第8話 見せる相手
その次の日も、またその次の日も、ブレイバーンは通い続けた。
「昨日の本、どうじゃった」
「……別に」
「そうか。面白くなかったか」
「……普通」
「普通か」
ブレイバーンは、それだけで満足そうに、少しだけ笑った。
十日ほど経った頃、クリスティーナは寝転んだまま呟いた。
「お茶が飲みたい」
その瞬間、コップが宙を漂い、口元へと運ばれてくる。起き上がる理由がなかった。誰も見ていないし、誰も気にしない。だったら動くだけ無駄だった。
「リリティーネ」
「…なに」
「起きろとは言わん。じゃが、その魔法、誰かに見せられる技じゃないぞ」
「見せる相手なんていないし」
その返事に、ブレイバーンは少しだけ黙った。
「…そうか。なら、ワシがおる時くらいは、もう少し手の込んだ魔法を見せてくれんか」
クリスティーナは、初めて老人の方をじっと見た。
「…めんどくさい」
「見せる相手が、ここにおる。毎日、来ておるじゃろう。」
クリスティーナは何も答えなかった。
けれどその日から、寝転んだまま魔法を使うたび、ほんの少しだけ、じぃじの反応を横目でうかがうようになった。
それから、季節がいくつか巡った。最初のうちは、変わらなかった。じぃじが来ても、口数は少ないままだった。
「体調はどうじゃ、リリティーネ」
「…別に」
それでも、じぃじは毎日通い続けた。
半年ほど経った頃、クリスティーナは少しだけ起き上がるようになっていた。寝台の上に座るだけ、ではあったけれど、じぃじは何も言わず、ただ少しだけ目を細めただけだった。
「リリティーネ」
「なに」
「今日は魔法の話をしようか」
「…別に、興味ない」
「そうか」
じぃじは、勝手に古い魔導書を広げた。
「じゃあ、ワシが独り言を言うだけじゃ」
そうやって、じぃじは毎日、誰にともなく話し続けた。魔法陣の仕組みや魔力の流れ方、古い時代の術式。聞いているのかいないのか、クリスティーナはいつも壁の方を向いていた。
ある日、じぃじが広げていた本の魔法陣を、クリスティーナがちらりと見た。
「…それ、効率悪い」
じぃじの手が止まる。
「ほう?」
「ここ、無駄に大回りしてる。もっと短くできる」
じぃじは、静かに図を見つめた。
「誰に教わった」
「誰にも。見てたら、分かる」
じぃじはしばらく黙っていた。それから、
「…そうか」
その声は、いつもより少しだけ震えていた。
(この子は、本当は、ちゃんと考えることをやめていない。)
その日から、じぃじは少しずつ本の難易度を上げていった。クリスティーナは相変わらず「別に」しか言わなかったけれど、渡された本は、いつの間にか読み終えられていた。
「リリティーネ」
「なに」
「立ってみるか」
「嫌」
「…怠け者じゃのう」
「魔法の方が早い」
寝転んだまま、コップが宙を漂う。じぃじは腕を組んだ。
「せめて、自分の足で歩け」
「めんどくさい」
一年ほど経った頃、クリスティーナは少しずつ離れの外に出るようになっていた。とはいえ遠くへは行かず、庭の隅で地面に生えた雑草を眺めているだけだった。
「リリティーネ」
「なに」
「それは白露草じゃ」
「……」
「薬になる」
クリスティーナは答えなかった。けれど、次にじぃじが来たとき、同じ場所にまた座っていた。
「これも、薬草?」
初めて、クリスティーナの方から尋ねた。じぃじは一瞬だけ驚いた顔をし、それから穏やかに笑った。
「そうじゃ。熱冷ましになる」
それから少しずつ、クリスティーナはじぃじに質問をするようになった。まだ笑うことはなかったし、まだ素直に喜ぶこともなかったけれど、言葉は確かに増えていった。
「リリティーネ」
「なに」
「お前、本当に才能があるな」
「…別に」
「褒めてるんじゃぞ」
「知ってる」
その返事に、じぃじは声を立てて笑った。
「ほっほっほ! 素直じゃないのう!」
クリスティーナはそっぽを向いたが、その口元がほんの少しだけ緩んでいたことに、じぃじだけが気づいていた。そして、クリスティーナ自身はまだ気づいていなかった。自分が最後に笑った日を、もう思い出せなくなっていたことを。




