<4>
次の日、傘を差してゆのの家のインターホンを鳴らして、出てきたのは母親だった。
「ご無沙汰しています」
「翔くん、またごめんね。ゆのが迷惑かけて」
珍しく家にいると思えば、なにやらめかしこんでいる。
「いえ、別に迷惑だなんて」
「あ、車に乗っていって。今日は顔出すからついでに、ね?」
有無を言わさずにゆのを呼びつける母親に、翔はなにも言い返せない。そういう押しの強さはゆのとは違うななんていうことを翔が考えていると、ゆのの声が階段を降りる音と共に聞こえてきた。
「お母さん、なに……あ。」
目が合う。瞬間にゆのは自分の格好が恥ずかしくなって身を隠した。ほぼボタンを取り終えているほどのパジャマ姿のまま、ゆのと翔は対峙した。ゆのの母親は苦笑いして、とりあえず中に入って、と雨の中に傘を持って立っていた翔を家に招く。
いつもと変わらない家。小さい頃から知っている、なにも変わらない家。ここだけはずっとゆのにとっても変わらず過ごせる安息の地。翔はリビングで、目の前に座るあまりにも雑に着た制服、髪のゆのを見る。
「俺は男だから、女の髪を整えるってわかんないんだよな……」
茜がしていたように、とは思ってもよくわからず、翔はもやもやしていた。居心地の悪そうな翔を傍目にゆのの母親は、髪を整えようと櫛を持ってきた。
「お母さん、翔の前じゃ恥ずかしいよ」
「恥ずかしいのはゆのの整えてない髪の方だからね」
ゆのは俯いて親の言葉に返事はしない。翔もあまり見ないように心掛けようと手持ち無沙汰に辺りを見回す。ゆのの鞄の上に、翔の制服が掛かっているのを確認する。
「あ、制服……」
ゆのもその視線に気付いて手に取ったが、持ったまま渡そうとはしない。
「ええと……まだ湿ってるかも……」
「別に気にしないから」
それでも渡すのを躊躇するゆの。翔はまあいいかと言ってゆのの身嗜みを整えるのを待つ。服を直している間にゆのは持っていた赤色のリボンのゴムでポニーテールにしていた。
「どうかな……?」
恥ずかしそうに翔に聞くゆのを見て、母親はすごくにやけを抑えられないでいた。
「似合ってるよ」
翔は、その目線にさらされそっけなく返してしまうと、ゆのは見るからにしょんぼりした。
雨の音が響く。
ゆのは家族が好きだ。この家が好きだ。例え親が帰るのが遅くてもゆのはなにも心配はなかった。今は後ろで最後の仕上げをしている母親と、仕事疲れでまだ寝ているであろう父親。2人のことがずっと好きで、ゆのはそんな家族を悲しませたくない、という強い気持ちがあった。
「ほら、終わったよ」
いつもよりもしっかりと着せられた制服と、流れる髪をゆのは恥ずかしがる。
「お母さん、こんなに綺麗に着せなくても」
「ダメでしょ。みんなの前に出るんだから、女の子として当然なの」
そんな会話を翔が笑って見ている。ゆのは目の前にいることを思い出して一層恥ずかしくなり、翔の制服を抱えたまま立ち上がって鞄を持つ。母親はそんなゆのを見て仕方なさげに笑う。
後部座席にはまた2人。昨日よりも雨は強くても、ゆのの顔は幾分かは明るい。
「翔。お願いがあるの」
外を見ながら、何気なく話しかける。雨に晒された窓が大きな音を立てる。
「なに」
狭い車内で着ることは出来ずに手に持った制服を、翔はゆのとの間の2つ並んだ鞄の上に置いた。
「今度、私と……いや……やっぱりいい」
微妙な距離感に気恥ずかしくなってしまい、ゆのはドアに凭れた。ガラスに映る自分の隠そうとした顔が嫌になってしまう。
「言いたくなったらでいいよ」
翔も深くは詮索しない。湿った空気に包まれても、彼女の柔らかな安らいだ顔は翔にとって一番嬉しく、それを崩したくはなかった。
学校までは遠くはない。徒歩でも20分ほどで着くため、車だとあっという間だった。玄関までに設営されているテントはどこも中の機械が撤退させられており、昨日よりも寂しさを感じられる。濡れた傘を開いては閉じ、雨水を取り払おうとゆのはしていた。
隣にはゆのの両親。いつもとは違うゆのの登校は一種の気まずさを感じる。翔は小声でゆのに話を聞いてみる。
「なんで今日は突然親が来ることになったんだ」
耳元で聞こえた声にゆのの身体が少し跳ねる。
「あ、ごめん」
「い、いや、別に謝らなくても」
落ち着かせるようふぅ、とゆのは一呼吸置いた。
「なんかね、担任に用があるとかで、丁度文化祭があるから見たいって理由で今日らしい。なにかは聞いてないよ」
「なんか全体的にふわっとしてるな」
「そう?」
翔は、来た理由も、ゆの自身もかなり曖昧な感覚がした。様々な感情が突如に降りかかり、自分自身で制御出来てない、そんな。
「ねえ、翔……翔?」
深く何かを考え込む翔を見て、ゆのはハテナを浮かべた。一呼吸遅れて翔ははっとゆのに目を向けた。
「え、なに、ゆの」
「あ、今日は遊びたいな、なんて」
照れ笑いをする。なんだかその顔が懐かしく、翔もわかったとそのまま返事をする。
手を繋いでいない。多分これは登校日において初めてのことだ。違和感さえ感じる翔は、指先をなんの気もなく動かしていた。ゆのも違和感は同じだったが、昨日のあれ以来手を繋ぐのが少し怖くなり、伸ばせないでいた。これが触れて2人の関係が崩れる、それだけを恐れて伸ばした手が震えるだけだった。
職員室の扉を開けると先生たちが忙しそうに動いている。ゆのはこの部屋があまり好きではなかった。多くの情報が入り混じり、声がする。頭がクラクラするのを抑えながら、翔の手を掴もうと思ったがここでもなにかが拒む。その伸ばされ引かれた手を、翔は掴んだ。震えが止まらない。手の汗が湧き上がるように出ている。怖いんだという、そのことが翔に伝わってきた。
「すいません、ゆのと外に出ててもいいですか」
「あ、ごめんなさい、よろしくね」
母親に言われ、すぐに手を引っ張り扉を開けた。吐き出しそうなゆのの手をしっかりと握りしめる。
「しょ、翔。私」
「多分わかる。佐口とのことで怖かったんだろ。だから俺も手を差し出さなかった」
あれ以来ずっと触れる事だけは避けているのを感じていた。だからこそ昨日の帰りに言われたあのひとことが、どういう思いなのかもわかった。わかっていて、翔はなにも出来なかった。
「ほら、深呼吸して。落ち着いて」
苦しそうに胸を押さえるゆのを見て、この手を離すか離さないかを考える。もしもこれが原因ならば、すぐに離さないといけないと思っていたが、翔のその不安とは裏腹にゆのの気持ちは静まっていった。
「座りたい」
胸から手を離したゆのは、少し苦しそうに言う。翔は近くになにかないかを探したが、座れるところもなく、自分の鞄を下に敷いて端に座らせた。
「ごめんね翔。私のせいで」
壁に凭れた頭に両腕で、目を隠して喋り出す。
「なにも悪くないよ。ゆのは」
「悪いよ。私にばっかり構ってもらって、なにも返せないんだもん」
「なにも返さなくていいよ」
ゆのはその優しい言葉を聞いて嫌気が差し、胸の中に支えたものを覚えながら口を閉じた。それを見た翔は立ち上がり、登校してきた生徒が増える廊下を見渡す。外が雨のせいかいつもよりも室内の声が小さく思えた。生徒たちの残念がる声は次第にまた強くなる雨によって小さな声になる。
ガチャリと、職員室から出てきたゆのの両親は少し怒り気味だった。そんな2人を見て顔を上げたゆのは、翔の手を借りてゆっくりと立ち上がる。
「ゆの。帰るぞ」
「え……?いや、今から文化祭……」
「一緒に見て回りたかったけど、今日はもう帰ろう」
「な、なんで」
「俺たちに黙ってることがあるだろ」
「え、な、なんのこと」
隣の翔を無視するように強い言葉で両親が話す。わけのわからないその状況に、ゆのは頭を回して慌てふためいた。声で周りの人間の視線が突き刺さる。
「ゆの。担任と話をした。あなた、黙って勝手に文化祭の企画に参加して。なにかあってからじゃ遅いのよ?」
え……。と翔は口に出してしまう。確かに、ちゃんと家族に言うように説得した覚えがある。それを問うようにゆのに話しかけた。
「ゆの、言ってなかったのか」
「だ、だって、言ったら止められそうだったから……」
「な、なんで……あの、ゆのの入ってる企画には俺もいます。あと、そう、佐口さんだっていますし保健委員の」
「それでもよ」
母親の力強い声だった。本気で心配している。翔はその真剣な眼差しに言い返そうとする口が動かなかった。ゆのも翔の手を強く握っていた。
「お前は今、人に触れるのが怖いんだろう。いきなり人と沢山会ってしまったら、なにが起こるかわかったものじゃないんだ。こんな企画に入ったから、文化祭に行きたがってたなんて。翔くんが誘って、と聞いていたが……」
「お母さん、お父さん、違うの。これは……これは……私の……」
「翔くんが一緒だからよかったものの、もしなにかあったら」
「なによそれ……なんなの、それ!ふざけないでよ!私の気持ちも、考えてよ……!」
滅多に怒らないゆのの大きな怒声。それを聞いた両親は呆気にとられていた。その隣で、翔も驚きを隠せずにいた。
「私だって頑張ってるのに。なんでそんな……私はお父さんもお母さんも好きだけど、私の気持ちを理解してくれないのは、嫌だ……」
痛いほど、翔の手にゆのの入れた力が伝わる。ゆのの弾けた感情。自分ですら驚くほどのその声が、自身の胸の奥を強く押しつけた。嫌になって走り出しそうになるのを堪えて、翔への手の力を緩めた。翔は出来る限りのことをと、ゆのの親を、見つめる。
「ごめんなさい、お父さん、お母さん。ゆののことは俺が見ているんで。……後で話しませんか」
見合わせた2人をゆのは下を向いたまま、見ることはない。翔はそんなゆのを心配しながら、2人の頷きを見て連れて行く。
手を繋いで離れていく背中を、両親は深く後悔して見つめていた。言ったことが間違ったとは思ってはいなくとも、それで本人を悲しませてしまうのは、それは本末転倒なのだと、強く思っていた。
○○○○○
親と一度別れてからも、ずっと腹が立っていた。ゆのはそれをなぜか隠せずに、座ったいつもの席で感情を露わにしていた。
「私だって、頑張ってるのに……なんで……!」
窓際で、雨の当たる窓を見つめている翔に届くように声を出す。一度教室へ集まる合図の朝のチャイムが雨音に鳴り響いても、翔はそこから動くことはしない。
「翔。私、家族が好きなの。だけどさっきのこと、めちゃくちゃ腹が立った。私の頑張りを、考えてほしかった……」
窓の奥に映るゆのを撫でるように、翔は窓に手を置いた。雨がまばらに窓に当たり、粒が大きくなって落ちていく。
「そりゃ、なんかあったけど、あったけど……茜ちゃんの頑張りも、わかるから……」
カーテンを全て開けても薄暗い雨雲の空。教室の電気をつけて少しでも明るく保っていた。
「翔。わかんないよ。わかんない……。なにが正解なの、ねえ……」
ゆのは苦しそうに声を出す。翔に、今の思いをぶつけるように、吐き出したい気持ちをただ嘆く。親を裏切った罪悪感と自分の気持ちを正直に話したその思いが、ゆのの中をかき混ぜていた。翔は、ただ受け止めている。
外の音だけの静けさから少しして、翔がゆのの方を見ると、ゆのは机に突っ伏していた。寝ているわけでもなさそうで、ただひたすらに何かを考えているようだった。
「ゆの。そろそろ川島先輩が来るかも」
「んー……」
少しだけ体を動かして、衣擦れだけが聞こえて顔は上げない。落ち着いたのか、穏やかに息をしていた。2日目の合図のチャイムが鳴ると、生徒の教室がある方からの騒音が入り込んでくる。2人からすれば憂鬱だった。
「翔。飲み物ほしい」
「なにも買ってない」
「うー、なんか買ってきて」
「はいはい」
翔は壁に凭れた身体を起こし、立ち上がる。財布を見つけようと探し、そういえば鞄に入れていたんだと思い出し、少しして自分の鞄がないことに気付く。
「やば、職員室前か」
あの時そのまま来てしまったせいで取り忘れてしまっていた。仕方ないと重い腰を上げてゆのをちらりと見てから教室を出る。やはり人があまり通らないせいで、カップルが話しているこの廊下の、雰囲気を無視して歩き出す。足音が響く。
「あれ、ない」
職員室前まで来たが、翔の鞄がなかった。職員室で聞いてはみたが預かってないらしく、嫌な汗が出てくる。周りは校舎の中だけで楽しむ生徒が沢山いるばかりで、見学をしに来ている人は昨日よりも少ない。辺りをそう見回しても、鞄を持っている人は見当たらなかった。
早歩きで校舎を探し回る。翔のクラスは今日顔を出してないせいで踏み出し辛かったが、他のところは探し回ってみた。教室は多くがもう企画を開始していた。これ以上探し回っても意味がないと判断してゆののところに戻ろうとして、職員室前でなにやら揉め事を見かけた。よく見るとそこには佳恋が、荷物を抱えて先生に弁を振るっている。
「中止なんて、絶対に認めませんから!」
最後に、怒り気味な声が廊下に響いてきた。拳を握って立ち去ろうとした佳恋と、それを見ていた翔は目が合う。
「あ、あれ、木崎くん……見てたの」
「はい。なにかあったんですか?」
「それより、あなたの鞄。もう、忘れちゃダメだからね」
軽く投げるように渡された鞄。翔は受け取って、すれ違って何処かへ行こうとする佳恋を止める。
「あの、先輩」
「いこ、木崎くん」
振り向いた佳恋は見るからに悲しそうで、その後ろについていくしかなかった。
佳恋は学校でもかなり目立つ人だった。生徒に対して優しいことが、みんなからの支持を集める所以だ。それ故、こういったイザコザですらもあらぬ噂が立つ。"特別生徒を無理矢理勧誘して企画上げたらしいよ"。"そんなことする人じゃない、先輩はその特別生徒を文化祭に来させるために、誘ったんだと思う"。"それもそれでなんか嫌だよね"。
「あながち、間違ってないよね。でもなにがいけないかわからないんだよね」
佳恋は周りの声を聞き、翔に悲しげに笑った。2人で歩くと目線が痛い。
「俺も、わかりません……」
ゆののように、なにかの都合上で決まった日にだけ学校に出てくる生徒のことを特別生徒と言う。それは少ない日数で単位を取るために行われるため、あまり周りからはいい認識はない。ついには、文化祭を手伝ってない生徒が文化祭を楽しむのは卑怯だ、なんていう考えも少なからず出てきていた。
「あの教室に八重山さんがいる限りは、お悩み相談室は中止だって、八重山さんの担任から言われてしまって、あはは」
それがいかに悔しいか、翔にも伝わっていた。なぜ中止なのかも、ゆのの境遇や親の言い分を考えるとわからなくもなく、答えづらい。
途中の自動販売機でお茶を買って、ゆののいる教室へ入る。ゆのは片腕を枕にしてぼーっとしていた。
「八重山さん、今日はリボンで髪を括ってるのね。似合ってるよ」
明らかに元気のない佳恋を見てゆのは顔を上げた。
「先輩。なにかあったんですか?」
「あ、いや、なんでもないの」
ゆのに心配されてしまい、佳恋はすぐに顔を隠した。自分で頬を触ってできるだけ笑顔を作ろうと必死になる。
「ゆの、飲み物」
「遅い」
そんな佳恋から目を背けさせるように翔は持っていた冷たい小さなペットボトルのお茶を机に置く。むすっとした顔をしたゆのを見て翔はどことない安心感を感じた。
「そ、そうそう。今日は2人で室内見て回ってきたらどう?きっと面白いところだっていっぱいあるから」
そこに話を戻さず、それでいて核心を隠すような言葉。ただ、やはりどこかに違和感を感じて、ゆのはそんな佳恋に気持ちを抑えられなかった。
「なにかあるならちゃんと話してくれませんか?」
はっとしてゆのは口を押さえる。今、なぜか話したその言葉が、自分でもわからなかった。佳恋は驚く。昨日までとは全く違ったゆのを見て、翔の方を向いてしまった。
「はぁ……先輩。隠す理由なんてないですよ。その代わり、ゆのもさっきあったこと話せばいい」
「うん。そうする」
ゆのはゆのらしく、決心した。
2人してあったことを話した。ゆのがいる限りここの教室は使わせてもらえないことと、両親と喧嘩した理由と。
「でも、八重山さんには、いてほしいの。まだあと1日もあるのに」
「でも、私のせいだよね……やっぱり……」
「違うよ!これは八重山さんがいたから起こったとか、そういう問題じゃないから……」
重苦しい空気が支配した。ゆのの悲観的な言葉に、佳恋は悔しそうに腕を押さえた。なにも会話がない。ただただ無益な時間が流れていく。翔も、2人の気持ちがわかるため、なにも言い出せなかった。
雨は止む気配がない。その音だけが3人を包んでいた。顔を見合わせることもなく、気まずい雰囲気は続く。
「翔。私と遊ぼっか」
ふと、ゆのが口を開く。少し考えて、佳恋を見ると、佳恋は困ったように翔を見返した。
「うん。わかった」
「茜ちゃんのところ行きたいな、気分転換」
「うん」
ゆっくりと立ち上がったゆのは、佳恋を見た。その、悲しげな雰囲気がゆのの心を苦しめる。佳恋はなにかを言おうとすら思えなかった。
「じゃあ、少しだけ行ってきます。また後で戻ってくるんで」
こくり、と佳恋はひとつ頷く。泣き出しそうなその横顔を、翔は酷く胸を苦しめる。
佳恋は2人が出て行った後に、ゆののいた机の前にしゃがみ、机に顔を伏せた。
「こんな、なんでこんなことになるの……」
自分の思い通りにならないことが悔しかった。みんなが幸せになってもらいたくて、自分が幸せになれるようにやったことが、失敗だったと思いたくない。それは佳恋にとっての、最悪。
「これじゃあ、わたしは……」
○○○○○
ゆのは隣の翔を見る。ずっと暗い顔をして、なにかを考えるようだった。心配になってゆのが話しかける。
「なにを考えてるの?」
「いや……痛いから力込めないで」
言い淀んだことに対してゆのは握った手を強くした。
「私も、どうすればいいかわからないのに、翔も悩まないでよ」
翔は、そんなゆのの顔に。うっすらと、その目には意地を見た。
「私は絶対に帰りたくないよ。だけど、私のせいでみんなになにかあるのは、本当に嫌だから、だから……」
「ゆの、ついたよ」
話を遮って翔がゆのに言う。ゆのが振り返ると、沢山の装飾の教室だった。
「そういやなにするか聞いてなかったな」
資材運びをした時にはまだ未完成で、鞄を探していた時にはあまり気にしていなかったが、そこの看板には『Latte Art』と書かれていた。
「どういうのなんだろう、気になるね」
興味を示したのか、少しだけ抑揚高く声を出して、少しして恥ずかしくなったのか身を縮めた。
内装も凝っていた。1年という高校初めての文化祭ということでかなり気合が入っているのだろう。並んで10分ほどで入場したら、目の前には可愛らしい喫茶のウェイトレスの制服を着た茜がいた。
「ご来店、ありが……っ!?」
途中で翔とゆのに気付き、一度身を引く。そして自分の服装が突然恥ずかしく思い他の接客にいた友達の後ろに隠れた。
「いや、ちゃんと接客しなさいよ」
「めっちゃ恥ずかしいよ!知り合いに見られるの!」
「いや、まあそうだけど、がんばれー」
そのまた後ろから他の子に背中を押されて、茜は再び2人の前に来る。俯いてごにょごにょとなにかを言っているのに翔は苦笑いした。
「どうも、ゆのちゃん、木崎先輩。なんで来たんですか」
「なんでって……ゆのが来たいって」
「うん。似合ってるね茜ちゃん」
「あ、ありがとう……」
茜を見て少し元気になるゆの。翔は、昨日のこともあり大丈夫なのかと思っていたが、見たところゆのと茜はもう大丈夫そうだった。面倒くさそうに、茜は席に誘導し始めた。
「ゆのちゃんの誘いなら仕方ありませんけど、木崎先輩ひとりだったら帰らせてましたよ」
「木崎先輩木崎先輩ー、って言ってるのに、茜ちゃんは照れ屋さんだなぁ」
「違っ……!木崎先輩!ゆのちゃんが意地悪です!」
「それはいつもだって」
また強く手を握られ、翔が声を出して教室内の人たちに一斉に目を向けられてしまう。視線の多さにゆのは顔を青くして目を伏せた。
「と、とりあえずこの席に座って!み、水!水くださーい!」
すぐに空いてる席の椅子を引いた茜が裏に急いで入っていくと、ゆのが座って深呼吸した。最後にふぅー、と大きく吐いた後、翔を見る。
「落ち着いたよ……すごく焦った……」
噂立てられるような喧騒も特になく、ただのカップルのやりとりのように思われてるのだろう。微笑ましそうに2人を見る人がいるのに翔は頬を掻いた。
「まあ……すぐによくなったならいいよ……」
「人前ではやめとくね……」
「水です水、飲んでください!」
トン、と目の前にグラスを置かれる。急いで運んだが容態は悪くなさそうで茜はほっとした。翔がゆのの目の前の席に座ると、茜が脇に抱えていたメニューを机に開いた。
「よかったですけど……まあ、これがラテアートの種類です。適当でいいですか?」
当店自慢のエスプレッソ!という文字が書かれ、その下にアートの種類とそれに応じてデザートが付いてくることと、値段が記されている。翔がゆのに目を配ると、ゆのは水をちょっとずつ飲んでいた。
「びっくりするほど本格的にやってるな」
「ほんとですよ、コーヒーに絵を描くの、1ヶ月以上練習したんですよ、みんな、茜も。しかも完売しないと赤字レベルのお金の使い方。茜にとっちゃ信じられませんよ」
茜が周りを見渡して、真剣に働いているのを見て溜息をついた後に手を腰に置く。
「で、注文決めないなら適当にします。ラテ持ってきますね」
「自由だな」
「先輩限定です、嬉しく思ってください」
そういって茜はまた背を向けた。そんな茜を見た後、ゆのを見ると、翔をじっと見つめていた。
「ねえ、翔。茜ちゃんにも話すべきかな、教室であったこと」
真剣な表情と声音。翔はそのゆのの気持ちをくみ取る。
「話したいなら、話せばいいと思う。俺は話すべきだと思う」
うん、と頷くと、ゆのは気持ちを整えようとグラスを手を持ってまた水を飲むと、そこで茜が戻ってくる。
「さて、ゆのちゃん、見てて」
目の前に置かれたカップ、茜の持ったミルクピッチャーからミルクが泡の海に零れていく。すっと落ちて描かれた丸の一両端が、一回引いてすぐに形を変えた。
「ハートです。初心者でも書けるものですけど、はやく、そして可愛い!」
茜が嬉しそうに語るのを、ゆのも嬉しそうに聞く。それを翔は見ていると、ゆのが茜の耳元でなにかを囁いていた。その後に翔の分のカップにミルクが注がれて。チョコのパウダーを腰に付けていた容器を取り出し、かけて渡す。
「はい、先輩。先輩への特製ですよ」
「おい」
"アホ"と2文字が白いミルクの上に書かれていた。
「翔らしいラテアートだね」
2人が楽しそうに話をしているので怒るにも怒れず、翔はまあいいか、とその目の前に置かれたアホラテを飲んだ。
客の出入りはそこそこで、茜が忙しそうに動いているのを翔とゆのは見ていた。ゆのがデザート、とは言っていいのかわからないお菓子を摘んで口に入れてから、そのまま翔に話しかける。
「ん、翔はどこか行きたいところないの?」
「うーん、別にないな……そもそもこうやって文化祭にちゃんと出たのが初めてっていうか……」
ゆのは開こうとした口の中が乾いてまたカップに口を付ける。飲み干して、少し考えてから仕方ないか、と小さく呟いた。
「戻ろっか。先輩のところ」
翔をちらりと見て気まずそうに声を出す。
「うん、そうしたいならそうしよう」
「私ばっかに構おうとするのやめてよ。翔は翔の好きなように……」
「今はゆのと一緒に回ってるんだ」
それだけ言って、翔も飲み干したカップを机の上に戻す。ゆのは少し困った顔をして俯いていた。
「なんですか2人してー、初デートのカップルですか?」
翔の後ろからいつもの生意気な茜の声が聞こえる。そんな茜を真剣な目で見つめるゆのに、茜はなにかあるのかとゆのの方へ近付く。
「どうしたの?」
「今話出来る?」
「あー……今は忙くて無理だけど、昼過ぎに茜は上がりだし、その時なら」
「うん。じゃあ、その時にあの教室で」
「はーい。わかりましたよーっと」
くるりと派手に、スカートを翻すように一回転して、帰ろうと立ち上がった2人に笑う。その心は何故だか悲しく思えた。
「じゃあ、また後でね!」
明るさを引き出して、2人の仲の良い背中を見送る。ゆのの真剣な表情が、頭に浮かんでくる。胸の苦しさが、湧き上がってくる。
「はぁ〜……よし!」
ぐっと拳を握って、机の上にある陶器を片付ける。後ろを向くと、同じウェイトレスの格好をした茜の友達がなにかを思って茜を見ていた。
「どっちも先輩だよね、どういう関係なの?」
「ええと、中学からの知り合いかな!あの2人は幼馴染で仲が良いの」
「ふーん」
前から時々詮索してくる友達がなにやら含んだ笑みを浮かべ、茜は困った顔をする。ええと、と頬を掻いて疑問を醸すよう気まずそうにすると、茜の友達はくすりと笑って口を開いた。
「ねえ、あの先輩のこと、実は好きでしょ」
「──!?」
○○○○○
いつから自分があの先輩に、囚われてしまったのか。翔は教室の前の方にある席に1人で座る佳恋を見て考えた。退屈そうで、憂鬱そうで、そんな佳恋を見たのは、翔は初めてではない。
ゆのが自分から歩いて、佳恋の席の前の椅子に座り、言い放つ。
「私にどうしてほしいですか?川島先輩」
暗く閉じこもるような佳恋に、ただそれだけを伝え、返事を待つようになにも言わない。佳恋は無理するように笑う。
「八重山さんはどうしたいのかな?」
憂の帯びた瞳が印象をつける。
「私は、結構考えたよ。私は先輩のことよく知らないし、だからなにを言えばいいかわからないんですけど、私の気持ちなら言えます」
「うん」
「私は、川島先輩の邪魔をする気はないです。だから好きな方を選んでください。私の名前を消すか、この企画を消すか」
「八重山さん、元気になったね」
佳恋はまた笑った。言葉を隠すようなその態度にゆのは大きな感情の波を感じて、それを自分で押しとどめた。
「ん……わたしね、八重山さんのためならこの企画がなくなってもいいよ。だって、ここに4人が集まったおかげで誰かが変われたなら、それは大成功だと思うの。この企画を立ち上げてよかったって思うの。それにもう半日近く経ってるし、今から再開しても遅いよ。もう出店記録も取り下げられてるよ」
これで、自分の気持ちが晴れるなら。憂いた気分を取り除けるなら。しかし、佳恋はそう思っても、心の中には何かが残る。それを隠すように出来るだけ明るく微笑む。
「八重山さんが元気になって嬉しい」
佳恋の中に溢れて止まらない気持ちとは裏腹な言葉。そうやって、自分より他人を思うようなことを言って、自分の気持ちをごまかす。それは誰にも言えない。
「わかりました……先輩。私は自分勝手です。だからあえて言えば、翔と、茜ちゃんと、川島先輩と。この3人で入れるだけで私は、嬉しいです。形は、気にしません」
佳恋の優しくて醜い一端に、でも、とゆのは続ける。
「私は川島先輩のことだけは、信用出来ません……」
繕った笑顔が崩れる。ゆのはその中に見える黒い何かに畏怖した。恐ろしく、そして悲しい。涙がまた落ちる。
「先輩、ごめんなさい……私は……」
ゆのが背けるように声を漏らす。その割れたガラスのような美しく醜い顔が、ゆのから離れない。
「八重山さん、ごめんね……やっぱり全然知らない人だもんね……ごめんね……」
「いえ……」
風が強くなった気がした。窓が大きく雨を受け、その音だけが強く鳴り響く。ゆのは佳恋がその窓の方を向いてなにも言わなくなったので、下を向いて黙る。
翔はなにも言わなかった。言えなかった。それがなにか悔しかった。今日のゆのが眩しいのが、翔の伸ばす手がなくなってしまった思いとなった。あの日触れた手がもう離れていく気がした。それなのになにも言えない。それは翔が、ゆのを。
「翔。私は間違ったかな」
元の席に戻ってきたゆのは、立ってただぼんやりとしていた翔を見て言う。自分の言ったことに自信はない。それでも言わなくちゃいけないことを言ったと思っている。ただ、相手の気持ちだけはひとつも考えていない。
「いいよ、別に。俺は間違ってても、今のゆのなら本気だってわかる」
必死に自分で歩いて、前へ進んでいくゆのが、翔にとっては嬉しくて、辛い。
「私は翔が悲しんでほしくない。なんでかはわからないけど、翔が悲しんだら、私も辛いの」
「それは……」
それは、同じだと。翔は言えない。口が動いてくれない。今辛いと思っているせい。少しの無言の後、ゆのは昨日と同じように机に顔を伏せて小さく、聞こえないように呟く。
「翔はアホだよ……バカだよ……」
それは、ゆのの本心だった。上手く自分でコントロール出来ない気持ちが、また勝手に声を作っただけだった。
「ただい……ま……?あれ、なんですかこれ」
そこそこの時間が経過して、昼に差し掛かったあたりで教室の扉が久々に開く。重苦しい空気が雨雲の薄暗さと相まって気持ちの悪い気分を働き終わりの茜に与えた。翔と目が合わさって、顔が赤くなるのを伏せるようにそっぽを向いて中に入る。翔は意味がわからずに苦笑いする。
「茜ちゃん……おつかれさま」
「はーいありがとうゆのちゃん」
ゆのの隣の席に座りながら話しかけ、前に出ている佳恋の方を見る。
「全然人が来てないんだ」
「それの話をしなきゃならないの」
うん、と真剣に茜も頷くと、ゆのは信じて口を開いた。
それから真剣に、ゆのは家族とのこと、この教室のこと、そしてそのことで佳恋と話したことを話す。聞いた茜は、前にいる佳恋の、暗い背中をもう一度見て、一度、深く息を吸い、胸の奥に感じているものを、手で押さえながら吐いた。
「ゆのちゃん、1週間前とは全然違うね」
「そうかな……?」
「そうだよ。なんというか、積極的になった?みたいな。思ったことを口に出すのは、茜のずっと見てきたゆのちゃんだなぁと思う」
「うん……」
「話の結末はなにが正解かは、茜にはわからない。でも、ゆのちゃんがこんなにも自分をさらけ出してるってことが、茜にとってはもう言葉で表せないほど嬉しくて」
頬杖をついて、茜は気楽そうに言う。
「茜はずっとゆのちゃんとこうやって楽しく話したかった。家に行った日のゆのちゃんが頭から離れなくて、出来ることはないかな、なんて思ってたけど、ひとりで抱える問題じゃないんだなぁって、思わされたよ」
晴れやかな笑顔をゆのに向けた。合った目が、頭の中に渦巻いた恐怖感と、知っている茜がいる安堵を生み出し、心が強く打つ。
「茜ちゃんがいなかったら、私……こんなにも楽しかったり悔しかったり、苦しかったりって振り回されなかった気がするから。ありがとう」
「そんな、ありがとうって……」
「昨日のこと?」
うん、と茜は申し訳なさそうに小さく頷くので、ゆのは仕方なさげに笑った。
「私はなにも気にしてないよ」
純心な言葉。純真な声。茜はどうにもそのゆのが、愛おしく思えて、胸の中がざわつく。
ふと、前にいた佳恋がふらりと立ち上がり、教室から出て行った。居心地の悪さで退出をするような人ではない、と3人は思い、なにか不思議に思い、翔はそこから少し動いた。
「ちょっと俺も出るか」
何気なく、聞こえるように呟いて教室の扉を開けると、後ろからゆのの声が聞こえる。
「ありがとう」
たったひとことだけ、それに頷いて教室を出る。茜は2人になって少し安心して詰まっていた息を漏らす。そして、伝えたいことを伝えようと、もじもじとしながらもゆっくりとゆのを見た。
「ゆ、ゆのちゃん……大事な話があるの。い、いや、ゆのちゃんには大事なのかはわからないけど、多分、きっと、伝えないといけないこと……」
「翔なんかの方がちゃんと聞いてくれるよ?」
「い、いや、ゆのちゃんじゃないとダメっていうか言いにくいっていうか……」
翔という名前ひとつで胸が締め付けられてしまう。ゆのはそんな茜を見て、少し思う。
「それは、私に言って解決する?」
「し……!しま……せん……でも、言いたいから、言わせてほしい………」
「わかった、しっかり聞くよ」
真剣で恥ずかしそうなその表情を見せられたゆのは、深呼吸をする茜を見る。そしてその言葉を聞いて、ただ驚く。
「ゆのちゃん。茜は、あの人が──」
○○○○○
「待ってください、先輩……!」
背中を追った。こちらの廊下にはほぼ人がいないのはいつものことだった。そのため見つけるのもさほど難しくもなく、翔は佳恋を見つけるとすぐに声をかける。
「木崎くん……本当に来て良かったの?」
「いや……」
言葉が詰まる。それは今のこの佳恋と会ってもいいのか、ということ。佳恋は自分でわかっておきながらも、止まらない感情を留めようとする。
「わかった。ついてきて。昨日2人でって言ったもんね」
翔の気持ちを察し、儚く笑って返す。佳恋はそんな人だと、翔はずっと知っている。
背中を追って2人で歩くのは何度目か、それでも容姿端麗な彼女と歩くと当たり前のように周りからの視線は高まるのみ。佳恋は周りからの認識を気にしない、そんな人であることがまた堂々とした振る舞いのように見せられ、逆に目立つ。会話もなくただひたすらに歩いて、いつもの保健室に佳恋が自分で扉を開いて、誰もいない。保健委員や先生は他の場所で監督として見回っているためここは2日ずっとあまり人は出入りしないということを知って、佳恋は入るとすぐベッドに座る。雨の降る窓に映る佳恋が翔の初めての出会いと似ていて真逆だった。
「──きっと、木崎くんが来ると思ってた。だって、わたしの想いをちゃんと知ってるのは木崎くんだけだから。絶対に来ると、思ってたよ」
電気も点けずに、暗い部屋の中。その黒くて醜い彼女の目が、鋭く翔を貫く。
「でもきっと、あなたはわたしの役には立たない。そして、それを知っておいてあなたを使おうとしたわたしもきっと……」
震えるような声をあげる、佳恋の本性と本音。他人を見つめて自分が他人に認識されることをよしとした彼女の本物の口調が、翔の耳へ入ってくる。
「なにも話さないなら、わたしの前に来てよ。わかってるでしょ?」
「はい……」
だから最初から、この人と自分が関わるのは、と翔は諦めて佳恋が前に引っ張った椅子に座る。この文化祭で、それでも今回だけは彼女が満たされるならと付き合って、彼女だけはまだ、前進していない。出来ない。
「木崎くんは目の前にいるわたしをどうしたい?」
「どうも、しません……」
「2人きりだよ?すぐにでもそのまま襲えるのに」
──自分を認識してほしいという、人一倍膨大な承認欲。他人に否定されるとこうなると翔が知ったのは、あのゆのの事件の次の日だった。
そして、これが他の誰にも言っていない、秘密。
「どうしてわたしに手を出さないの?レイプするのが怖い?怖いよね、あなたの最愛の幼馴染に遭ったことを、あなたがしたら本末転倒だものね。でも、わたしなら木崎くんを受け止めるから、大丈夫よ」
佳恋は人一倍認めてもらいたいという想いが強く、そして、それは次第に翔への依存へと向かっていく。あの日受けた翔の傷を利用して自分へ目を振り向かせようとする、一方的な逆依存。
──あの日は事件の次の日、学校へ行くと、朝の途中に授業が変更になり体育館へ集まっての長い話があった。気怠い注意喚起、そんなものは近くで感じて、見てしまった翔にはなにも意味はない。
その後の授業を受ける気力すらなかった翔は保健室の扉を開いた。誰もいないと思っていたのだが、そこには1人だけ、いた。
「授業は出ないの?」
普通は授業があるはずが、佳恋はひとりでベッドに腰を掛けてぼーっとしているのを見た時は、なにかがあるのだと翔に思わせた。
「いえ……ちょっと、授業を受ける気がなくて」
目の前にいるのは学校でも有名な美人。話しかけづらいのは確かだが、何度か話したことはあってそこまで距離が離れているわけではなくなっていた。佳恋は立ち上がり、長椅子の埃を手で払って座らせてくれた。それが。
「木崎くん、八重山さんのことで深く落ち込んでるんでしょ?」
ふと、後ろから首元を抱かれ、佳恋の匂いが翔をくすぐった。しかしそれはいいものでもなく、ただひたすらな恐怖心で頭を埋め尽くそうとする合図だった。
「っ……、それは……なんでそれを……」
「調べたわ」
あっけらかんという。それが既に、依存の一端。
「木崎くん、わたしのこと好きだったでしょ?だから気になって調べたの。そして、昨日の夜にそんなことがあったって、話を聞いたから。間違ってる?」
全てを知り尽くしたかのように耳元で囁くような声が、背筋を凍りつかせ逃げることも許さなかった。
「……はい。ですが、それでなんでこんな」
「その気持ちをわたしにぶつけてほしいの。全部さらけ出して」
「でも、先輩もなにかあるんじゃ」
「関係ないよ。木崎くんには」
さっきまでの優しい声ではなく、唐突な冷たい声が刺さる。さらに身も凍えそうなほどの背筋の暖かさが、翔は怖くてたまらなかった。
逆らえず、全てを吐き出してしまった翔は、深く反省する。少し満足気にベッドに座りなおした佳恋は、さっきまでのような黒いものが薄くなっていた。
「木崎くん。もっと聞かせてほしいな。わたしが全部聞いてあげるから、ね?」
「でも、もう特には……」
「わたしが聞いてあげるから、ほら、なんでも言っていいんだよ」
「それよりも、先輩のことも心配です……」
「わたしのこと、本当に?わたしの、ことを……?」
嬉しいのか悔しいのか、よくわからない表情をして、繰り返す。翔は、この人はきっと尋常ではない何かを抱えているのだという思いが強くなり、立ち上がって帰ろうとすると突然手首を掴まれ、ベッドに押し倒される。
「まっ……先輩……!」
「わかった、教えるね」
くすんだ目をしていた。恐怖から、離れようと翔はもがくが、しっかりと手首を押さえ付けられ、足さえも動かないよう身体の重みを受けていた。
「わたしね、木崎くんが心配なの。だからずっとこうやって話を聞いてあげたいって思ってるよ。八重山ゆのさんのことが辛いなら、わたしを見てればいいから、ほら、だから……」
早口に諭そうとして、はっ、と佳恋は目が覚める。翔に、言ってしまったこと。自分を認識してくれたこの人に次は自分だけを認識してほしいと、この人にさらけ出してしまったことがなによりも恐ろしくて突然慌てるように手を離した。
「いや、やっぱりなんでもないから……は無理だよね。……ね、ねえ、木崎くん。他の人には、こんなことしたこと、黙ってほしいの……」
「え、どうしてですか……?」
「ばれたりなんてしたら、わたし、誰からも見られなくなってしまうかもだから……黙っててくれるなら、なんでもしていいから、ね……?」
身体をどかして翔を自由にする。それでも翔は白いベッドへ倒れたまま、佳恋に返事をした。なんでもと言われても、今はただ、知りたかった。
「じゃあ、先輩のその本性を教えてください。納得出来るように」
ただそれだけしか思い浮かばなかった。佳恋は、知ってもらうために自分の今までから、今を初めて誰かに話した。
佳恋はずっと隠していた。小学生の頃に気付いた感情、誰かに見ていてほしいというものは最初は他人よりも優れたものを見せることで晴らしていたのが、中学、高校に上がるにつれて感情がエスカレートし、気付いた頃にはもう取り返しのつかないほどの欲求へと肥大化していた。"人に認めてもらいたい""誰からも好かれたい"。それはもう、取り除くことさえ出来ず、目の前にいた木崎翔という人物が持っている好意を利用してまで満たそうとしていた。人の傷付いた心を使ってまで自分を見てほしいと思っていた彼女は、翔にとってはもはや。
今日、ここは雨の音の鳴り止まない、2人きりの保健室。あの日に初めて知られたことがあり、佳恋は翔をずっと自分の特別な人だと思っている。恋でもなんでもない、ただの依存相手として。翔は知っていても、逃げられなかった。だからこそ今思うのは。
「川島先輩。俺は……その抱えたままのそれを見てから、先輩のことを好きじゃなくなりました」
「……」
佳恋のまた冷めきった瞳を映す。凍てついたようなそれは、さっきゆのに見せていたはずの、なにかに失望するような目。翔は、暗くて見えにくい佳恋の顔をしっかりと見つめて、言う。
「その目が、嫌いです……」
「わたしのこと認めてくれてたんじゃないの……?嘘だよね」
「先輩のことはよく知っています。それで、信頼もしてると思います。だけれど、ただ少し否定されただけでそうやってなにもかも終わったような顔をするのだけは、嫌いです。嘘じゃないです」
おかしいな、なんて言いながら、佳恋は悔しそうに涙を流した。初めて見た涙がこんなにも嫌で堪らないのは、翔には初めてだった。
「木崎くん。木崎くん。木崎くん……!わたしをどうすれば完璧に認めてくれるの!?ねえ!この顔を直せばいいのね!わかった、待ってね!……ほら!」
無理矢理作った笑顔が、またすぐに崩れる。翔が肩を掴んで、目を合わせて。
「もう、そういうところがダメです……やめてください」
「いやだ!やっぱり、八重山さんが大事ってこと!?なんでわたしを選ばないの…最初は」
「俺も、最初は多分、憧れから入って、話してるうちに好きになってたはずです……だから、ゆのに彼氏が出来た時嬉しかったんだと思います…」
だけど。翔は逸らした目をもう一度向けて、佳恋に伝える。
「先輩の中身に触れた時、冷めたんだと思います。嘘じゃ、ないです」
「ぅぁ、ぁ……な、なんで……なんでそんな……」
子供のように泣き噦る姿が、翔を苦しませる。心が気持ち悪い。
「木崎くん……わたしを頼ってよ……八重山さんからも嫌われて、悔しいのに……」
肩に置かれた手の上に手を重ねる。なにとも言い難い思いが熱として伝わる。
「嫌ってませんよ、ゆのは……だから逆に怖くて仕方がないです。先輩。お願いがあります」
真剣に見つめる。佳恋は、また自分を頼ってくれるのかと嬉しくなった。が。
「ゆのと佐口にも、川島先輩自身のこと、話してくれませんか?」
「……え?」
佳恋は呆然とした。
「待って……え……それは、わたしが一番」
「知ってます。1年ですよ、先輩と一緒にいたの。でも佐口もゆのも、あの中でちょっとずつ進んだのに、先輩だけなにも変わってないです」
「わたしは木崎くんさえいれば」
「ダメです」
「なん……で……木崎くんもわたしがいないとダメだと思ってたのに、なんでそんなこと……わたしだけ置いていかないで……」
「ゆのを見て、少しずつゆのらしくなっていくのを見て、俺も少し決心出来ました。先輩、お願いします。依存じゃなく、俺と、みんなと接してください」
翔が立ち上がると、手首を掴まれる。また、ベッドに倒されるのかと思ったが、佳恋はただ掴むだけで、悔しそうに肩を震わせていた。もうそこには翔の恐怖するものがなかった。
「すぐには直らないかもだけど……木崎くんが言うなら直すから……だから、何かあったらまた頼ってほしい……」
「わかりました。俺はちゃんと信用します。先輩が優しいのはわかってるつもりですから」
佳恋は掴んだ腕を少しだけ引き、手の甲に額を乗せた。冷たい涙が翔の手にかかる。
他人から頼られることで自我を保って、完璧であることで他者から認められて。そうしてきた佳恋が一番ショックな否定だった、翔からの人格否定。そしてそれでも信じてくれると言ってくれた翔からの人格肯定。佳恋にとってはそれが、本当に見てもらえたようで、なによりも嬉しく、悲しく、涙が止まることはなかった。
やばい。と翔は佳恋と教室から出て一瞬で悟る。泣いた後の佳恋が男と2人で歩く、というのがいっそう視線を感じさせた。
「八重山さんに、言わないとなのね……」
早足で人の多い場所から離れる途中、佳恋が気まずそうに声を漏らした。
「そんなにショックだったんですか、ゆのに信じられないって言われたこと」
「うん……わたし、否定されたら心が切り裂かれるみたいに痛くなって、前が見えなくなるから……結構あの言葉堪えたかも」
「ゆのは……人がそもそも信用出来ませんから」
当たり前だ。簡単に元どおりになるはずがない。そうやって翔は自分のことを悔いて喋る。ふと立ち止まった、半歩前にいる佳恋を見ると、そこにはもういつもの陽気で優しい雰囲気の佳恋が戻っていた。
「ありがとう、木崎くん」
反応に困ってしまう。はい、としか翔は返せない。他人だけを愛している佳恋は、そうやって自分の気持ちを隠すように明るく、そしてどこか虚無すら感じさせる笑顔を見せる。
2人とも、変わろうとしてなにも考えは変わってない。
ワイワイと、歓声が響く。雨天の中でうるさいのは体育館の中だ。その横を翔と佳恋は通り過ぎて、また人気の少ない場所へと戻ろうとしていたところだった。対峙してしまうのが本当は怖かったのだと、翔の心臓の動きに思わされる。
「翔くん」
「こんにちは……」
「ゆのはどうしてる?」
「全然、普通ですよ。落ち着いてます」
佳恋はその3人の後ろから、流れから状況の整理をした。ゆのの両親が今目の前にいる。両親からすれば自分は一番忌むべき存在なのかもしれないと思い、佳恋は胸の締め付けが抑えられない。
「こちらが、川島先輩で……せ、先輩……?大丈夫ですか」
「あなたが……川島佳恋さんか」
家族の言葉から、一瞬口が開かない。緊張と恐怖。はいのひとつも言えないのはまずいと思い、ふっと一息吐いてからいつものように隠した笑顔を作った。
「はい。わたしが川島佳恋です。八重山、あ、ゆのさんと仲良くさせてもらっています」
「いつもありがとうね、あの子、本当は明るくていい子だから、これからも仲良くしてくれると嬉しいわ」
「はい。わかってます。短い間ですが、よろしくお願いします」
佳恋は自分を完璧に見せられる。それはまた一長でも、一短でもある。そんな佳恋を見て、翔は仕方なしに目を両親へと戻した。
「少しだけ時間、もらえますか?ゆのなしで、話がしたいです」
「わかった。翔くんがそう言うのなら、そうしようか」
「じゃあ先輩、あっちはよろしくお願いします」
「ま、待って!わたしも、話に入れてほしい……これは、わたしのケジメ」
翔も驚くしかない。さっきまでの作った顔が見えないほどに、佳恋は真剣な表情をしていた。両親も驚き目を合わせてしまい、翔もまた佳恋を見るしかなかった。
「あまりわからないかもしれないけれど、あなたも関係者なら、少しなら……」
「ありがとう、ございます」
頬を掻いて、少し申し訳なさそうな母親に佳恋もまた申し訳なさそうな声をあげていた。
小さい頃から翔の知っている2人だ。ゆのの高校進学あたりからだったか、母親の方も働くようになったがゆのはそれでも家庭が大好きだった。父は公務で上の方に就いており、母も最近は忙しそうに毎日を送っていた。3人の時間もないわけではなかったらしいが、ゆのは時々家族の話で寂しそうにしていた覚えがある。
「ゆのはだから、多分2人のことを大事に思っていて。それで帰ろうなんて言われた時には2人の言うことに逆らいたくない気持ちもあって、辛かったんだと思います」
ゆのの思うだろうそのままを翔は伝えられる。
「それでも、俺たちはゆのが心配だ。もう辛い思いをしてもらいたくないんだ」
「それは……でも、ゆのは自分から変わろうと」
「それが怖いの。あの子は小さい頃から自分から先に進むから、いつどこでなにが起こるかわかったものじゃない。だから、勝手に文化祭の企画に入っているって聞いた時、本当に恐ろしくて……なにかあるかもしれないって」
「俺も……心配なのは心配です。でも、少しくらいは信じてあげるべきだと思います」
両親はわかってるつもりなのにという悔しそうな顔をしていた。なにかが起こってからじゃ遅いというのは、翔も感じていたことであったが。
「信じてやってるつもりなんだ。あいつはいつだって俺たちに迷惑はかけまいとしてくれてて、多分本当は話してくれなかったのがゆのなりの心配させない優しさだってのもわかる。それでも俺たちはゆのを少しでも安全にしてやりたい。翔くんにも迷惑がかかったみたいだしな」
「やっぱり、帰らせる気持ちですか……?」
そうして、3人が思うところを吐き出すたびに、佳恋は口を開かずにいられなくなっていく。
「あの……八重山さんのことですが……」
緊張している。多分、佳恋が自分の思うことだけを言うのは初めてだ。
「八重山ゆのさんは、きっと、この少しの間で変わりました。わたしたちが見てきたんです。辛いことも前向きに、自分が進むために捉えて。だから、お願いします」
佳恋は頭を大きく下げる。胸が苦しくなり、言葉がちぎれそうになる。
「わたしたちも、信じてくれませんか。八重山ゆのさんが信じてくれなくても、わたしたちは信じてますから……!」
自分だけが信用されていない現実を受け止めて、もう少し力強く言う。佳恋は自分の胸が切り裂かれそうになる。この沈黙が辛くなる。
「なんといいますか……」
その母親のひとことさえが怖くて佳恋は顔を上げられない。この両親はきっとゆのを大切に思っていて、こんな部外者が頭を下げても……という気持ちが高まってしまう。
「企画がなくなったのは私たちのせいですし、川島さんにも、佐口さんにも迷惑がかかってしまって……」
思っていた言葉とは違い、佳恋は驚いて顔を上げる。
「それでも、許してくれるのなら、ゆのをよろしくお願いします」
「あ……あ……ぁ、はい!」
微笑んでいる母親が佳恋の前にいた。その言葉は実際懺悔のようで、今はゆのの気持ちを優先してやりたいという親の気持ちだった。佳恋は嬉しそうに声をあげて、翔を見る。その翔は、真剣な目を両親に向けていたままだった。
「今日1日は、ゆのの好きにさせてあげようと思う。だから翔くん、ゆのを頼んだぞ」
「当たり前です」
佳恋はその翔の横顔が恐ろしく使命に駆られていると感じた。翔はずっと抱えていたものが形をそのままに残していた。それじゃああなたも……、と、佳恋は思う。
「多分、今日はもう私たちだけで帰った方がよさそうだし、翔くん、ゆのを最後までお願いね」
「はい」
強く握った拳が佳恋の目につく。周りが見えていない。気を重そうに帰っていく2人の背中を見届けた後、佳恋は隣の翔に声をかけようとして、口が動かない。握った拳に手を合わせようとした時、近くの窓が風ではなく大きく揺れて、「やばっ!」という声が聞こえた。
「え、だ、誰……?」
佳恋は自分の弱いところを誰かに見られたことに気付き冷や汗を流して手を引っ込めてしまう。翔が覗きに行き、はぁと溜息をついた。
「雨の中なにやってんだよ、風邪引くぞ。早く中にはいれ」
「あ、え、あ、はい。すみません……」
窓を全開まで開けると、そこからぴょんと小柄な女の子が廊下の方に入って、綺麗に着地しようとして滑って転けそうになり、なんとか体制を整える。制服や髪は雨に濡れていて、翔も目のやり場に困るように胸元が透けていた。廊下にぽたぽたと落ちる雫に思うことなく、彼女は顔を上げた。
「木崎先輩、ジロジロ見るのはやめてください、変態」
「佐口も、盗み聞きしてただろ。それよりここでなにやってたんだよ」
茜は思い出してハッとした。
「そ、そうです!あの!ゆのちゃん、見ませんでしたか!?」




