第5話 誰も呼ばない名前
ニーナがいなくなってから、離れの扉はほとんど開かなくなった。食事も数日分まとめて置かれるようになり、硬いパンや日持ちのするチーズばかりで、温かいものはもう出てこなかった。
浴室だけは、なぜか困らなかった。魔道具の湯船が決まった時間に勝手にお湯を張り、決まった時間に勝手に排水する。誰の手も借りず、誰の目にも触れず、クリスティーナはそれだけで生きていくことができた。
(……ひとりで、できる。)
幼い少女はそう覚えた。お腹が空けば置かれた食事を食べ、寒ければ毛布にくるまり、汚れれば魔道具の湯に入る。誰かを呼ばなくても、誰かに頼らなくても——それで済んでしまう。けれど同時に、
(誰も、来なくていいってことだ。)
そうも理解してしまったのだった。
五歳のクリスティーナは、まだ多くを理解していなかった。なぜ自分だけがここにいるのか、なぜ誰も会いに来てくれないのか、分からないままだった。そして、その分からないことこそが一番苦しかった。
ある日、風に乗って声が聞こえてきた。
「クリスティーナは?」
その瞬間、少女はハッと顔をあげた。
聞き間違いではない、母の声だった。小さな足で窓へと駆け寄る。久しぶりに聞いた優しい声で自分を呼ぶ声だと、そう思った。けれど、続いた言葉に足が止まる。
「まあ、いいわ。フローラ、こちらへいらっしゃい。」
「……」
窓辺に伸ばした小さな手が、ゆっくりと下がった。母が呼んでいたのは、自分ではなかった。
分かっていたはずなのに、分かっていても、クリスティーナはその場に座り込んで泣いた。理由は自分でも分からなかった。ただ、あの声に呼ばれたかった。ただ、それだけだった。
母の温もりを、ほとんど覚えていない。覚えているのはたった一度だけ、熱に苦しみ眠り続けていた時のこと、誰かがそっと頬に触れた気がした。あの優しい手の感触だけだった。それが母だったのか夢だったのか、今となっては分からない。それでもクリスティーナは、その温もりだけを覚えていて、何度も思い出し、何度も求めた。けれど返ってくるものは、何もなかった。
季節が変わっても、同じことが繰り返された。庭から聞こえる笑い声、食器の触れ合う音、誰かの誕生日を祝う歌——そのたびにクリスティーナは窓辺に座り、泣いた。それを幾度も繰り返し、やがて涙を流すことさえなくなっていった。
離れに移されてから、最初に迎えた誕生日の朝には、扉の前に小さな包みが置かれていた。差出人の名前はない。開けてみると、白いうさぎのぬいぐるみが入っていた。
「…なに、これ?……」
手紙も、ひとことの言葉もなかった。ただ、ぬいぐるみだけが、そこにあった。クリスティーナは、それを抱きしめてみた。誰かが誕生日を覚えていてくれた、ということなのか。それとも、義務でそうしているだけなのか。分からなかった。
それでも、その夜だけは、ぬいぐるみを抱えたまま眠った。次の年も、その次の年も、同じように包みが届いた。会いに来ることは、一度もなかった。
七歳になった頃、クリスティーナは離れを抜け出すことを覚えた。行き先はいつも同じ、本邸の裏手にある古い書庫——かつて前公爵が夜更けまで神獣の記録を読みふけっていた場所である。今ではほとんど人が訪れず、埃をかぶった棚には色褪せた背表紙が並び、誰にも開かれることのなくなった古い本たちが眠っていた。
クリスティーナは、その中に小さな身体を埋めるように座った。
魔法理論、薬草学、古い王国史——読めない文字もあれば、意味の分からない記述もあった。それでもクリスティーナはページをめくり続けた。本は何も聞かなかったし、どこかへ行くこともなかった。ただ、そこにある。それだけで良かったのだ。
ページをめくる音だけが、静かな書庫に響く。誰も話しかけてこない。誰も何かを求めてこない。その静けさが、幼い少女には心地よかった。




