第6話 最後の期待
九歳のある日、書庫の窓から庭が見えた。母がフローラの手を引き、笑いながら何かを話している。クリスティーナは、その光景をしばらく見つめていた。
「……」
胸の奥が少しだけ痛んだけれど、涙は出なかった。昔なら泣いていた。母に気づいてほしい、こちらを見てほしいと思っていた。けれど、
(……もう、いい)
そう思うことに少しずつ慣れていった。期待しなければ傷つかないし、望まなければ失うものもない。そうやってクリスティーナは、自分の心に小さな蓋をすることを覚えていったのである。
十歳の誕生日にも、扉の前には、いつものように小さな包みが置かれていた。今年も、同じ白いうさぎのぬいぐるみだった。もう何体目になるのか、クリスティーナは数えるのをやめていた。
その年の初夏、庭でお茶の香りが漂っていた。クリスティーナは、いつものように書庫の窓辺から、その様子を眺めていた。
母と父の声。二人だけで、庭のテーブルについていた。フローラの姿はなかった。
「……あの子は」父の声が、風に乗って途切れ途切れに届く。
「……もう、五年になるか。」
母は、何も答えなかった。カップに口をつける音だけが静かに響いた。
「……目が覚めない方が、幸せだったのかもしれない」
その一言だけが、はっきりと、クリスティーナの耳に届いた。
「……」
それ以上は、聞こえなかった。風向きが変わったのか、二人の声は、また途切れ途切れの音に戻っていった。
クリスティーナは、窓辺に座り込んだまましばらく動けなかった。
(……そう、なんだ)
目を覚まさなければ、よかった。生きていなければ、よかった。そう言われた気がした。
涙は出なかった。ただ、胸の奥にあった小さな期待—いつか気づいてもらえるかもしれない、という淡い望み—が、静かに、音もなく崩れていくのが分かった。
十一歳になる頃にはクリスティーナはほとんど誰とも口をきかなくなっていた。食事は置かれれば食べ、湯船は勝手に満ちる。本は読みたい時だけ読み、それ以外は寝て過ごした。起き上がる理由がなかったのだ。誰も見ていない。誰も気にしない。だったら、頑張る意味なんてどこにあるのだろうか。
離れの寝台でクリスティーナは天井を見上げていた。
「……」
昔は、誰かが来てくれるかもしれないと扉の音を待っていた。けれど、今は違う。どうせ誰も来ないし、どうせ、また置いていかれる。だったら最初から期待しなければいい。最初から期待をしなければ無駄に傷つくこともない。
「……ばかみたい」
小さく呟いたその言葉が誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
クリスティーナは十一歳になっていた。
その年の春、離れの外がいつになく騒がしかった。
「今日はフローラ様のお祝いですって」
「お友達も呼ばれているそうよ」
クリスティーナは、寝台に横になったままそれを聞いていた。聞き流すことはもう慣れていた。
けれど、その日はなぜか身体が勝手に起き上がった。
理由は分からない。ただ確かめたかった。自分がまだ何かを感じられるのか、それとも、もう何も感じないのか。離れを出て庭園へと向かった。七年ぶりに、自分の足で。
庭園には色とりどりの花が咲き、白いテーブルクロスの上には、たくさんの子どもたちの笑い声が響いていた。その中心には、美しく着飾り、大人たちに囲まれた笑顔のフローラの姿があった。
クリスティーナは、その輪の少し手前で立ち止まった。自分でも何をしに来たのか分からない。ただ、そこに近づきたかった。ただ、それだけだった。
侍女の一人が、先に気づいた。
「……姫様?」
その声には怯えが混じっており、周囲がざわめいた。
「まあ、あの子…なぜここに」
母が振り返り、一瞬目が合った。七年ぶりにまともに目が合った瞬間だった。けれど、その目はすぐに逸らされてしまう。
「……下がりなさい」
低い声だった。
「お願いだから。今日だけは」




