第44話 聖女と騎士団長、初舞踏
一瞬、大広間が静まり返った。貴族の誰かが思わず声を上げた。
「……え?」
宰相も
「……え?」と繰り返す。
前公爵も、公爵夫妻も同じ言葉を口にしていた。
クリスだけがいたって真顔だった。
「習っていないので」
前公爵の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……し、しまった」
「礼儀作法も習っていませんし」
父も、同じように青ざめていく。
「舞踏も、デビュタントの教育も…」
すべて、自分たちが奪ったものだった。前公爵も現公爵夫妻も己の過ちに今更気づいて顔面を蒼白にさせて立ち尽くしていた。
国王は、しばらく黙ったあと静かに頷いた。
「…そうであったな」
怒りも笑いもしなかった。ただ、事情を静かに受け止めていた。
「ならば、今宵は、形式に拘る必要はない」
レオンハルトが、それに続けるように静かに言った。
「実は俺も踊れないんだ…」
クリスは、驚き目を瞬かせながらレオンハルトを見上げた。
「えっ…よかったです」
「とりあえず、俺が合わせる」
レオンハルトは、それだけ言うと静かに足を踏み出した。
一歩目、クリスの足が、レオンハルトの足をしっかりと踏んだ。
「……」
「…すみません」
また一歩。今度はレオンハルトがクリスの足を踏んだ。
「……」
「大丈夫か!?」
お互い様だった。優雅とは程遠い舞踏だった。数分ほど、二人でぎこちなく足を動かし続けた頃、クリスが小さく声をかけた。
「あの…団長」
「どうした」
「足が痛くなってきました」
「ごめん…」
「違うんです、えっと…」
レオンハルトが、僅かに眉を寄せる。
クリスは、真顔で続けた。
「靴が…こんな高い靴なんて初めて履きました。歩くだけで痛かったんです」
レオンハルトは、一瞬言葉の意味を掴めなかったが、改めてクリスの足元を見つめて静かに理解した。公爵令嬢であれば、幼い頃から履き慣れているはずの靴だ。だが、クリスにとっては今夜が初めて履いた踵の高い靴。その一言だけでも、奪われていた十二年間の重さが、また一つ静かに伝わってきた。
「…少し、休もう」
レオンハルトは、神妙な顔でそれだけ言って、自然に踊りの輪から外れた。
その様子を見た貴族たちの間で、小さなざわめきが広がった。
「団長が、聖女様を気遣っておられる…」
だが、輪から外れた二人の会話はいたって現実的なものだった。
「助かりました…」クリスは、椅子に腰を下ろし、小さく息をついた。
「靴擦れか」
「はい…」
レオンハルトは、迷わずその場に膝をついた。
「どこだ?見せろ」
クリスは、何の疑問も持たず素直に足を差し出した。長年、騎士団で怪我人を診てきた癖が考えるより先に体を動かしていた。
「失礼する」
カツ、と音がしてヒールが脱がされる。その瞬間、大広間が静まり返った。貴婦人の一人が、扇子で口元を隠した。「……まあ!」「なんという…」「騎士団長ともあろう方が…」
会場の一角では令嬢たちの扇子が一斉に止まり、視線が一点に集中していた。騎士団長レオンハルトは社交界の令嬢たちの間でひそかに憧れられている存在だった。「レオンハルト様がエスコートですって…」と、今宵を心待ちにしていた者も少なくなかった。その令嬢たちの前で、レオンハルトは聖女の足に迷わず触れていたのだ。
「少し、赤くなっているな」レオンハルトは、静かに続けた。「靴が、合っていないんだな」
「歩きすぎました」
クリスが、それだけ返す。
二人とも至って真剣だった。その真剣さが周囲にはまるで違う意味に見えていた。
「…あんなに、自然に…」令嬢の一人が、震える声で呟いた。
「普段から、あのようなことを…?」
「とうとう終わりましたわ…私の初恋…!」
令嬢たちの小さな囁き声が、あちこちで上がっていた。




