもの木崎くんの方じゃない」
佳恋は足を横に出して楽な体勢をとる。言うのを待っていたようで翔は変な気分になって頬を掻く。
「で、話なのだけど……ご飯食べたら木崎くんとの約束を話したいから、手伝ってほしいなって思って」
「なにをですか?」
「きっとわたしはうまく話せないから。きっと、嫌われてしまうのを恐れて、声が出なくなるから。その時は、木崎くんを頼りたいの」
頼ってほしいとは、逆の言葉。誰かに弱みを見せるのを佳恋はずっと恐れていたせいで、初めての言葉だった。木崎くんにだけは。そう思って、自分から頼ろうと思った。翔はその佳恋の潤んだ瞳になぜか顔が火照る。
「ま、まあ、困ったら助けますよ、そりゃ」
「ありがとね。……あ、お風呂は入らないの?雨の中歩いて身体冷えてない?浴衣は……男性の分も1着ちゃんと持ってきてくれてるね、下着はもう、仕方ないって佐口さんは同じの履いちゃったけど…嫌なら下のコンビニにご飯買いに行った時に一緒に買えばいいかな」
「お母さんですか……」
「ママって呼んでいいのよ」
翔の困った様子に佳恋はからかって笑う。意味もないそういう会話を、遠くでゆのはしっかりと聞いていた。
「そっか。だから多分」
考えて、心に馴染んで納得する。翔はずっと。
おばさんの帰りの車に乗せてもらってコンビニ前で降ろしてもらい、そこから徒歩で山を登って戻っていく。荷物は昨日のように翔が抱えて、持って行くことになった。
「あの子、名前はあかり、っていうらしくて、茜と似てるねーなんて話したら、意気投合してね」
外に出るならと制服に着替え直した茜が嬉しそうに、あの子のことをゆのに話していた。佳恋はなにやら他のことがしたいらしく留守番をすると言い、今はここにいない。山を登るのは一苦労で、大体15分ほどでも最後にはみんな息を少し乱していた。
「うーん、もっかいお風呂入ろ。いいよね?」
「好きにしていいんだし、何回でも許されるよ」
その後戻りました、とゆのが靴を脱ぎながら言うと、すぐ横から佳恋が顔を出す。
「おつかれさま、しんどくなかった?」
「大丈夫ですよ、心配はいりません!」
茜が元気よく敬礼の真似をして、靴を脱いでスリッパも履かずに部屋へと走っていった。翔は自分にかかる重さを紛らわすように佳恋に話しかける。
「元気ですね、ほんと…で、先輩はなにしてたんですか?」
「まあ、色々ね。ご飯の準備してきてね。荷物持ちおつかれさま」
言われて翔も靴を脱いで、女子部屋となった方へ行く。持った荷物をテーブルに置いて座ると、ゆのがひとつずつ広げていった。並べ終えたところで佳恋が大きめの箱を持って入ってくる。
「お昼、作ってきてたけど出せなかったから…とりあえず火に通すように形は変わったけど、食べてね」
おにぎりとパンが並んで、その横に簡単なおかずも用意されている弁当箱が真ん中に置かれた。佳恋の作った弁当に一同が驚いて、みんなで座って食べはじめる、初めての4人で一緒にする団欒だった。
そこからみんなが満腹になって少し、唐突に切り出す佳恋に目が集まる。緊張をしているのかいつもの自然な言い方が出来なかった。
「話しておかなくちゃ、ならないことがあるの」
「いいですよ。せっかくここまで来たんです、もうこの際バシッと言いたいこと言っちゃってください」
茜がテーブルに預けた身体を上げたかと思えば、乗り上げて佳恋に身体を近付ける。
「……わたし、ずっと自分のために人を助けてたの。佐口さんに言ったことも、八重山さんに言ったことも、本当は自分のためで……ええと……」
自分のことを言うことに慣れていない佳恋は、言葉を詰まらせながら紡いでいった。
「……だから、えっと、こんなわたしに文句があるなら、じゃないけど、ええと、ええと……」
佳恋がすっと翔を見る。ため息をついてバトンをもらった。
「まあ、なんだ。川島先輩は自分の満足いくようにみんなに優しくしてたんだってことだよ。それを言うのが、中身を見られてしまって怖いんだって」
「佳恋先輩、よくわかりません」
茜がハテナを浮かべて佳恋に問う。佳恋はそれに困った様子で必死に口を開いた。
「わたし、誰かに否定されたりするの、怖くて。八重山さんに信用出来ないって言われた時も嫌で嫌でしょうがなかったし、顔が合わせられなくなりそうだったくらいで……その……ごめんな、さい……誰かに認めてもらわないと、不安になってしまって……」
「佳恋先輩?」
縮こまる佳恋に茜とゆのが困った顔をする。
「私の方こそ、なんというか……すいません」
「八重山さんは悪くないからね。ちゃんと言ってくれたんだから、受け止めるべきことだもの。信用されないわたしが悪いんだものね」
「佳恋先輩!」
佳恋の捲したてるゆのへの早口を制止するように、茜が強く言葉を出した。
「は、はい!」
それに驚いて佳恋が声を出す。茜は乗り出した身体を戻して、ちゃんと座った。
「はぁ……先輩たち。茜はこの川島って先輩がなに言ってるかわかりません!だって考えてみてください、ここまで一緒にやってきて突然、実は信用されなきゃ困る、って言われても、そんなのは前から言えって話なんですよ」
「お、おう……なんか茜、酔ってるのか?」
「よ、酔ってないですよ!お酒なんて買ってないですし!」
翔の困惑した言葉に茜が顔を赤くしてふくれっ面をする。
「ってより、そうですよ。そう。佳恋先輩はそれでなにが言いたいんですか?」
強気な茜に、佳恋は一層縮こまってしまう。色々と見たことがない佳恋の姿にゆのは口を開けずに見守るだけだった。
「大丈夫ですよ。川島先輩」
佳恋は翔に声をかけられ、顔を上げる。茜の待ちわびた顔がすぐに入ってきて、落ち着こうと一度息を吸った。
「わたしは、直したい……から……だから、知ってほしくてこうやって、2人に話しておかなくちゃいけないって思って……」
「2人、そういや、そうですよ」
突然茜に見られたので翔が見返すと、はっとして顔を逸らして話を直していた。
「そ、そう、き、木崎先輩との、関係の方が気になります」
「あ、私も気になるかなぁ。接点とか、そういうの気になるし」
話題が変わって佳恋も翔を見る。翔はやれやれといった様子でため息をついて、それを見た佳恋は話した。自尊心の塊を。
「わたしと木崎くんは、1年前から──」
○○○○○
夜の帳が降りた頃には、雨が止んでいた。
「それってもしかして、翔が川島先輩とそんなに深く繋がったの、私のせい……?」
ゆのがなんだか複雑な気持ちで2人を見た。
「ゆのちゃんがいなけりゃ愛しの川島先輩に触れられすらしなかったんでしょうね」
茜は茜でどこか皮肉げに翔に言った。
「でも、わたしと木崎くんはただの先輩後輩だよ、別に付き合ってないよ、茜ちゃん」
「ばっ……!」
佳恋は含んだ笑みを向け、それをもらった茜が顔を赤く染めて顔を腕で隠した。ゆのも、そんな佳恋と茜が不思議とどこか安心出来る、そんな気持ちにさせられた。胸の奥から溢れる形容のし難い幸福感は、嫌いじゃなかった。だから、小さく笑う。楽しいから笑ってしまう。
「もう、ゆのちゃんも……!」
「ふふっ、なんだか、私、みんなが好きだなって」
ゆのの繕わない笑いが、佳恋の心をとかした。
「あぁ、わたしも……もう、みんなのこと好きだったんだ……」
たった少しの間だけ見ていてもわかった。
「八重山さんも、佐口さんも、木崎くんも。わたしを許してほしい。嫌われてもいいから、許してほしいの」
「なんで嫌う理由があるんですか?佳恋先輩はただ、誰かを助けるのが好きなだけなんでしょ、めちゃくちゃいい人じゃないですか。みんなを助けてくれる、優しい先輩ですよ」
「佐口さん……」
「まあ、おっぱいだけは許しませんけどね!」
執拗に胸を貶す茜を見て、佳恋はなぜだか泣きそうになるのを誤魔化すように笑った。みんなで暖かい部屋の中を、零さないように受け止めた。




