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「あ、ゆのちゃん!おはよー!」
昇降口で靴を履き替え、廊下の方へ踏み出す時に朝から元気の有り余る明るい挨拶がゆのに飛んできた。朝早くからなにかの準備をしていたのか、茜は制服の袖を捲って動きやすくしていた。ゆのはびくりとした後、茜の声だと気付きほっとしていた。
「木崎先輩も、おはようございまーす!」
「ああ、おはよう」
「うわ、普通に返さないでください」
「ほんとそういう俺に生意気なところ、誰に影響されたんだろうな」
チラリと翔が隣を見ると、ゆのはハテナを浮かべてこっちを見返した。はっ、と気付いたゆのは瞬間目を逸らす。
「いや、私は、知らないよ……?」
頬を掻いてごまかそうとするのを、翔はもういいやと思って茜に話を振った。
「なんか忙しそうだけど準備はいいのか?」
「あ!忘れてました、行ってきます!また後で!」
咄嗟に廊下を駆け出しながら茜は2人に手を振る。行き交う人を避けながら、教室まで戻っていった。
「茜ちゃん、ここの学校に入学したのって、私がいるからだって」
「やっぱりそうなのか。ゆのの一番の後輩だな」
「……うん」
それだけ返事をし、翔の手を握って、ゆのは一歩進もうとした。その視界に見える人の波に気を取られ、ふらっとよろめきそうなゆのの手を、翔は握り返す。向かう先には人がいないはずだと、そう思って並んで歩く。
「茜ちゃんと、いつの間にそんなに話すようになったの?」
歩きながら、ゆのの不思議そうな目が翔を見る。
「あー、なんか、ゆののことがあってからかな……」
思い返すと茜と翔がここまで話すことは中学時代にはなかったはずだった。2年に上がり、茜が入学した最近のことで、それはゆのが知らない範囲ではある。
「まあ、そんなことで話したりして……」
思い返すと少し恥ずかしくなり口ごもって答えてしまう。そんな翔を見て、ゆのが嬉しそうな声を上げた。
「翔は茜ちゃんのことどう思ってるの?」
「生意気」
すぐに出てきた言葉の後、翔は、でも、と照れ臭そうに話を続ける。
「佐口は優しいな。ゆのとずっと一緒にいてくれるいい子だし」
ゆのはその言葉に驚いたあと、そっか、と小さく呟いた時に、いつもゆののいるクラス番号も付いていない空き教室の前に辿り着く。そこには空き教室らしからぬごたごたしない程度の飾り付けと、佳恋特製の可愛らしい絵と"お悩み相談室"の文字が大きく目を惹かせてきた。
「3人でこれだけやったの?」
「いや……」
ゆのは初めて見るので、少し驚きながら、翔の手を解いて嬉しそうに教室に足を踏み入れた。小気味のよい足音が教室に響き、それを聞いて翔も中に入る。
半分閉められたカーテンが、そこそこの暗さで雰囲気を作っている。
「川島先輩、もう全部準備終えたのか。はやいな」
隅に退かされた机と、教卓。それに囲まれるように4つほどの机と椅子が中央に置かれ、その上には色々と使うのか、ノートとペンが置かれていた。早い仕事に翔が関心をしていると、そんな翔の前にゆのが近付く。
「気になってたんだけど、翔はなんで川島先輩と仲良いの?」
暗がりであまりしっかりと見えないその顔が、妙に明るく感じた。少しずつ、彼女にかかっていた靄が取り払われていくような、翔はそんな気持ちにさせられてしまう。近付いた顔から目を逸らし、少し考えて発言をした。
「入学してちょっとしてから」
「でも、保健室に行った時なんかでも、川島先輩からはあまり翔の名前は聞かなかったけど」
ゆのに気を遣ったんだろうなぁと思いながらも、それを発言はしない。黙った翔にゆのは少し頬を膨らませ、ちょっと皮肉めいて言う。
「川島先輩のこと、好きなの?」
「そんなんじゃないから……!」
翔の顔が途端に真っ赤になってしまい、上ずってしまいながら否定する。ゆのは少し違和感を感じ、思ったことを言う。
「なんか、前にみんなで話した時もそうだった。茜ちゃんの言葉で、なんか怪しいなって」
「いやほんとに、そんなんじゃないよ。先輩に聞いてみてもいいから」
「そっか。なんか残念」
すんなりと諦めたゆのに、翔は少し安堵する。ゆのは翔に背を向け、適当な奥の席に座りに歩いた。トントンと静かな教室に響き渡る上履きの音、椅子をガラガラ床を擦る音が、意識させる様に2人の耳にだけ入り込んでくる。少しの静寂を割くように、翔が言葉を出した。
「じゃあ、一旦教室に行くから、待ってて」
「うん。待ってるよ」
一抹の不安を覚えながら、ゆのに背を向けて翔は自分のクラスへと向かう。それをゆのも、遠ざかる足音に寂しさを感じてしまい、胸をぎゅっと押さえた。
翔は、担任の注意事項の挨拶を聞き流し、終わると同時にすぐ立ち上がった。はやくゆののところへ、と思ったがそれよりも、クラスの出し物の設営準備を手伝おうとして。
「なにか手伝うよ。なにすればいい?」
「あ、じゃあ、すぐにこれを天井に付けて」
1週間、今までしてこなかったことをした。クラスの人たちが困っていることがあれば手伝った。ゆのが踏み出したならば、自分も少しずつ進まないといけないと、そう思った。渡された輪つなぎを破らないよう慎重に取り付けていると、後ろから少し仲の良くなった男子に呼ばれた。
「なぁ、先輩が呼んでる」
そう言われて流された視線の先を見ると、気まずそうに佳恋が待っていた。綺麗な先輩がそこで誰かを待つ、その誰かにクラスの視線が集まるのも致し方ないことではあった、がやがやと騒めきが耳に入ってくる。
「あー、これすぐ終わらせて行く」
「で、なんで木崎が川島佳恋先輩に呼ばれてるんだよ。みんなびっくりしてるぞ」
「それも後で話す」
しっかりと取り付け確認し、登っていた椅子と机から降りる。もう一度見てみると、佳恋が翔に胸元で手を振ったので急いで向かった。
「先輩。なんでしょう」
「別に改まらなくていいのに。ちょっとしたことなんだけど。買い出し、行ってほしいの、お願い!」
「わ、わかりましたから、ちょっと、みんなの目線が」
先輩に顔の前に手を合わせてお願いをされている、翔への視線が強くなる。それを気にして翔はドアを閉め話を続けた。
「で、なんですか?それは」
「欲しいもののメモ!わたしちょっとクラスの方が忙しくて、だから……って思ったけど、木崎くん、ちょっとクラスに馴染んだの?手伝ったりして」
「少しくらいは……でも多分すぐ終わるんで、行ってきますよ」
「じゃあ遠慮しない、お願いね!わたし教室に戻るから、また後でね!」
慌ただしくし、廊下を走らないで急ぐ。その背中を見送りドアを開けると、さっきの男子が目の前に待っていた。
「おい、なんで木崎が先輩と仲良く話してんだ。羨ましい」
「あはは。別にそんな、1年の時からちょっと縁があるだけ」
「くそ、俺も佳恋先輩と仲良くしたい。……おっぱいでかいよな」
「こら!なんてこと話してんの!はやく手伝って!」
目の前の友達の後ろからパンっと丸めた新聞紙で叩かれ、女子に襟元を掴まれて連れて行かれているのを、翔は苦笑いをして見ていた。そしてすぐに自分のやるべき作業に戻っていく、そんな朝。
クラスの作業が終わると、翔は渡されたメモを見る。可愛いイラストの横に、"カラーペン"と、"八重山さんと佐口さんに似合うリボン!"と書かれていた。
「いや、俺に選ばせるのか……」
その下にはちゃっかり"お金はちゃんと返ってくるよ♡"と可愛らしく書かれていて、苦笑いをするしかなかった。
とりあえず、とお悩み相談教室に顔を出すと、茜が話をしながらゆのの髪を整えていた。
「遅いですよ木崎先輩!まだ時間はあるからと言ってゆのちゃんを1人にするなんて、ほんとアホですね、アホ」
「茜ちゃん、私は別に気にしてないよ」
「甘いよゆのちゃん!木崎先輩はもっと女心をわかってもらうべきなんだから」
2人が仲良く話している、その内容のせいで言い出しづらくなるが、翔は仕方なく言う。
「これから少し買い出しなんだけど、2人に合うリボンがほしいらしいから、付いてきてくれると」
茜ははっ、となにか思って、すぐに返事した。
「茜はパスで!めんどくさいんで!」
「私は行ってもいいけど」
「ゆのちゃん!……」
その前でもじもじしながらゆのが声を出すが、茜が耳元でなにかをゆのに言うと、
「や、やっぱり私もいいや」
と言う。茜はその後ろでなにやらいたずらめいた笑いを向けていた。それを見て、翔はもう一度2人に背を向け話す。
「まあわかった。何色がいいとかあれば」
「全部木崎先輩が決めてくださーい!いってらっしゃい!」
「気をつけてね」
そんな声が聞こえて、はぁと溜め息をつきながら教室を出る。足音が聞こえなくなると、茜はゆのに嬉しそうに話し始める。
「木崎先輩が茜とゆのちゃんのイメージをどう思ってるか、見ものだね!」
「まあ、ちょっとは気になるよね……」
「だよねー!どんなの買ってくるんだろ、茜だし茜色かな?」
楽しそうになにかを考える茜の顔を見て、ゆのは素朴な疑問を、包むことなく質問にした。
「ねぇ、茜ちゃん。翔のこと好きなの?」
その言葉を耳にすると、一瞬硬直し、少しの間の後一気に顔が火照り出す。ぶわっと熱くなったのを、茜は自分の手で顔を仰ぎ始めた。
「そんなストレートに聞かないでよ!別に好きじゃないから!」
「ごめん、なんか最近、また人の気持ちに触れ始めて、手探りで気持ちを理解したくなって……なんかごめんね」
「ゆ、ゆのちゃんが謝ることじゃないよ!あーびっくりしたぁ、驚いちゃったよー」
そう言って茜は頬を手で覆った。ゆのはそれを見て、うん、と優しく言う。そして、動いた秒針の音で、外が一斉に盛り上がった。
文化祭の一日目が、始まる音が鳴り響く。
○○○○○
すっかり人も増えた校舎をひたすらに通り抜けて、奥まった教室へと向かう。すると途中から人が減り、着く頃には人が1人も見えなくなっていた。
勢いよく開けると、座っていた佳恋がぱっと顔を明るくして、翔だと確認すると少ししょんぼりとした。
「おかえりなさい木崎くん、買ってきた?」
ふふっ、と笑う佳恋。制服の上から大きめの白衣を着、スタイルは隠れているが大きいとわかる胸は強調されていて、少しだけ翔は目を惹かれた。それに気付いた茜の声が、奥の机の固まった席の方から聞こえてくる。
「やっぱり木崎先輩はおっぱいが好きなんですね!むっつりですよむっつり!」
「茜ちゃん、おっぱいの声がおっきいよ。恥ずかしいから」
そんな茜は、自分の胸を気にしている。嫉妬だな、と思い聞き流そうとすると、ゆのが少し顔を赤くして翔に微笑みを向けたので、とりあえず、と袋から2つのリボンを取り出し、2人の前に差し出す。
「赤いのがゆの。青が佐口かなぁと」
その色の組み合わせに受け取った2人は目を見合わせた。思っていた色とは、真逆なことに驚いていた。
「なんでこの色にしたの?」
その選択を確かめるように、後ろから覗いていた佳恋が質問をし、それを聞いた2人が翔の方を向いたので、恥ずかしそうに、それでいて考えることもなく答える。
「ゆのは綺麗な夕焼けで、佐口は雲ひとつない青空……ってなに言ってんだ俺は」
「なるほど!ぴったりね!2人には今日明日、これを付けていてもらうね!」
佳恋はすごく嬉しそうにそのリボンを預かった。すぐに奥隅に行き、なにかをし始めるのを見ていると、茜が翔の裾を摘んで引っ張った。ぐっと身体が傾くと、翔の耳に茜の息がかかりぞわっとした。
「なんで茜なのにオレンジとか赤じゃないんですか」
そんなことを耳元で聞かれる。翔は疑問に持ってそのまま返事をした。
「なんでって、なんでもなにも、佐口は青だって思ったんだから、仕方ないだろ。教えてくれればその色選んだのに」
そう言うとすっと離れたので、そんな茜を翔が見ると、もじもじと気恥ずかしそうにしていて、それが少し可愛く新鮮味を覚えた。向こう側で座っているゆのを見ると、目が合い、すぐに逸らされる。
「はい、八重山さんと、佐口さん。好きなところにつけていいからね。これ付けて、宣伝なんかもお願いします」
そんな2人に、戻ってきた佳恋が嬉しそうに微笑みながら、ピンク色のゴムを取り付けたリボンを渡した。2人は少し迷い、ゆのは右腕に、茜は髪に付ける。可愛いー!とそんな2人を佳恋が手を合わせて褒める声が4人だけの教室に響く。外が賑わっているのがわかるほど騒がしい祭の喧騒が聞こえ始めても、この教室だけはここにいる4人だけの時間なのだと、翔は思った。
そんな時間も束の間で、1人目の来客が来ると、嬉しそうに佳恋は仕事を始める。
「しかしまぁ、お悩み相談なんて佳恋先輩は人が変わってますよね。なんというか、お人好し?」
「まあそうなんだろな」
そんな佳恋を見ている翔の隣に茜が並び、佳恋に聞こえないように話をする。翔はそれに無愛想に返事をし、なにかを知らない生徒と話している佳恋を見たままでいた。それが茜は気に入らなく、耳を摘んで引っ張った。いたたた、と声を出したせいで佳恋がバッとその声の方を向き、すぐになんでもないよと言って話を続けているので、翔は居たたまれない気持ちになる。茜はまたそんな翔を見て、引っ張った耳元に呟いた。
「木崎先輩、佳恋先輩のことでなんか、隠し事してますよね?」
驚愕。茜のその真剣な表情に、翔はただそれだけを抱く。思ったことを隠しもしない彼女に、ただ。そんな気持ちを隠そうと必死に声を出す。
「なんでそう思ったんだ」
「そりゃ、見てたらそう思いますよ。それが多分、2人の関係として繋がる理由だってことも」
「まじか……」
バレることはしていない、翔はそのはずだったため、ひやりとする。そんなことを言った茜は翔の困った顔を見ていじわるに笑っていた。
「ってまあ、茜にはそれがなんなのかはわかりませんが」
茜は。人を見る。自分の周りに形成されるものを感じ取り、悟る。
だから、と。茜はあくまでも明るい顔で続けて話す。
「だから茜は多分、ダメなんです。見えてるものしか言葉にできないから」
翔に重くのしかかる声音。明るい笑顔とは裏腹なその言葉の強さに、翔は気張らずに応える。
「別にそれが佐口なら、それでいいんじゃないか。たとえそこにあるものしか見えないなら、それはそれで悪いことじゃないだろ」
途中で自分の言ってることがわからなくなっていた翔の、そんな言葉に茜は驚嘆を浮かべていた。
「なんだよその顔は」
「……あ。木崎先輩がいいこと言うのはダメです。ダメダメ、そういう人じゃないです」
「どういうことだよそれ」
翔の納得のいっていないような言葉に茜は笑い、翔も少しつられて笑みを浮かべる。
ゆのは、そんな2人を、座ったまま頬を緩めて眺めていた。そしてもう1人、真摯に名前も知らない人の話を聞く彼女の背中も見る。見ている世界が少し前とは違う、安堵。暗い部屋での出来事が嘘のようで、自分が口を開かなくても、許してくれる世界。閉ざした目と、耳を、澄ましてしまう。
「心配しなくて大丈夫ですよ!」
佳恋の華やぐ優しい声。
「なんで突っかかるんだよ」
「木崎先輩が暇そうだからです」
生意気に口を利く茜と、それに頭を抑える翔の2人の軽いじゃれ合い。
見れば見るほど、聞けば聞くほど、ゆのは自分はここにいることが不思議でしかなかった。溢れる嬉しい感情が、すごく、苦しくさえ思っている。
「なんだろう、この、なんとも言い難い気持ち……」
独り言のように、ゆのは漏らした。胸が苦しくて、吐き出したい気持ちが強くなった。目を瞑って落ち着こうと必死になっていて、ふと隣から声が聞こえた。
「ここにいて苦しいの?それは多分ね、自分の世界とは違う、って思ってるからだよ」
「どういうことですか……?」
佳恋は話を終えまた出来た空白の時間に、ゆのの隣に椅子を引き座る。苦しくて鳴り止まない鼓動を抑えるよう、ゆのは彼女に乞う。
「ずっと心を閉ざしてたんだもの。いきなり暗いところから明るいところに出されても、最初はどんな人も目を眩ませるよ。けど、ここにいるみんなはそんなあなたの手を引いてあげれるから、大丈夫だよ。信じて」
「でも、そんなの……」
「そりゃあ、簡単には信じられないよね。少しずつで大丈夫だから、気にしないよ。あ、そうだ」
佳恋が立ち上がり、茜と翔を呼んだ。とたとたと走った茜とゆっくりと歩いた翔がゆのと佳恋の近くに来ると、佳恋は嬉しそうに言う。
「3人で、屋台にお昼ご飯を買いに行ってきてくれない?」
「え、まだその時間には早いんじゃ」
「今くらいなら人も減り始めてるだろうし、ちょうどいいってことじゃないですか?」
「そういうこと。わたしは何でもいいから3人で決めてね!それと宣伝もお願いね!」
そう言った佳恋は、茜のリボンを触ったと思えばすぐに頭を撫で始めた。嫌がりジタバタしている茜を見て苦笑いを浮かべている翔の隣に、ゆのが並んで不安そうな声をかける。
「翔。私も行かなきゃダメなのかな……」
「うーん、まあ行くだけ行こう。辛くなったら戻ろう」
翔はそれだけ言い、ゆのに手を差し出す。いつものようであったが、ゆのは少しだけ動じてしまった。佳恋に言われた"あなたの手を引いてあげれる"ことが不安で、声が勝手に出てしまう。
「ちゃんと手を引いてくれる?」
その言葉に翔は驚く。これまでしてきたことに、初めて疑問を持たされた。でも、それでも、翔は少し考えて言葉を出す。
「引いてほしいと思う限り、ずっと連れてく」
「迷惑じゃない?」
「今更だろ。迷惑ならとっくに離してるよ」
途中まで伸ばしていたゆのの手を、翔は掴む。触れたその手が、2人の気持ちを繋ぎ止める。
「……わかった」
ゆのは小さく頷いて掴まれた手を握り返す。こうすれば、ゆのは気持ちが楽になる、吹っ切れられる。世界で一番、一番信頼の出来る。
一番信頼の出来るなんなのか。ゆのは答えが浮かばなかった。離されない手のひらは、その答えを教えてくれもしない。
「木崎先輩、ゆのちゃんを離さないでくださいね!」
一目散に戸を開けて、そこから顔を出して翔の名前を茜は叫んだ。そんな茜を見て満足そうな佳恋が、手を繋いだ2人に向き直る。
「ふふっ、そうやってる2人を見ると、こっちが照れちゃうね」
「からかわないでくださいよ……!」
焦る翔を見て、つまり恋人のよう、と言われたのを察してゆのは顔を真っ赤にした。繋いでいない方の腕で顔を隠し、声にならない声を心にあげる。
「気にしなくていいよ、ゆの。落ち着いて」
繋がれた手が熱くなるのを翔は感じたので、咄嗟に声をかける。そんな2人を見てまた、佳恋は満足そうにした。
外を歩いて数十分。先導して屋台を巡っていいものを探す茜が時々甘いものを見つけては翔とゆのを呼ぶため、右往左往する間に3人の手には昼飯とは関係のなさそうなものを持っていた。幸い今は校舎内に人が流れ込んでいるのか、外はあまり混み合ってもなくスムーズに進めていた。あっ、と声を出した茜の示した先には、また美味しそうではある甘いジュースだった。
「茜ちゃん、なんか楽しそうだね」
「1人ではしゃいでるけどな」
「違うと思うよ、それは」
そう言って、ゆのは笑顔を見せる。その笑顔は翔にとっては、なによりの安心であった。しかし話をしていると茜がしつこく呼ぶので、2人はそちらに歩みを寄せる。
「木崎先輩はどれがいいですか?」
「とりあえずこの持ってるのから消化したい」
「ダメです、これ全部持って行きますから、頑張ってください」
いや……と声を出す翔を無視してメニューに目を通し始めた茜を見て、ゆのは不思議と自然に笑いをこぼしてしまう。それを聞いた茜と翔が目を見合わせて、2人して嬉しくなる。
「はあ、わかった、とりあえず俺はりんごでいいよ」
「わー!先輩可愛いですね!ゆのちゃんはなににする?」
「わ、私はー…私もりんごかなぁ」
「じゃあ、りんご4つお願いします!」
わかったとは言ったもののどう持てばいいのかわからず、渡された翔と佳恋、2つ分のカップを翔は抱きかかえるように持つ。そうなった翔がストローに口を付けられず困っているのを茜が楽しげに笑いながら、晴れきった道を歩く。ゆのはそんな普通の日常を久しぶりに感じる。今までの楽しかったことを、思い返して。そして。
「翔。私、ドキドキしてるよ」
小さく、呟いた。人に紛れて消えるその声は、ゆのの精一杯の嬉しさだった。
「ほら!次行きますよ次!楽しまなきゃ損損!」
茜が楽しそうに屋台を回るのを、2人は仕方なしにとついていく。その荷物が次第に増え、いつの間にやら茜が両手に紙袋を抱えた時点で一旦教室に戻ると、そこには少ないながらもポツポツと並ぶ人が見えた。邪魔にならないよう後ろから教室に入ると、佳恋のひとりひとりの話を真摯に動じず聞いている姿が3人の目に入る。そんな風景から、茜は佳恋に声をかけにいく。
茜が机に適当に置いた食べ物の袋の近くに、後ろに残った2人は持っていたものをゆっくりと置くと、ゆのは翔の手を離すと元の席に座って顔を伏せた。
「つかれた」
ゆのの漏らした声に翔は、そうか、とだけ言って笑う。カーテンの半分だけかかった教室は目を瞑ると寝てしまいそうなほどで、ゆのは心地が良くなる。
安心してしまう。
甘えてしまう。
それでも、ゆのは自分がここにいることが少しでも楽であり。隣に座って翔がかけた制服の温もり、またゆのにとってはそれすらも変わった過去を振りほどいていくようで。ゆのが抱えた心の塊は少しずつ小さくなっていっていた。
翔の隣に茜が寄ってくると、小さく息を刻む音で口を閉じる。朝のような元気のある茜ではあったが、そこにはなんとも言えない儚さを、翔は感じた。
「木崎先輩。ゆのちゃんがなにがあったからと言って、なにか言うつもりはありませんでしたけど。その。すみません」
「なんで謝るんだよ」
「だって、茜は……ゆのちゃんが動かなきゃ、なにも始まらないって。多分それは違って。茜たちが動いて、それで動いてもらうのがほんとは」
「それはそれで違うと思う」
翔は話を中断させるよう、袋の中から軽めのポップコーンのカップを取り出し、茜に渡す。
「あ……ありがとうございます」
「で。多分だけど。佐口の言ったことも間違いではないだろ。あの時反論出来なかったのが答えだな」
胸を張って自虐風に答えた翔を見て、茜は小さく笑った。それで少し気持ちを和ませ、微かに顔を柔らかくして翔は話を続ける。
「自分たちがどうこう出来ることじゃないのはわかってる。俺だってめちゃくちゃ悩んだからな。ただ、今こうやってゆのと一緒にいれるのは偶然とかじゃなく、ゆのが自ら歩み寄ってくれたからだよ」
「そうかもしれませんけど、それでも茜は、よく知ってるはずのゆのちゃんのこと見誤ってたというか、それが悔しくて」
悔しくて、それだけ言って茜は口を噤む。翔はそんな茜の頭に付けた青いリボンに手を付ける。触れられた感触で茜はびっくりして可愛らしく跳ねる。
「佐口は佐口らしくゆのを見てやってくれればいい。それだけで充分だと思うな。佐口のこと、俺も信用してるから」
茜が頭に乗せられた手を退かすこともなく、少しずつ萎んでいくように思えた。返事がなくても、意思はしっかりと感じられる。
「でも、先輩……」
そんな茜が聞き取れるか否かほどの小さな声を出す。
「やっぱり木崎先輩はいいこと言うのはなしです」
「はは、少しくらい許してくれ」
翔はぐっと頭を強く押し、茜が上目遣いで怒った顔をした。それを見て、翔は軽く言葉をかける。
「そうそう、そうやって明るい佐口が佐口らしくていいよ」
「調子に乗らないでくださーい!」
頭を下げ翔から抜け出して、べーっと舌を出してそっぽを向く。そのなんだか火照った自分の顔が、茜はよくわからなかった。ので、無理やり声を出す。
「とりあえず、昼食べるの買いに行きましょっか」
「あ、そうだったな。2人で行くか」
翔の言葉に少し反応し、何事もなかったかのように翔の隣に並んで教室を出る。佳恋はそんな2人をちらりと見ながら、またすぐ対応を始めていく。
2人並んで歩いていると、茜の友達のグループが寄ってくる。なにやら興味を示すのは、2人の関係だった。「彼氏出来たの?」「茜やるじゃん!結構かっこいいし!」と様々に声をかけられ、「違いますー!」と早々に否定をする茜を翔は少し離れて見ていると、後ろから翔のクラスメイトが話しかけてきた。
「木崎、楽しんでる?」
「ぼちぼち。そっちこそ」
「彼女がいれば俺だってなー。川島佳恋先輩みたいな美人と繋がりたい」
「川島先輩なら、今お悩み相談やってるぞ」
苦笑いしながら、ちゃっかり宣伝もする。するとまじか!とだけ言って即走り出し、背中が人混みに見えなくなってしまう。それを見ていた、友達と別れた茜がなにやら難しそうな顔をしていた。
「どうした?」
「いや、なんかですね。佳恋先輩ってすごいなぁと思いまして」
誰からも慕われるような、そんな憧れも、美女という括りである人気も。茜にとっては遠い存在なはずだった。今こうして近くにいることさえ茜にとっては不思議だった。
「そういや、いつのまに下の名前で呼ぶようになったんだ?」
翔のふと気になった疑問に、少し考えて茜は答える。
「堅苦しいから佳恋でいいよ、って言われたんで」
「軽いなぁ、俺も川島先輩はすごいと思う」
なんて軽く言って笑い、翔と茜はそのまま買い出しを再開する。さっきみたいに困らないように、今度はちゃんと買おうと笑っていた。
再び戻った時。昼前になると人もそこそこ減り始め、佳恋にも空きが出来始めていた。佳恋は誰かの話を聞くのが好きだ。そのためこの教室を開きひとりひとりと真剣に向き合う。思ったよりも人が多く来るため困るのは困っているが、それでも他人の悩みを打ち明けてもらうことも本望であった。最後の1人の話を終わらせてひと段落つこうとすると、ふと佳恋の隣にプラカップのジュースと香ばしさの漂う唐揚げと焼きそばが置かれ、その手の主を見る。
「ありがとう、木崎くん」
「いえ、お疲れ様です先輩。これ、どうぞ」
「八重山さん、ちょっと人混みに疲れたかな?」
佳恋は少し伸びをして、後ろの席を見やり、それに沿って翔も後ろを向く。
「八重山さん、ちょっと困ってたみたい。なんだか、ここにいていいのかなぁって」
ゆのの隣には茜が座り、起きるのを待つように窓から射す光に当たりながらスマホを触っていた。
「そういうことですか……」
いつも繋ぐ、左手を見る。ずっと引いてやると、そう言ったことをもう一度握り締める。
「あ、そういえば、木崎くんのお友達来てたよ。最初にどういう関係なのか聞かれたけど、どんな話したの?」
「あはは、別になにもしてませんよ。というか、先輩がまずはみんなから見られてることに気付くべきです」
「そう言われてもー」
くるっと佳恋は身体を戻し、ジュースのストローを口に付け、少し飲んで話を続けた。
「そうそう、木崎くん。明日わたしにもちょっと付き合ってね」
「はぁ。まあ少しくらいなら」
「つれないなぁ。まあでも、約束だよ約束。いただきます」
箸を割り、陽気に焼きそばを食べ始める。なんだかあまり似合わない光景に、少し違和感を感じた翔はもう一度ゆのの方を見て。
ガタッ、という音を立て、机から顔を上げたゆの。翔と目が合い恥ずかしくなって辺りをキョロキョロ見回すと、時計が目について、そこそこ時間が経っていたことに気付く。
「え……寝てた……」
「おはよゆのちゃん」
「あ、おはよう、茜ちゃん」
まだぼんやりと霞む目をこすり、隣の茜を見る。茜は嬉しそうにゆのを見ていた。
「お昼買ってきてるよ。食べてね」
「あ、ありがとう……」
前に置かれた唐揚げと焼きそば。寝起きには少し辛いと思ったゆのは、後で食べようと一旦隣の席に置いて立ち上がる。
「トイレ……」
ばさりと翔の制服が椅子に落ち、寝惚けて声を出しそのまま歩いて廊下に出ようとする。
「さ、佐口、お願い」
「はーい、了解でーす」
翔は困ったように、隣にいた茜に声をかけ、一緒に行くよう促した。2人が出て行ってから、佳恋が笑った。
「ふふっ、八重山さん、寝起きはあんななのね」
「俺もよく知りませんよ、さすがに……ただ素のゆのだなとは思います」
「そうね、寝惚けてひとりで行くなんて、お家じゃないんだから」
翔は今の言葉で、それくらい安心していたということに気付く。それは逆に、それほどに外界との境界が曖昧なことにもなり、なぜか少し心配になった。
廊下を真っ直ぐ歩けばすぐにある、今の時間は昼食時で人もあまりいないのが功を奏し、なにも心配なく辿り着く。
「ここで待ってるね」
「うん、ごめんねなんか」
途中、自分がひとりで出ようとしていたことに気付き、一瞬で視界が狭まった気がした。けれども隣に茜がいることがなによりもの救いで、ゆのは落ち着いてまた歩くことも出来た。
外にひとりで出るのはまだ怖い。ゆのはそれをまた気にする。膨らんだ気持ちがどうにも気持ち悪く、帰りの直線だけの道が思っていたよりも怖いものだと思った。
「茜ちゃん。あのね。私、どうしよ」
「ん?どうしたのゆのちゃん」
意味もなく声をかける。茜は素直に返事して、その声でゆのは安心した。
「やっぱりまだ人が怖いなって」
「少しずつ慣れていけばいいよそんなの」
「だよね」
だよね、としか返せなかった。そんなのは自分でもわかっている。けれども、謎の焦燥感がゆのを襲う。頭によぎるてのひら。離したいのに、繋いでいたい。頭で悩むゆのに、茜が優しく語りかける。
「最近、少しずつ進んでるよ。ちょっとずつ、ゆのちゃんがゆのちゃんらしくなってきて、茜は嬉しいんだよね。だから、茜もちょっと色々と自信がついたかも」
「そっか」
「だからごめんねゆのちゃん」
「え……?」
ふと、当たる手。肩の距離が、ずっと縮まる。絡まる手。強く握られた小さな手が、ぎゅっと離さないかのように、深く深く指と指の間を抜ける。温かい、手の感触が。
──怖い。
なんで、怖いのかはわからない。人と触れ合うのが怖い。ぱっと出た言葉。
身体が震えてしまう。仲のいい人と手を繋いだだけで、頭の中が恐怖で侵食される。咄嗟に強く振りほどき、身を屈めた。
「ご、ごめん!ゆのちゃん!ごめん!ごめん!ごめん……!」
茜は、自分のしたことが間違っていることに後から気付いて、悔しく、多く涙を流す。目の前の、大好きな先輩を苦しめたことがなによりも辛く、震える肩を支えることすら出来ないのを、憎む。勝手に自信がついたことに苛立ちを覚える。頭を抱えて周りを見ないゆのを、茜はただ隣で慰め、謝ることしか出来なかった。
○○○○○
泣くことしか出来ない茜。肩を震わせたゆの。遅いなと思い廊下を見ると、そんな2人。翔はなにが起こったのかという理解をするよりも先に、2人を教室へ連れて行く。茜が泣きながら声を出すのをきっかけに、翔と佳恋は話をまとめていった。
「木崎先輩。茜、茜は、ほんとに、取り返しのつかないことをしました……!」
声を震わせて、出来事を説明した後そう言う。悔しそうな声に混ざる嗚咽が胸を抉る。
「とりあえず。ゆのの方も気になるな。先輩。佐口の話を聞いてくれませんか?」
「わかった」
佳恋が茜に寄り添うのを見て、翔はゆのに近付く。びくりと身体を震わせ、視界を隠すように目を瞑って座り込むゆのに優しく声をかける。
「ゆの」
「翔……ごめん……!私、茜ちゃんと手を繋いだら……怖いって思って…………!」
翔はなにも言い返せなかった。かける言葉が見当たらない。それほど、ゆのも悔しそうであった。
「茜ちゃんの手の感触も、はっきりと覚えてるの……でも、あの日腕を掴まれた手が、浮かんで、それで……」
ぐっと、拳が握られる。仕方ない、とは言えない。それは多分ゆのにとっても辛い言葉だと、翔は悟っていた。
「あのね、翔……翔と繋ぐのは全然大丈夫だったの。それに茜ちゃんに髪を触ってもらっても、なんともなかったの。なのに、手を繋いだら……ダメで……」
苦しそうな声をあげ、床に涙が落ちる。朝に見た、髪を整える茜と、それを嬉しそうに笑っていたゆのの顔。そんな睦まじい世界が、一度触れただけで崩れたということに、翔は悔しさを見る。
「わかった。わかったよ」
そう言い聞かせるしかないと。ゆのにも、自分にも。壊れそうなゆのの気持ちを繋ぎ止めるように、その恐怖を遠ざけるように翔はひとつずつ言葉を受ける。
「悔しいよ翔……私……これじゃ茜ちゃんとももう……」
息も絶え絶えなほどの嗚咽が翔の心を蝕む。自分のせいだという思いが胸を焼く。
「翔……やっぱり私……みんなといれないよ……私が誰かと一緒にいてもいいことないよ……だから翔……私と関わっちゃダメだよ……」
「そんなこと言うな、落ち着いて」
少し顔を上げて翔のその悔やんだ顔を見たゆのは、思う。ああ、自分はこの人と一緒にいるのが本当は、一番信頼しているからこそ怖いんだ、と。
「翔はなんで私に構うの……私は翔と関わっちゃダメだよ……私なんかのためにそんな」
「なんかって言うなよ……!」
突如として荒げられた翔の声にゆのは驚いてはっとする。口にしてしまったものはもう、戻せないのは、あの日のことから知っているから。
「ゆの。俺はゆのが大事なんだよ。大事だから……ゆのがそうやって自分を殺すのは、俺が悲しいんだ……」
翔の苦し紛れの吐露。いつも一緒にいたはずの人のことすらわからなくなってしまったゆのは、そのことに対して見えないように唇を噛み締めた。
「だからゆの。頼むから、もう少しだけ落ち着いてくれ……」
こくりと小さく頷き言葉を発さなくなったゆのを見て、翔はとりあえず自分の制服を椅子から取り、ゆのにかける。
「佐口さん、ちょっとは落ち着いたよ。木崎くんに話があるって。とりあえずお客様の接客とかするから、お願いね」
後ろから背中をつつかれ声をかけられたので振り向くと、佳恋はかなり沈んだ顔をしていた。その佳恋の後ろで泣きやんだ茜が翔に申し訳なさそうな顔を向けている。
「わかりました。ほんと、迷惑かけてすいません」
「いいんだよ、木崎くん」
そう言うと小走りに教室から出る佳恋の背中を見届けた後、立ち上がった翔は茜に向き直る。
「どうしたんだ」
「どうした。じゃないですよ先輩……」
茜は、しゃがみこんで動かないゆのを見て、また苦しくなる。繋いだ手が震えるような感覚がして、もうひとつの手で腕を押さえた。
「茜は、本当に、本当に。大丈夫だって確信はなかったのに」
それは、ゆのにとっての見えないものへ触れたこと。それが失敗してしまったこと。翔はそれでも、茜のことを真摯に見つめる。
「ありがとう、佐口」
「なんでありがとうなんですか」
「佐口の、今一番出来る最善手だったんだろ。自分が動いて変える、ってことの。それなら、なにも責めない」
「なんでですか……叱ってくださいよ木崎先輩……失敗してしまったんですよ、茜は。いけると思い込んで、自分勝手に……」
「叱る理由がないよ。俺だって、失敗したんだ。だから今こうやって取り返してるんだよ。それに……」
ふと、後ろにいるゆのが気になって見る。多分、この話は耳に入れてるのだろうというそんな気持ちで茜を見返すと、不貞腐れていた。
「なんだよその顔」
「はやく続きを言ってください。それに、なんですか」
「いや、特になんでもないんだよ。それにゆのも大概自分勝手だしなと思って」
「そんなこと言うと木崎先輩もかなり自分勝手ですよ。みんな揃ってそんなんじゃ、まとまりつかないじゃないですか……」
翔の胸にひとつグーパンチが飛ぶ。痛くもない、強くもないその攻撃に翔はなにも返さない。その手から茜の強い力、想いだけが伝わってくるのを、翔はただ受け止める。茜の、本当にゆののことが好きだという気持ちを受け止める。
「絶対木崎先輩だけには弱いところ見せたくなかったのに」
「残念だったな」
もう一回、殴られる。柔らかい苦しみをぶつけて、手を下ろす。
「……佳恋先輩、手伝ってきます」
「ちゃんと涙拭けよ」
「うるさいですね先輩。デリカシーがないです」
そう言って、濡れた頬を拭って茜は笑顔を見せる。それはまた、晴れた空のように無垢で素直な彼女の心だった。
茜が駆けていく音が離れると、ゆのが足元の裾を引っ張る。翔がそれに気付いて振り向くと、ゆのが少し不満げに見えた。そんなゆのの隣に座って、翔は天井を見上げる。
「翔。全部聞いてた」
「うん」
「私は自分勝手だけど、翔に自分勝手だとだけは言われたくない」
「ごめん」
翔が向くと、ゆのは顔を上げ、落ち着けるよう息を吸い、ゆっくりと吐いた。ペタンとお尻を床に付けて座って、スカートが汚れると翔は言おうとしたが諦める。
「落ち着いたよ。話しよっか。私ね、翔と手を繋ぐといつも安心するんだよね」
「うん。だからずっと俺も手を出してる」
「でも、茜ちゃんに繋がれた手は、なぜだかあの人のことを思い出して、怖くなっちゃった」
あの人。ゆのの元カレ。翔はあの憎い人間を思い出して、気持ちを抑えて声を出す。
「ああ」
「人と触れるのが怖い。人と目を合わせるのが怖い。なんだか、その気持ちが溢れてきてね……ってあれ?」
無意識に涙を零しそうになって、途中から涙ぐんだ声を出していたゆのは指で拭う。
「ダメだ、話すだけで頭の中が怖いで埋め尽くされちゃう。翔、私、やっぱりダメなのかな、社会復帰」
「どうだろうなぁ」
「もう、茜ちゃんにはいい言葉かけておいて、私には冷たいよね翔」
少しだけ、純粋に笑った気がした。翔はそのことに驚いたが、もっと驚いたのはゆの自身だった。全部が全部無意識で、涙を流しながら笑って、それはなんだか不思議でならなかった。翔は、それがまた艶やかに見えて、見惚れるようだった。
「なんだろう、情緒不安定だ」
「ずっとだろそれ」
「だよね。私もそう思う」
涙を拭ってゆのが涙を落とさないよう天井を見上げた。そこになにもないのを翔も知っている。それでも、翔も見上げ、2人してただそれだけをした。
「私、ちょっと気分が晴れたかも。茜ちゃんに触れられて怖いと思って、ちょっとだけだけど考えたんだ。やっぱりこういうのは、自分がいけると思った時に自分から動かないといけないんだなぁって」
「無理しなくていいからな」
「するわけないよ。翔に心配されたくないから」
そんな皮肉めいたゆのの声が、翔にだけ届く。そうか、とだけ翔は返し、2人はまた上だけを見て言葉も交わさない。
「って!木崎先輩!ちょっと!気まずいんですけど!」
茜の困ったような怒声が翔に向けられる。昼の時間も終わり、佳恋がまた仕事を再開した辺りでそんな大声が聞こえたせいか、佳恋の前に座っていた女子生徒も驚いた顔をしているのを伺えた。
「もう少し静かにしろって」
元気になったはいいものの、ゆのと茜には少しだけ距離があった。微妙な距離感が気まずさを生むため、その間にいる翔は気を繕うことに苦悶していた。
「もうー、茜だってもやもやするんですよ。許してください」
「というか今のも、ゆのは聞いてるだろ」
いつもの席に座っているゆのを見ると、置いてあった冷めた昼ごはんを食べていた。嬉しそうに食べているかなり呑気なその行動に、逆に茜は距離の取り方を掴めないでいた。
「大丈夫だって言ってるだろ。佐口が思ってるより事態は深刻じゃないから」
「いや、いやいや、だから無理ですってそれは。そんなこと言われても信じられませんって」
「はぁもうわかった」
翔が茜の腕を掴む。その一瞬の硬直の後、茜は気付くとゆのの前に出されていた。ゆのと目が合う。不思議そうな、そんな目だった。口元が油で艶めいている。茜は口が開かない。いつものようにと思うといつものようにいかないジレンマに、頭を抱えたくなってしまいモジモジとした。
「なに、茜ちゃん?」
ゆののきょとんとした表情と、なにも思っていないかのような声音。茜は歯痒くなってなにも考えずに思ったことを口走る。
「ゆ、ゆのちゃん。茜、ひどいことしたんだよ?なんでそんな」
「ひどいことなんてした?」
「したよ。無理矢理手を繋いで、それで」
「ありがと、私を引っ張ってくれようとして」
うっ、と情けない声を茜が漏らした。茜が自分のことを責めないようにとゆのがそう言ったのはわかってても、なにも言い返せなくて言葉を詰まらせる。困った末に、隣にいる翔の袖を引いて、涙目で見つめた。
「木崎先輩。ゆのちゃんがめっちゃ大人です。やべえ、やべえとしか頭に浮かびません」
「なにがやばいんだよ」
「だって茜のやったことが、そんな、許されることじゃないのに……」
「わかった……ゆの。ちゃんと話をしてほしいんだ。2人のために」
わかった、と頷くゆの。無理をしていたことは3人ともわかっていた。茜はもう一度ゆのの方を向く。泣きそうな顔が、ゆのの顔を見せてくれなくて拭ってから声を出す。
「ゆのちゃん……ごめん……」
「私ね。茜ちゃんに手を繋いでもらったことは嬉しかったんだ。一瞬だけ、茜ちゃんの手のぬくもりを感じて、嬉しいはずなのに。私、怖くなって……」
ゆのは自分の手を見つめた後、茜の方を見て悲しさを隠すように笑った。
「ゆのちゃん…強がらないでよ…茜を叱ってよ……悪いことしたのは茜なのに……」
「茜ちゃん、隣に座って?」
突然の優しさのこもる言葉に疑念を持ちながら、ゆのの隣にあった椅子に座る。叱られるんだろうなという茜の気持ちとは裏腹に、ゆのは茜の頭に手を置いた。
茜には、震えている感覚もわかる。少しずつ伸ばされ、やっと触れた髪の上。優しく2回ほど撫でて、それですぐに離すだけだったけれど。
「あ……」
茜の寂しそうな声。ゆのの笑顔がいっそうに寂しく思う。
「今は、これだけしか出来ないけど。いつかはあの時みたいに手を繋いで、はしゃぎたいね」
「ぅ……うん……ゆのちゃん……ごめんね……」
そんな2人。触れられない範囲でのふれあいが、2人の最大の和解であった。翔はそれを微笑ましく見届けて教室の前の方を見ると、どうにも居心地の悪そうな女子生徒と目が合い、逸らされる。そして優しく笑う佳恋の声も聞こえた。
昼下がりにはすでにもうこの教室に来る人もおらず、ただただ4人だけの集まりとなっていた。1日目が終わるという気持ちが4人を襲い、はやくて遅い、そんな1日に憂鬱を漏らす。
「ほんと、疲れました……佳恋先輩もお疲れ様です」
「明日は今日ほどこないとは思うけど、明日も乗りきろうね佐口さん!」
「そのことなんですけど……」
口ごもった茜。佳恋はハテナを浮かべて話を聞く。
「ええと、茜は明日、クラスの方に出ないといけなくてですね……ここに顔出す時間も減るかと……」
佳恋は見るからに残念そうにした。
「そっかー……まあ仕方ないよね。木崎くんは?」
「俺は、役割分担に名前はひとつもないですから暇です」
「うわ、木崎先輩悲しいですね」
茜の本調子が見えて、翔は少し安心する。あの後も少し落ち込んでいた茜はどうも心地が悪く、翔は話しかけ辛くなっていた。
「俺抜きで話が進んでたんだよ。恐ろしいよな」
「失望した顔してたからですよ。今はそんな暗い顔してないから、なんか変わりましたね?先輩」
「ね。木崎くん、いい顔するようになった」
2人から視線を向けられて困る翔。そんな3人のやり取りを自分のお気に入りの席でぼんやり眺めていたゆのは、ひとつ考え事をしていた。
──今、翔と手を繋ぐことが出来るのか。茜との件で少し疑心を持ち始めた。もし拒絶してしまえば、多分、それはゆの自身にとってもショックで。
1日目の終わりのチャイムが鳴り、盛り上がりが再び聞こえた。多分それは終わりを惜しむ人々の声。ここにいる4人の解散も知らせるそのコールが、ゆのの胸に響く。時間の流れは心を整理する時間すら自由に与えてはくれない。
「ゆの。少しだけ待っててくれ。教室に行かなきゃならないから」
こくり、と翔の言葉に一度だけ頷く。茜がカーテンを開け放つと外の光が強く射し込む。外は昼までとは変わって少し曇っていた。
「あら、明日から秋雨かな……」
佳恋が悲しそうに言う。
「まあ、天気は仕方ないですよ」
雰囲気を保とうと明るく発した茜は、時間を確認してもう行かなきゃ!と慌てはじめる。
それを機にゆのを置いた3人は一度教室を離れ、ひとりになったゆのは自分の手を見つめた。仄かに暗い教室で、不安を殺すように指先を動かして暇を潰す。
「大丈夫、かな」
ぽつりと零した声が教室に響くこともなく消える。1人が不安なわけじゃない。そんなのはとっくに慣れている。だけどそんなものじゃない不安。ゆのを襲うものは、違う形で心の中を侵食しようとしていた。
──翔の気持ちはどうだろう。私を、ずっと見てくれていて、これからも見てくれると言ってくれた人。そんな優しい翔は、もしかしたら私を……。
安心してしまう。
甘えてしまう。
自分の気持ちがずっと心に残らないでほしい。
だって。
「翔には、幸せになってほしいから」
それは、ゆのにとって苦しいことだった。頭に浮かぶ、優しくて、小さい頃からずっと触れていた手。離れればもしかしたらもう触れることが出来ない、という思いがゆのを焦がす。
きっとそれはゆのにとって、考えてはいけないことだった。
○○○○○
翔の母親が仕事から帰るのが早かったらしく、帰りにゆのと翔は車に乗っていた。後部座席で2人、両端に寄り言葉も交わさない。それは暗くなってきた空の影響か、2人は憂鬱な気分にさせられる。ゆのが空を眺める。薄暗い雲が空を覆い、晴れそうもない。翔はそんなゆのの横顔を見てはっきりとした苦しさを覚える。少しして雨が降り始め、窓に雨粒がつき始めてもゆのは空から目を離しはしない。窓に映り込む憂いを帯びたゆのの顔が、翔には触れられないものと感じてしまう。声をかけられない。
家に着くと、本降りも近いのか段々と強くなっていた。
「これは明日大雨か……家族はいるのか?」
多分、とだけ小さく呟いて、ゆのの家の前で車のドアを開ける。
「ま、待って。とりあえず俺の制服で」
「それしたら返せないよ」
「明日でいいから」
ゆのの頭に翔の大きな制服がかけられる。有無を言わせず急かす翔には、ゆのはなにも言い返せずにそのまま家へと走り込む。振り返るともう車はない。
翔は少しだけ悲しかった。下校時間となり教室に戻るとすぐに言われた言葉。「ほんとに、私にばっかり構わなくてもいいんだよ」というただひとつ。ゆのにとっては心配しての言葉なのだろうということは、翔にもわかってはいた。それでも、出来るわけがない。ゆのは翔にとって本当は憧れで、大切で、そんな人。恋とは似ても似つかない思いが未だに拭えないせいで、元のゆのを投影して、自分で勝手に落ち込む。
「心ではわかってると思ってるのにな」
脱ごうとした制服がないことを思い出す。翔は自分の部屋のベッドにそのまま転がり雨の音だけを耳に入れる。




