アロイシャスの聖剣
前公爵は、そこで不意に言葉を止め、何かを思い出したような顔で途端に椅子から腰を上げた。その突然の前公爵の行動に、父が怪訝そうに顔を上げた。
「父上?」
「取ってくる」
「…何をです?」
「あれだ!」
「え?」
「聖剣だ!取ってくる!」
そう言うと、前公爵は貴賓室を出て行った。普段は決して人前で足を早めることのない男が、廊下を小走りに駆けていく。
「旦那様!?」
老執事が、驚いたように呼び止めた。
「道を開けよ」
老執事は、ただ立ち尽くしていた。
「…旦那様が、走っておられる…」
公爵家の東棟にある「アロイシャス・グランヴァルト記念室」は、前公爵が人生をかけて作り上げた神獣博物館とも呼ばれている。その部屋には、誰の手も借りず彼自身が毎日その手で磨き続けてきた聖遺物の数々が並んでいた。
前公爵は、古い剣の前に立ち、それから震える手で布をそっと取り払った。
前公爵は、静かに呟いた。
「…アロイシャス…ようやくお前の剣を渡す時が来た」
貴賓室に戻ってきた前公爵は、もう先ほどまでの慌てた様子ではなかった。静かな足取り、堂々と伸びた背筋、その手には布に包まれた一振りの剣が大切に抱かれていた。
クリスは思わずその姿を見つめた。
(…この人、本当にさっき慌てるように走っていった人なんですか)
父も、同じようにその姿に息を呑んでいた。
(父上が…あれほど大切にしていた剣を…?)
前公爵は、剣をクリスの前に置き静かに布を開いた。布の上には古びた鞘に納まった装飾の少ない一振りの剣が姿を現した。
「アロイシャス・グランヴァルトの聖剣だ。これを、持っていて欲しい」
クリスは、少し身を引いた。
「…私には、必要ありません」
即座の静かな拒絶だったが、前公爵は、それを驚くことなく受け止めた。
「そうだろうな」
前公爵は、小さく頷いた。
「だが、聞いてほしい。これは、お前がグランヴァルトの後継者だから渡すのではない。お前が、この剣に選ばれたからでもない。ただ…十二年間、渡すべきものを渡せなかった。これは、お前が奪われた時間の代わりにはならぬ。それでも、せめて今、渡したいのだ」
前公爵は、古びた鞘にそっと手を添えた。
「クリスティーナ。お前という存在がありながら、ワシはこの剣をただの聖遺物として記念室に飾っていた。本当は、こんな場所にあるべきものではなかったのだ。…お前に渡すべきものだった」
クリスは、何も言えなかった。しばらくの沈黙の後、クリスは静かに尋ねた。
「…実際にこれを使って戦ってもいいんですか」
前公爵は、迷わず答えた。
「当然だ。これはそもそも飾るための剣ではない。アロイシャスは、それで誰かを守った。お前も、そうしてきたのだろう」
クリスは、しばらく剣を見つめていた。
(…正直、めちゃくちゃ重い。欲しくない)物理的な重さの話ではなかった。国の英雄が振るった聖剣。歴史的価値も、金銭的価値も、考えるだけで頭が痛くなる代物だった。
だが、この人が人生で初めてまともに頭を下げて、人生で初めて孫に何かを渡そうとしている。ここで「やっぱり、いりません」と言えるほど、クリスは鬼にはなれなかった。
「………ありがとうございます…」
クリスは、静かに受け取った。その顔は、正直微妙だった。
(どうしよう、これ)
クリスは、剣に手を伸ばし柄を握った。そして静かに鞘から剣を抜く。
その瞬間、膝の上で丸くなっていたルゥがふと、小さな頭を持ち上げた。警戒するでもなく、ただ、剣の輝きを見つめている。まるで、長い時を超えてようやく誰かに再会したかのようにじっと動かなかった。
前公爵は、その光景を見て言葉を失っていた。研究者として長年追い続けてきたアロイシャスの伝説が、剣と神獣と孫という形で、今目の前で一本につながっていく。
「私は、先祖の偉業ばかりを見ていた。その血を継ぐ子を、見ていなかったのだな」
貴賓室に、長い沈黙が落ちた。その場にいた誰もが口を閉ざしていた。閉ざされていた扉の向こうにあったのは、恐怖でも禁書でもなく、ずっと渡すべきだった一振りの剣だった。三歳で閉ざされたこの家の扉を、十五歳になったクリスが自分の足でもう一度開いていた。




