第4話 最後のぬくもり
熱が引いてから、クリスティーナは離れへ移された。
「公爵家の安全のためだ」
前公爵はそう告げたが、使用人たちはあの日の魔力暴走を忘れておらず、誰も進んで離れへ近づこうとはしなかった。食事は冷めたまま置かれ、服も季節に合わないまま放置され、髪も伸びるに任せて絡まっていく。三歳の少女は、日に日に痩せていった。
そんな中、たった一人だけ離れへ通う使用人がいた。侍女のニーナである。まだ経験も浅い若い侍女だったが、多少の防御魔法を扱えたことから、「万が一、再び暴走した際にも身を守れる」という理由だけで離れの世話係を命じられたのだった。決して志願したわけではなく、最初は彼女も怖かった。
「……失礼します」
扉を開ける手は、小さく震えていた。クリスティーナは部屋の隅で膝を抱えて座り、小さな腕で膝を抱き寄せながら、じっとニーナを見つめている。ニーナもまた、その幼い瞳を静かに見返した。
「……ねぇ」
「はい、姫様」
「わたし……わるいこ?」
ニーナの胸が締めつけられた。
「どうして……そう思われるのですか」
「みんな……いない。おかあさまも。おとうさまも。おじいさまも」
「……」
「りり、わるいこ?」
ニーナは言葉を失った。違う、とすぐに答えたかった。けれど、どうして姫様がここにいるのか、その理由を知る自分には軽々しく口にすることができなかった。
部屋には、風が窓を揺らす音だけが響いていた。長い沈黙のあと、ニーナはそっと膝をつき、クリスティーナをなだめるように笑顔を作って口をひらく。
「お食事を、お持ちしました」
クリスティーナは小さく頷いた。ただ、小さな瞳からは涙があふれていた。ニーナは何も言えなかったが、代わりにそっとハンカチで頬を伝う涙を拭った。
それが、毎日続いた。
「今日は少し、風が冷たいですね」
「……」
「お加減はいかがですか」
「……」
返事はほとんどない。それでも、ニーナは毎日話しかけ続けた。その声だけは、決して途切れることがなかった。
ある日、いつものように食事を運んだニーナに、クリスティーナが初めて動いた。とてとてと小さな足が部屋に響いたかと思うと、小さな腕がニーナの腰へと回る。ニーナは思わず息をのんだ。
「……姫様?」
ニーナは固まったが、クリスティーナは何も言わず、ただ離すまいとするように小さな腕へ力を込めた。
「……」
ニーナはしゃがみ込み、恐々と、けれど確かに、そっと小さな背中に手を回す。
「……大丈夫ですよ」
その一言に、クリスティーナは初めて声を出して泣いた。
その頃、本邸では妹が生まれていた。フローラと名付けられた美しい赤子は穏やかな魔力を持ち、屋敷中が喜びに包まれた。だが、離れの少女のことを気にかける者は誰もいなかった。
季節が巡り、クリスティーナは五歳になろうとしていた。いつものように、ニーナが離れの扉を開けた。その顔が、いつもと違っていた。
「……姫様。実は、お話があります。」
クリスティーナは、その顔を見ただけでなんとなく分かった気がした。
「私、実家に戻らなくてはならなくなりました。父が、身体を悪くして」
クリスティーナは何も言わなかった。言葉の意味はすべて分かったわけではなかったが、それでももう会えなくなることだけは、幼い胸にも伝わっていた。とて、とてと小さな足で歩み寄ると、いつもよりずっと強く、ぎゅっとニーナへ抱きついた。
ニーナはその小さな身体を抱きしめ返し、しばらくそのままでいた。「また会いに来ます」「忘れません」「大丈夫です」—何度もそう言おうとしたけれど、そのどの言葉も、幼い姫君に対する残酷な約束になる気がして、口にすることができなかった。
翌日、クリスティーナは朝から扉を見つめて待っていた。けれど、その日、扉を開けたのはニーナではなかった。無言で食事だけを置く使用人は、目も合わせず、すぐに去っていった。
クリスティーナは窓辺に座り、庭を眺めた。春になれば咲く花、風に揺れる木々、遠く聞こえる鳥の声。
それは以前、ブレイバーンが話してくれた世界そのものだった。けれど今は、それを一緒に見てくれる人はいなかった。




