第7話 帰ってきた大魔法師
クリスティーナは、何も言わなかった。
言葉が出なかったのだ。
(今日だけ、じゃない。いつもそうだった。七年間、ずっと)
指先が、震え始めた。庭の花が一斉に萎れ、テーブルクロスがばさりと舞い上がった。
「きゃあっ!」
悲鳴が響き、グラスが割れ、風が渦を巻く。
「フローラ様をお連れして!」
侍女の一人が、とっさにフローラを抱き上げた。
「え……?」
視界が大人の肩越しに大きく揺れる中、フローラが最後に見たのは、遠くに立つ誰かの小さな影だけだった。顔も、はっきりとは見えなかった。
「クリスティーナ様が――!」
「また、あの子が!」
そのままフローラは屋敷の奥へと連れて行かれた。何が起きたのか、誰も詳しく教えてくれなかった。ただ、その日からフローラの記憶の隅には、小さな疑問だけが残ることになった。
(あの子は、誰だったんだろう。)
クリスティーナは、それを他人事のように聞いていた。
(また、って言われた。またって、何度目だっけ。もう数えていない。)
意識が、ゆっくりと沈んでいく。誰かが自分の名を呼んでいる気がしたが、もう、どうでもよかった。
「……十一歳で、二度目か。」
前公爵は窓の外を見た。離れ…かつて自分が命じた場所である。
「あの子を置いたのは……私だ」
小さく呟いたものの、その言葉を認めることはできなかった。長年積み上げた誇りが、それを許さなかったのだ。しばらくして、老人は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。何年も前に交わした、たった一言の約束
『縁があれば、また会おう。』
数日後。離れの扉が、コンコンと鳴った。
クリスティーナは、寝台に横になったまま、目だけを扉へ向けた。返事はしなかった。誰であろうと、関係なかった。
扉が開くと、見覚えのある白髪混じりの老人が立っていた。
クリスティーナは、しばらく老人を見つめた。思い出すまで、少し時間がかかった。
ブレイバーンは、部屋の惨状を一目見て、それから寝台の少女を見た。痩せた頬、生気のない目、伸びっぱなしの髪。老人は、静かに息を吐いた。
「随分と、泣き虫な顔になったのう、リリティーネ」
クリスティーナは、眉をひそめた。
「……何それ。リリティーネじゃないし」
「いや」
ブレイバーンは静かに笑った。
「お主が、最初にそう名乗ったんじゃぞ」
「……は?」
「八年前、熱にうなされながら目を覚ましたお主が、辿々しい愛らしい声で言ったんじゃ。――りりてぃーね、と」
クリスティーナは何も言えなかった。覚えていない、覚えているはずがなかった。けれどなぜか胸の奥が少しだけざわついた。
「……知らない、そんなの」
「知らなくていい」
ブレイバーンは椅子を引き寄せて座った。
「ワシだけが、覚えておればいい話じゃ」
沈黙が落ちた。窓の外で、風が鳴っていた。
「……何。これから私をどうするの」
投げやりな声だった。
「どうにもせん」
「は?」
「ただ、ワシが来るだけじゃ。毎日な」
クリスティーナは、初めて老人の顔をまともに見た。
「……意味分かんない」
「分からんでいい」
ブレイバーンは立ち上がった。
「今日はこれだけ言いに来た。明日も来るぞい、お前が何と言おうとな」
そう言い残し、老人は部屋を出て行った。
クリスティーナは、しばらくその扉を見つめていた。
(また来るなんて、嘘に決まってる)
けれど、翌日になるとコンコンと扉が鳴った。
クリスティーナは寝返りを打って扉に背中を向けた。同時に扉が開く音がする。
「今日も来たぞ、リリティーネ」
返事はしなかった。
ブレイバーンは椅子に座り、持ってきた本を机に置いた。
「本を読むか」
「別に」
「読まなくていい。置いていくだけじゃ」
それだけ言うと、老人はしばらく黙って座っていた。何をするでもなく、何を話すでもなく、ただそこにいた。
日が傾く頃、ブレイバーンは静かに立ち上がった。
「では、また明日」
返事はなかった。老人が去ったあと、部屋にはまた静けさが戻った。いつもの静けさのはずだった。クリスティーナは机の上の本を見た。別に読みたいわけではない。ただ、そこに置かれたものを少しだけ確かめたかっただけだ。
そっと手を伸ばした。




