第11話 初めての旅
クリスティーナは、じぃじの顔を見た。
初めて会った日、「別に」しか言わなかった日々、魔法陣を見抜いた日、薬草の名前を尋ねた日…全部、この人がそばにいてくれたからあった時間だった。
「じぃじ」
「なんじゃ」
「ありがとう」
たった一言だった。けれど、それを言うまでに八年かかった。じぃじはしばらく何も言わず、ただ静かに笑っていた。
「礼を言うのは、まだ早いぞ。ワシからも、一つ渡すものがある」
そう言って、じぃじは懐から小さな鉢植えを取り出した。
そこには一輪の花があった。オパールのような乳白色の花弁は朝の光を受けるたびに淡く七色に揺らめいて見えた。
「これは?」
「エテルナ草じゃ。珍しい花でな、枯れることがない」
クリスティーナは、その花をじっと見つめた。光の角度が変わるたびに花弁の色が静かに移ろっていく様は、まるで生きているみたいだった。
「どこへ行っても、これだけは枯れん。お前が、どんなに遠くへ行っても、これを見れば思い出せ」
「何を」
「ワシがずっと、お前の味方じゃということを」
クリスティーナの手が、鉢植えを受け取ろうとして、震えた。
「泣いてもいいんじゃぞ。もう、我慢せんでいい」
その一言で、クリスティーナの目から涙がこぼれた。八年間、一生分泣いたと思っていたけれど、まだ涙は残っていたのだ。
「……じぃじ」
「なんじゃ」
「行きたくない、って言ったら。どうする?」
じぃじは、優しく笑った。
「引き止める。でも、お前は行くじゃろう。もう、決めたんじゃからな」
クリスティーナは、袖で涙を拭った。
「……うん。行く」
「じゃあ。見送るとしよう」じぃじは杖を軽く掲げた。
門の前で、クリスティーナは鉢植えを大事に抱えたまま振り返った。
「じぃじ」
「なんじゃ」
「また、会える?」
じぃじは迷わず答えた。
「会える。ワシが、保証する」
その言葉に、クリスティーナは小さく笑った。八年間で一番自然な笑顔だった。
「じゃあ、行ってきます」
「うむ。行ってこい、リリティーネ」
クリスティーナは歩き出した。一歩、また一歩、離れが、じぃじが、少しずつ遠くなっていく。腕の中のエテルナ草はクリスティーネを応援するかのように淡く輝いていた。
(三秒後にブレイバーンが後をつける気満々だということを、クリスティーナはまだ知らない。)
離れを出て、五日目だった。
野営には少しずつ慣れてきていた。火の起こし方、水場の見つけ方、夜に獣の気配を察する方法、じぃじに叩き込まれたことが一つずつ役に立っていた。
(自分一人でも意外と平気だな。なんでもできる)
そう思う自分に、少しだけ驚いていた。
道中、誰かに見られている気配を何度か感じた。振り返っても誰もいない。
「……気のせいか」
そう呟いて、また歩き出す。
(実は、木の陰でひやりとしていたじぃじがいたことを、クリスティーナはまだ知らない。)
六日目の昼過ぎ、ようやく王都の城壁が見えてきた。
「……大きい」
思わず足が止まる。初めて見る王都の姿だった。
門をくぐると、行き交う人々、馬車の音、露店の呼び込み。離れで過ごした年月とは、まるで違う喧騒の別世界にクリスティーネは唖然となった。
その時
「魔獣だー!!」
広場の方から悲鳴が上がり、人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。荷車が倒れ、果物が転がった。クリスティーナは反射的に足を止めた。大きな影が屋根の上を駆け抜けていく。考えるより先に、身体が動いていた。
「危ない!」
誰かが叫んだ。魔獣の進路の先に転んだ子どもがいる。クリスティーナは駆け出した。
「止まれ!」
魔法陣が足元に浮かび、魔獣の四肢が一瞬だけ止まる。その隙に、子どもを抱き上げて横へ飛んだ。
(もう一撃、来る)
クリスティーナは深呼吸すると、細い糸のように魔力を伸ばした。地面に転がっていたロープがひとりでに動き出し、前足、後ろ足、尻尾へと絡みついていく。ぐるぐる、ぎゅっ。
「ギャウン!?」
魔獣は、見事に簀巻きになった。




