第9話 幽霊になった少女
クリスティーナが十三歳になった頃、妹のフローラは学園に通い始めていた。多くの友人もでき、放課後には屋敷に友人たちを招いてお茶会を開くことも増えていった。
しかし、フローラにはずっと気になっていることがある。庭の隅、少し離れた場所に古い離れが建っている。そこだけ時間から取り残されたような、ちょっと近づきがたい建物。人気もなくシーンとしており、誰かが近づいているのを見たこともない。気になって母に聞くけれども、「あそこは誰も住んでいないのよ」といつもそう言っていた。
それでもフローラは時々思うことがあった。窓になんとなく灯りが点いている気がする夜があり、風もないのにカーテンが揺れて見える日もある。誰もいないはずのその場所へ行って一度だけ「…誰かいるの?」と呼びかけたことがあったが返事はなかった。すぐ使用人に見つかり、慌てるように自室に戻された。
フローラは、離れにいるかもしれない誰かのことを何も知らなかった。物心ついた時には、使用人も家族も誰も口にしなかった名前だったのだ。「あの離れにはやっぱり誰か住んでいるんじゃないの?」そう尋ねた時も、母は困ったように笑うだけだった。
友人たちとお茶会をしている時、フローラは少しだけ寂しかった。
(姉妹がいたら、こういうことがしたかった…)
その日も、庭でお茶会をしていた。ふと、友人の一人が視線を上げる。
「あら。あそこ、誰かいらっしゃいますの?」
全員が離れの方を見ると、窓のそばに小さな人影があり、じっとこちらを見ていた。
「え……?誰も住んでいないはずでは」と誰かが呟いた次の瞬間、一人が「きゃっ!」と悲鳴を上げた。
「幽霊じゃありませんこと!?」
「離れに誰か立ってますわ!」
「やだ、怖い!」
友人たちが、一斉に椅子から立ち上がる。
フローラだけが、動かなかった。じっとその人影を見つめながら、…やっぱり誰かいるの?と思う。けれど、人影はすぐに窓から離れ、見えなくなってしまった。
「フローラ様、大丈夫ですの?」
友人に声をかけられ、フローラは我に返る。
「え……ええ、大丈夫よ。きっと、使用人の誰かでしょう」
そう笑って、その場を取り繕った。
けれど、心の中では確信に近いものがあった。あそこに、誰かいる。きっと、私の姉妹かもしれない、と。その夜、フローラは改めて母に尋ねた。
「お母様。離れには、本当に誰も住んでいないの?」
母の顔が、一瞬だけ強張った。
「……どうして、そんなことを聞くの。」
「お友達が、窓に人影を見たと言っていて」
母はしばらく黙っていたが、やがて
「気のせいよ。あそこは古いから、木の影か何かでしょう。あの離れには絶対に近づいたらいけません」
とだけ答えた
フローラはそれ以上聞かなかったが、その夜は眠れないまま天井を見つめていた。
(なぜ近づいたらいけないんだろう)
一方、離れの中では、クリスティーナが窓辺から離れ、寝台に戻っていた。見られたことは分かっていたが、もう驚きもしなかった。
「……幽霊、か。間違ってはいない」
その夜、じぃじが訪ねてきた。クリスティーナは、いつものように、ぽつりと言った。
「じぃじ」
「なんじゃ」
「今日、私幽霊になった」
ブレイバーンは、片眉を上げる。
「ほう?」
「フローラの友達に見つかって。幽霊だって」
ブレイバーンは一瞬だけ黙り、それから静かに言った。
「ほっほっほ、それは違うじゃろ。幽霊には名前がない。お前にはクリスティーナという名があるじゃろ」
その一言に、クリスティーナの表情がほんの少しだけ揺れたが、何も言わなかった。けれど、その夜はいつもより少しだけ長く、じぃじがそばにいた。
季節が巡り、クリスティーナは十四歳になっていた。
じぃじとの日々は続いており、言葉は増え、質問もするようになっていた。けれど、「もう、期待しない」という一線だけは、変わらないままだった。
ある日、街から帰る途中、裏門へ向かう小道でクリスティーナは立ち止まった。
本邸の庭園が見え、ちょうど来客たちが帰るところだった。令嬢たちが、口々に話している。
「フローラ様って、本当に素敵。公爵家にはお一人しかお子様がいらっしゃらないのよね。」
「ええ、一人娘ですもの。」
クリスティーナの足が、止まった。誰も嘘をついているわけではない。本当に、そう紹介されたのだ。『公爵家の一人娘、フローラ』―クリスティーナという名前は、最初から存在しないことになっていた。




