第10話 旅立ちの前夜
その夜、じぃじが訪ねてくると、クリスティーナは静かに言った。
「じぃじ」
「なんじゃ」
「私、ここにいてももう誰も困りませんよね」
「……だったら、外へ行ってもいいでしょうか」
ブレイバーンは、しばらく答えなかった。窓の外では、夜風が庭を揺らしていた。
「……どこへ行くつもりじゃ」
クリスティーナは、少し黙った。
「……分かりません。行きたい場所も決まってません」
それでも、はっきりと続けた。
「でも、ここにはもういたくないんです。自分が存在しないことになっている場所にこれ以上いても何にもならない気がします」
やがて、ブレイバーンは、静かに口を開く。
「本当はな、もっと大人になってから、送り出すつもりじゃったんじゃよ。でも、お前はもう自分で決めたのじゃな」
クリスティーナは、静かに頷いた。
「はい」
ブレイバーンは、立ち上がった。
「では、旅支度を始めるか」
「え?止めないんですか?」
老人は、笑った。
「止めてほしかったか?」
「……少しだけ」
「ほっほっほ!正直じゃな!」
翌日から、ブレイバーンの授業は変わった。
「今日からは、実践じゃ」
「実践?」
「野営、保存食、地図の読み方、魔獣の痕跡、夜の森で迷った時の対処、人を見る目…全部、覚えるんじゃ」
クリスティーナは、目を丸くした。
「急ですね」
「急じゃ。お前はもう、旅人になるからの」
その夜、クリスティーナは離れの窓から月を見上げた。ここで過ごした年月は、長く寂しく悲しかった。もう一生分、泣いた気がする。でも、もう振り返らない。
胸の中には、不思議と、恐怖より期待があった。世界は広い、とじぃじがそう言っていた。ならば、自分の居場所もきっとどこかにあるはず。
旅立ちの前夜、クリスティーナは鏡の前に座っていた。手には、離れの厨房からこっそり持ち出した小さなナイフがあった。
「……」
長く伸びた髪を束ねて持ち上げると、一瞬だけ迷いが胸をよぎった。けれど、それも本当に一瞬だけだった。
ザク…
刃が髪を断ち、束が床に落ちていく。ザク、ザク…丁寧さなどなかったし、長さも揃っていなかったが、それでも構わなかった。床に落ちた髪を見つめると、そこには八年間分の時間が落ちているように思えた。寂しかった日々、泣いた夜、誰も来なかった朝。けれど、それらはすべて、自分が歩いてきた時間だった。捨て去るものではない。胸に刻んだまま、前へ進むのだ。
鏡の中に映るのは、短くなりあちこち跳ねた髪の見慣れない自分だった。長く伸びていた頃は重さで気づきにくかったプラチナブロンドの髪が、今は月明かりのように軽く光を弾いている。見つめ返してくる瞳は、澄んだすみれ色。光を透かすように、どこまでも透明感のある色の瞳だった。幼い頃、乳母や侍女たちが「銀色の瞳」と呼んでいたのを、微かに覚えている。あの銀は、いつの間にかこの色に変わっていたのだろう。それでも、なぜか少しだけ身軽になった気がした。
「……女の子のままだと。危ないよね、多分」
一人でつぶやいて、鏡を覗き込む。
翌朝、庭師の老人が帽子を片手にやってきた。
「これが孫の服だ」
少し大きめのシャツとズボン、それに帽子を差し出す。
「本当に、もらっていいんですか?」
「構わんよ。うちの孫の子供の頃の服なんだ」
老人はにっこり笑った。
服を着て、帽子を目深に被り、もう一度鏡を見る。
「……男の子、に見える?…たぶん」
そう呟いて、クリスティーナは小さく笑った。
(これで、少しは安全に旅ができる。)
旅立ちの朝は、静かに来た。荷物は少なく、野営道具と薬草の知識をまとめた手帳、そしてじぃじから譲り受けた古い杖だけだった。
離れの前には、いつもと変わらない穏やかな顔で、じぃじが立っていた。
「リリティーネ」
「なに」
「準備は、できたか」
「うん」
じぃじは、クリスティーナの短くなった髪を見て目を細めた。
「……ずいぶん、思い切ったことをしたのう」
クリスティーナが少し身構えて「……変?」と尋ねると、じぃじはふっと笑った。
「いや、なかなか、似合っておる」
その一言に、クリスティーナは驚いたように瞬きをした。
「……そう?」
「うむ。よく似合う」
短いやり取りだった。けれど、その短さの中に、八年分の日々が詰まっていた。
※7月27日追記
コピペに失敗して後半が欠けているのに気がつき、修正いたしました。




