第3話 謎の老人、ブレイバーンの来訪
その後、前公爵は震える手で一通の手紙をしたため、宛先には若き日の戦友の名を記した。
「ブレイバーン殿」
数日後、旅装束のまま現れた老人に、前公爵は深く頭を下げた。
「孫が危ない。歴代の記録も、禁書も調べ尽くした。だが、どこにも答えがないのだ。もう医師にも見放された。……お前しか、頼れる者がおらん」
ブレイバーンは何も言わず、そのまま離れの寝台へと向かった。汗にまみれて震える小さな身体に、老人はそっと手をかざす。
「……これは、ひどいのう。魔力が暴れておるのではない」
前公爵が眉をひそめた。
「……何?」
「行き場を失っておる。小さすぎる器に、大きすぎる流れが押し寄せておるんじゃ。このままでは、器の方が先に壊れる」
その日から、ブレイバーンは来る日も来る日も離れへ通い、小さな身体へ静かに魔力を流し続けた。眠る少女に話しかけては本を読み聞かせ、庭に咲いた花のこと、昨日より少し高く昇った雲のこと、朝露に羽を濡らした小鳥のこと、季節が少しずつ移ろっていくことなど、そのすべてを眠り続ける少女へと語り聞かせるのだった。
「お主が目を覚ましたらのう」
老人は穏やかに微笑む。
「見せてやりたいものが、たくさんあるんじゃ。春の花も、夏の青空も、秋の紅葉も、冬に積もる白い雪も。……世界は、まだまだ美しいぞ」
返事はない。それでもブレイバーンはその日も少女の枕元へ椅子を寄せ、本を開いた。明日も、その次の日も、少女が目を覚ますその日まで。
そして、一ヶ月後。小さな指先が、そっとブレイバーンの指を握った。
「……」
老人は目を見開いた。
「おお……」
その瞳がゆっくりと開き、淡い銀色の瞳がぼんやりと老人を映し出す。
「聞こえるかの」
少女の唇が小さく動いた。
「……だれ?」
かすれた、消え入りそうな声だったが、それでも確かに届いた。ブレイバーンは穏やかに微笑む。
「わしはブレイバーンじゃ」
少女は一生懸命に口を動かした。
「わたしは……り……りてぃ、ね……」
言えたと思ったのか、小さく息をつく。ブレイバーンは目を細めた。
「そうか。お主は、りりてぃーねと言うのか。かわいい名前じゃ」
少女はふにゃりと笑った。それは、あの日初めて見せた笑顔だった。
後に、それが正しい発音ではなかったと知ることになる。
「クリスティーナ様、と申します」
侍女がそう教えると、老人は少し驚いたように目を瞬かせた。
「ほう。クリスティーナか」
少しだけ考え込んだのち、くしゃりと目尻を下げて笑う。
「……じゃが、ワシは、リリティーネと呼ぼうかの」
優しい眼差しを、眠っていたあの日の少女へと向けながら続ける。
「初めて名乗ってくれた名前じゃ。ワシにとって、お主はずっとリリティーネじゃよ」
三日後、少女の熱はすっかり引いていた。
「もう平気じゃ」
ブレイバーンはそっと額に手を当て、穏やかに頷く。
「器がまだ幼いゆえ、油断は禁物じゃがな」
前公爵は深く頭を下げた。
「……恩に着る」
ブレイバーンは小さく息をつき、首を横に振った。
「礼なら、わしではない」
老人は眠る少女へと目を向ける。
「この子に言え。このちっこい体で、よう耐え抜いた。褒めてやるべきは、この子じゃ」
翌朝、旅装束に身を包んだブレイバーンが、玄関先で杖を手にしていた。
「もう行かれるのか」
「ワシには、ワシの旅がある」
前公爵は一瞬だけ口を閉ざし、それから静かに尋ねた。
「……あの子は、これからどうなる」
ブレイバーンは答えなかった。ただ静かに屋敷を振り返ると、遠く、離れの窓が小さく朝日に照らされているのが見えた。老人はその窓を見つめ、ふっと微笑む。
「……」
「縁とは、不思議なものじゃ。結ばれる時もあれば、遠ざかる時もある」
杖を一つ鳴らし、歩き出す。
「縁があれば、また会おう」
そう言い残し、老人は旅立っていった。その時はまだ、誰も知らなかった。その言葉が、何年もの時を越えた約束になることを。




